第十七話 新月

「……あれは」


 熱され固まった頭に、清涼な風が吹きこんだようだった。血が被さる左目とは逆の、視界の正常な右目が、シンジュとコハクの二人を捉えたのだ。

 姉妹は竜と、それにしがみつく永一を真っすぐに見上げながら、互いに手のひらを合わせるように片手をつないでいた。


「壁に……追い詰められてる。敵意もエーイチ様に向かってる……今なら……避けられない」

「ええ。いきますよ、コハク。エーイチ様を巻き込むことだけは、やっぱりワタシ嫌ですけれど!」


 もう片方の手が、それぞれ竜と永一へ向けられる。


「『血を巡るもの』」

「『記憶宿すもの』」

「『受け継がれしもの』」

「『うねり、吹き荒れ』——」


 姉妹の唇が交互にそれぞれ紡ぐ詠唱は、同一の魔術のものだった。

 同じ魔術を二者で紡ぐ。それは通常の魔術者には到底できない、同じ血を心臓から巡らせる、限りなく存在の近しい双子だからこその卓絶した術法。


 初めに異変を感じたのは、術者である姉妹自身でもなければ、永一でもなく、有翼ゆうよくなるその赤い魔物だった。永一を振り落とそうとすることをやめ、翼を通して感じる大気になにかを感じたとでもいうように、頭をかすかに上へ向ける。

 その時点で遅きに失する。螺旋迷宮に造られた偽りの生命、魔物たちにも野生の勘というものが働くのであれば、頭上を見上げる暇も惜しんでその場を離れるべきだった。

 広間に満ちる空気そのものが、ずっ、と音を立てる。


「——『我らの頭上に舞い降りよ』!」

「——『我らの頭上に舞い降りよ』……!」


 操られたのは風で、起きたのは爆発と同義だった。

 巨大な風圧が竜を襲う。目に見えない莫大な圧力がのしかかり、蠅が落ちるように竜は飛行を阻害され墜落する。


「ぐぉっ……!?」


 それは竜にしがみつく永一も同様だ。姉妹は竜もろともに永一を地面に引きずり落とす、指示通りの働きをして見せた。

 新月。

 魔術を扱って長い姉妹が、未だに単独では行使できない術の名だ。風を操り、圧縮した空気を一気に膨張させて解き放つ、大規模な魔術。

 まるで重力が十倍にも百倍にもなったかのように感じ、体の中から骨がベキベキとひび割れへし折れる音が響く気さえする。


「ごほッ」


 錯覚ではなかった。事実、肋骨の何本かが折れた。

 なにもない状態からこんな現象を生み出せるのだから、魔術というのはとんでもない代物だと、骨のへし折れる激痛の中で永一は改めて感心した。


「グ——ゥ————ゥゥッ」


 さしもの巨体も、これほどの圧力を受けて飛行はできない。翼を動かすこともできず、姉妹の目論見通り竜は白い地へと墜落していく。

 こうなれば永一も、竜にしがみついている理由はなかった。これをうまくクッションにできれば命が助かる可能性は増すだろうが、あいにくとこうも怪我を負ってしまえば命が助からない方が永一にとってはメリットがある。


 硬く、ざらついた、冷たい竜の首から手を離す。ナイフは引き抜いておきたかったが、残念ながらこの圧力に耐えながらそれをする余力はなかった。

 竜を離れ、ひとり落下する。白い地面が近づけば近づくほど、その表面にある凹凸が見て取れるようになっていく。

 はたと、昨夜の会話を思い出した。


——二階程度じゃ死にづらそうだが、頭から落ちればイケるか?

 宿で、腕の傷を治すのに窓から飛び降りようとした。結局はその怪我は、シンジュが治癒魔術……盈月えいげつなるもので治してくれたが。

 この高さなら、四階くらいはあるだろう。永一は空中で身をよじり、わざと頭を下にする。衝撃は待つほどもなく訪れるはずだった。

 逆さまの視界。

 左半分が赤い景色の中で、竜もまた墜下の憂き目に遭っている。

 ざまあない。



 落下で折れ曲がった首が再生する。

 幸いというべきか千切れはしなかったので、ぐにゃりと不格好な姿になってしまった頸部やら腕やら脚やらが元通りになるだけで、時間もかからない。あとは頭の外傷や肋骨が治った程度の蘇生だ。


