1話:どこにでもいる普通の中国ドラマオタク。
『仇は取ったよ、
切なげに語られた
「うぅぅぅーー! やっぱカッコいいなーー!」
悶えながらタブレット端末を操作し、もう一度無風と
そうして今一度! と再生しようとしたその時。
「葵衣! 何やってるの? 早くしないと遅刻するわよ!」
部屋の外から母親の怒声が届いてきて、
「え? あっ、ヤベッ!」
驚いて時計を見れば、すでに時間は遅刻のデッドラインを過ぎている。
一気に血の気が下がった葵衣は、大急ぎで机の上に散らばった筆記用具と教科書を鞄に突っこむと、大慌てで部屋から飛び出した。
「ヤバい! 遅刻だ!」
「まったく、なんでアンタはいつもこうなの! 試験の日ぐらい余裕を持って出るとかできないの?」
「俺だって三十分前まではそのつもりだったって! でも、気づいたらこの時間だったんだよ!」
「どうせまだ時間に余裕があるからって、ドラマ見てたんでしょう」
「う……なぜ、それを」
玄関先で鬼のような顔をして待っていた母親に言い当てられ、お気に入りの赤いスニーカーの紐を結んでいた思わず手が止まる。
「何年母親やってると思ってるの。アンタの性格なんてお見通しよ。まったく、ドラマ好きなのはかまわないけど少しはその熱意を試験にも向けなさいよね。大学の授業料だってバカにならないんだから!」
「わかってるよ。でも安心して、単位は落とさないから」
「何よ、えらく自信があるじゃない」
「今日の試験はノートの持ち込みOKなやつだから、他に比べて楽なんだよ。出席日数だって足りてるし、相当なヘマしないかぎりは落とさないって」
靴紐を結び終えてから、仁王立ちしている母を見上げる。
しかし葵衣の説明で安心したかと思いきや、母の顔は険しさを崩してはいなかった。
「あれ? どうした……の?」
「どうしたもくしたもないわよ! ほんっと、その楽天的な思考どうにかならないのっ? お父さんそっくりで嫌になる。試験が楽だろうが、出席日数が足りてようが、遅刻して試験時間に間に合わなかったら意味ないでしょう!」
「うわっ、ごもっともすぎる!」
そうだった。どれだけ試験が楽でも、大学の定期試験は開始十分以内に席に着かなければ、試験を受ける資格がなくなるのだった。
試験が受けられなければ当然その授業の単位は落とすこととなり、次期に再履修しなければならなくなる。つまり、半年間頑張って講義に出席し続けた努力は水の泡になるということ。気づいた葵衣はすぐさま玄関を飛び出し、駅に続く道を全速力で走った。
「大丈夫、絶対間に合う!」
あと二分で最寄りの駅に到着する電車に乗ることができれば、ギリギリ試験時間に到着できる──かもしれないそんな雀の涙ほどの可能性を信じて、葵衣は冬将軍到来の冷え込みの中、悴む指先も無視してひたすら前へ前へと駆ける。
きっと、こんな葵衣の姿を見たならば、誰しもが「試験の朝からドラマなんて見なきゃいいのに」と思うだろう。
確かにそうかもしれない。
いや、確実にそうだろう。
が、しかしだ。
葵衣の中に不思議と後悔はなかった。
親の脛をかじる大学生としてあるまじきことではあるが、それぐらいさっきまで見ていた『
葵衣は高校生の頃から中華ドラマが大好きで、ここ三年ほどでもう百本以上のドラマを見てきた。その中でも金龍聖君というファンタジー時代劇は群を抜いて魅力的な作品で、最終回を見終えた今でも葵衣は心奪われ続けているのだ。なんなら今、この時、ドラマの内容を思い出すだけで全力疾走のモチベーションにすらなるぐらいに。
金龍聖君はどんな物語かといえば、主人公の無風が皇子として生まれるも殺されそうになったり、対立する国の皇子の奴隷になったりと、語るのも辛くなるほどの境遇に追い込まれるも、最後には身分をすべて取り戻し悪を討つというサクセスストーリーだ。だからなのか、中国ドラマはもともと女性ファンばかりなのだが、このドラマは男性ファンも多い。
──奴隷として扱われていた無風が皇族だと分かった瞬間に、今までバカにしてた奴らが一斉に跪いたシーンなんて、見てて最高に気分がよかったし。
不遇の立場に追いやられた無風の苦労が報われたり、功績が認められたりする度に自分のことみたいに嬉しくなる。そういった追体験を何度も味わえるから、全七十八話の長丁場を繰り返し見ても少しだって飽きない。
──あー、ドラマを思い出してたら、また見たくなってきた。
走る速度を緩めないまま、葵衣は自室のDVDレコーダーに思いを馳せる。
──よし、帰ったらもう一度一話から見直そう!
運よくも今日は試験の最終日。そして明日からは二ヶ月間という長い長い春休み。バイトもいくつか入れてはいるが、それでも最低二巡はドラマ祭りができるはずだ。
──そのためにも、まずは試験を無事に終えなきゃ!
帰ってから晴々しい気分でドラマを見るために。そう自分を鼓舞して、葵衣は二十メートル先にある駅へ向かって猛ダッシュする。
と、同時に電車の到着を知らせるベルが聞こえてきた。
──電車到着まであと三十秒か。うん、このまま改札に突っ込めば飛び乗れるな。
駅の入り口は横断歩道を渡ってすぐ。
──大丈夫、間に合う。
信号は青。葵衣はさらに速度を上げ、横断歩道へと飛び込む。
その瞬間だった。
耳を劈くような車のブレーキ音とけたたましいクラクションが突然間近で鳴り響き、葵衣は驚いて音のほうを振り向いた。
「え……?」
視界に飛び込んできたのは、暴れ馬のように車体を大きく揺らす一台の車で──。
それが葵衣の見た最後の記憶となった。
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