第56話 睡眠不足に効く薬毒
「眠れないんです。毎晩、嫌な夢をみるんです。病院で貰った薬もあまり効かなくて、ここならいい薬を紹介してくれるんじゃないかって、近所の奥さんが教えてくれて」
と客が言った。六十は過ぎているように見える年配の女で、酷く疲れた顔をしていた。
一つにまとめた髪は白髪まじりで、猫背の姿勢も悪い。
客の前に座るのはハヤテだ。
三十代後半ほどに見える人間に化けている。
作務衣を着て、カウンターの中の座椅子に座っている。
「近所の奥さんに?」
「ええ、試供品でもらった湿布がすごく効いたって喜んでましたから」
客の老婆がそう言うと、ハヤテは膝の上の黒猫ドゥをじろっと見下ろした。
ドゥは視線を感じてさっと飛び起き、逃げ去っていった。
ついでに壁には張り付いている大きな毒蜘蛛も慌てたように姿を消した。
「眠れないならこの薬がいい。漢方だから身体にも優しいし」
と言ってハヤテは薬包を一包み取り出してカウンターに置いた。
「眠る前に白湯で飲んだらいい。いい夢がみられる」
とハヤテは老婆に優しく言った。
「そうですか、おいくらですか」
と老婆が言って手提げ鞄から財布を取り出そうとした瞬間にガラッと扉が開いて、
「お姑さん! 何こんなところで油を売ってるんですか!」
とキツい顔をした女が入ってきた。
「何を買わされてるんですか! 無駄遣いしないでくださいよ!」
「美智子さん……その……最近、よく眠れなくてね、だから、漢方のお薬を……」
と老婆が言ったところで、
「まあ、昼間テレビ見てぼーっとしてるからですよ! 少しは家事でもやったらどうです? あたしは働いてるっていうのに。眠れないから薬ですって? よくまあ、そんな贅沢が出来ますね!」
と女が怒鳴り散らしてからハヤテの方をじろっと見た。
「そんなお金があるんだったら、食費でも入れて下さいよ!」
「え、で、でも、それ以外のお金は私が……」
と老婆が言いかけて、また睨まれる。
「あ、ああ、ごめんよ。やっぱりやめておくよ」
と老婆は悲しげにそう言い、ハヤテにも「すみませんねえ」と頭を下げた。
その時、奥の部屋からハナが顔を出して、
「ただいま」と言った。
学生鞄を手に、セーラー服を着ている。
「おう、おかえり」
とハヤテが言うと、老婆が、
「娘さん? 可愛らしいわね」
と軽口を言った。
「どうも」
とハヤテが言い、ハナは面白そうな顔で老婆と女を見た。
「おばあちゃん、今あるお金で高級老人ホームでも入ったほうがいいんじゃない? 頼りになんない息子とその鬼嫁から離れたらよく眠れるよ」
とハナが言い、けっけっけと笑った。
老婆はぽかんとしてハナを見上げたが、女はキッとハナを睨みつけた。
「ちょっと、あんた! 余計な事を言わないでよ! よその家庭の事に首を突っ込むんじゃないわよ!」
「それよか、おばあちゃんが眠るより、息子夫婦を眠らせたほうがいいかな、永遠に」
「な、なんですって!!」
「頼りない息子を育てたおばあちゃんにも責任あるよ? でもさ、自分らの甲斐性がないからおばあちゃんちに転がり込んできといて、おばあちゃんを虐待はないんじゃない? 知らないの? あんた、近所で評判の鬼嫁だよ? 家の中でやってるから誰も知らないと思ってるだろうけど、おしゃべりな猫や暗闇で噂話聞くのが好きな毒蜘蛛とか結構いるからねぇ」
噂話という物は馬鹿にしてはいけない。
家の中の事だからと安心していても、悪事は必ずどこからか漏れる。
女がこの家に嫁いできてから、夫の母を粗末に扱っているのはすでに近所中で噂だった。
自分では小声のつもりでも、激昂した女の金切り声は響いていた。
食事も別で風呂も滅多に使わせない。
買い物や洗濯だけは姑にやらせて、それの文句だけは姑に当たり散らす。米や酒、重い荷物をフウフウ言いながら運ぶ姑の姿が気の毒だと近所でも評判になっていた。
息子は両方から責められて、嫁と母の間に入るのが嫌で家に帰ってこなくなっていた。
「いい加減な事を言わないでよ!」
ハナの暴言に女はかっかとなったが、老婆はぷっと笑った。
「そうね、お嬢さん、ありがとう。あの家はお父さんが残してくれた私の家だものね。誰に遠慮することないわね」
と老婆が言って笑った。
「お姑さん!」
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