「よし、すっきりした……! 怪獣の方は——」


 痛み、朦朧としていた頭は、蘇生によってこれ以上なく冴え渡っている。視界もクリアだ。

 炎の燃える幻聴も、こうなればすっかりと消え失せる。

 同じく墜落した飛竜へ目をやると、それもうまく着地はできなかったようで、足の一本をあらぬ方向に折れ曲げながらも立ち上がろうとしていた。

 再び飛び上がられる前に、ここで仕留め切るべきだ。


「ァ——ガ、ァアアアアアアアアアアアアアッ!!」

「っ、なんて声だよ」


 手負いとなり、かえって凶暴性が増したのか。広間に轟く咆哮に、永一さえ思わず足がすくんだ。

 そして足を止めると、自分が次の一手を欠いていることに気が付く。

 唯一の獲物であったククリナイフは、未だ敵の眼球に突き刺さったままだ。ほかに武器はなく、魔術もない永一には効果的な攻撃手段がない。

 生と死の境界を往復し、蘇生によってデフォルトの状態へ戻された頭は、現実的な事実をあくまで冷静に受け止めさせる。

 その冷静さを、炉にくべていた者もいた。


「姉さん。強化、お願い……!」

「コハク!?」


 本能の恐怖を呼び覚ますがごとき竜の叫びの中で、むしろ好機だとばかりに駆け出す。コハクだった。

 コハクのそばにいたシンジュも、離れた位置にいる永一も瞠目する。

 姉妹が前線に出ることはすなわち、死のリスクを格段に高めてしまう。だからこそ、戦闘時は不死である永一が盾として、そして片月を帯びた矛として動くのがこの三人組パーティのスタイルだったはずだ。

 それを破った。琥珀色の瞳に、殺意の昏い火が灯る。


「コハク——だめ、いっちゃだめです! どうしてそんなに、自分から死地に飛び込むようなことをするんですかっ。ワタシには……ワタシにはもうコハクしかいないのに——」

「しっかりしろシンジュ! こうなったらやるしかないだろうが!!」


 永一の叱咤に、シンジュはびくりと肩を震わせ、涙のにじんだ瞳を妹の背へ向ける。

 既にコハクは竜の攻撃が届きかねない範囲にまで踏み込んでいる。ここまで来てしまえば、下手に離脱しようとしても、かえって背を向けたところを狙われかねない。

 そしてなにより本人にその気はないだろう。

 あの瞳に宿る冷たい温度を、永一はひどくよく知っている。


(いや……オレよりも、ずっと)


 昨夜、シンジュは赤い満月の下で言った。コハクの心にある復讐の想いは、自分よりも強いものだと。

 ならばそれはきっと、永一よりもなお強い。自身の家族を殺し、町を壊し尽くした竜種に対する怒りと復讐心は永一にとって甚だしいが、コハクはそれよりもさらに激しく心で火を燃やしている。

 大きさも異なり、直接的に自身の里を滅ぼした種ではなくとも。ただ同じ『魔物』というだけで、その心の大火は滅却を希求する。


「ゴオオオォォォォ————!」

「……許さない」


 ぎり、と少女の口元から小さく歯ぎしりの音が漏れた。

 竜に残された右眼が、自らの領域へ踏み込んだ銀髪を捕捉する。折れていない前足を使い、虫にでもするように薙ぎ払った。


「はぁっ!」


 それを軽やかな跳躍で回避、続く追撃として振るわれた不意打ちじみた尾の一撃も、読んでいたとばかりに紙一重で体を逸らしてやり過ごす。死んで生き返るしか能のない永一には到底できない芸当だ。

 シンジュはかつて運動が苦手だったから長子苦無をコハクに譲ったのだと言ったが、それ以上に、コハクの身体能力が類まれだったためにそうしたのだろう。それを察させるには十分な軽業だった。


「うぅ——もう、終わったらたくさん叱りますからね……! 『血を巡るもの。循環するもの。留まらぬもの。調和を乱し、偏在せよ』っ」

「ありがと……姉さん」


 コハクの、その名通りの色をした瞳に紫がかった輝きが宿る。

 片月、セレイネスの欠陥魔術。不死でもない身にそのデメリットはあまりに大きい。

 しかし大型種ディソベイの質量で攻撃をまともに受ければ、どの道大抵は無事では済まないというのもまた事実だった。ならば破力を増すことで、早期決着を狙うほうが結局は安全性も増す。

 そう頭でわかっていても、恐ろしい竜を前に、妹の保力を下げるような魔術を使うシンジュの気持ちを考えれば気の毒というほかない。


「まったく無茶しやがる。そういうのはオレの担当だろう」


 非不死者が体を張っているのに、武器や魔術がないからといって永一が黙っているわけにもいかなかった。こうなれば拳ひとつだろうがないよりはマシだとばかりに、竜の足元へと接近する。


「ォォ——ォ————ォォォ!!」

「来いよ、手も足も望みならくれてやる……!」

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