第二章 母との出逢い

       一

 公園の裏通りは時間を二十七年遡っても、まったくと言っていいほど変わってはいなかった。実際には変わっていたかも知れないが、耕平の目にはそう見えた。ついに一九九〇年のまだ見ぬ世界へやって来たかと思うと、わけもなく胸がドキドキするのを押さえることができなかった。

 さて、過去へやって来たのはいいが、これからどうしよう。まさか、まだ自分が生まれたばかりの家に行くことはできないし、いろいろ考えたあげく耕平はひとつのヒントを得た。面と向かって逢うことはできないまでも、遠くからなら確かめることができるはずだ。それに、いまの時期なら父親の姿も見られるかも知れなかった。そう思うと居ても立ってもいられず、自分の家のある方向を目指して走り出していた。耕平は自転車を漕ぎながら時計に目をやった。そして、次の瞬間慌てて急ブレーキをかけていた。時計の年号を表す窓には、一九九〇ではなく一九八九の数字が表示されていたのだ。しかも日付けは三月十日になっていた。自転車を止めて道路の脇に寄せて改めて時計を見直したが、一九八九に変わりはなかった。

 耕平は茫然自失に陥っていた。またしてもマシンの故障か。最初に一九九〇年に行った時は、自分で合わせたわけではなかったから、あれはただ単に偶然だったのだろうか。いや、そうではないな。と、耕平は思った。もとの時代に戻ったときも一週間のズレがあったし、やはり自分がこのマシンの操作を熟知していないのが、一番の問題に違いないのだ。それにしても、今回は一年も余計に戻ってしまったのだから、設定した時代にすんなりと行くためには、マシンの操作を完璧に覚える必要があった。

 耕平は、また、もとの公園に戻ろうと思った。こんなところでいつまでもウダウダやっていて、もし不審人物扱いされて警察にでも通報されたりしたら、面倒なことになると思ったからだ。公園なら人も大勢いるから、ひとりくらい何かをやっていても、誰にも見咎められることもないはずだ。

 公園には相変わらずベンチで語らう人や、黄色い声を立てて走り回る子供たちでごった返していた。ブランコのところまで来ると自転車を止めて腰を下ろし、いままで起きたことを振り返ってみた。

『もとはと言えば、すべてがこのブランコから始まったのだから、これを一体誰が、この場所へ落として行ったのか、まさかここにわざわざ置いていったりはしないだろうから、落とし物であることだけは確かだろう』さらに、耕平は考えを巡らしていった。

『もし、仮りに、このマシンをわざとここに置いて行ったとしたら、その目的は何か? 持っていると都合悪い何かの理由があって、手放さざるを得なったから…。じゃあ、持ち主はその後どうしたのか。未来からやって来た人間なら、これを手放したら二度と帰れないじゃないか』

 そこまで考えた時、耕平はあることを思いついた。そうか、このマシンに狂いが生じたか故障に気がつき、未来に向けてSOSを発信したのかも知れない。それで救援がきて帰っていった。いや、待てよ。未来の産物であるタイムマシンを、いくら故障したとは言え証拠となるようなものを残して帰るだろうか…。う~ん、わからない…。それに、どうやって未来と連絡がつけられたのか…』

 いくら考えても答えが見つからず、業を煮やした耕平はブランコを漕ぎだした。ブランコは半円を描いて上下運動を繰り返す。しばらくしてブランコを止めると、またマシンに目をやり、右側についている八個のスイッチのうち、下二個のボタンがどんな役割を果たしているのか、いま持ってわからないままだった。

『このふたつボタンには、一体どんな機能が隠されているんだろう…』

 そんなことを考えながら、さっと指で触れてみた。触れただけだから表示画面は変わらなかった。これを押したらどうなるのか。と、いう、衝動に駆られながらボタンを押してみた。すると、画面に表示されている数字が全て消え、代わりにハイフンマークが表れた。年代も月日も時刻もすべてが消え去り、ハイフンマークと入れ替わっていた。

『これはリセットボタンになっていたのか。なるほど、なるほど…。じゃあ、一番下のボタンは…

 続いて、耕平は最後のボタンを押したが画面上に何の変化も現れなかった。

『何故だ~。上のがリセットボタンなら、下を押したら何らかの変化が画面上に表れてもおかしくないはずだ。なのに、何も変化もみられなかったぞ。すると、これは何か別の目的のために使われるのか…』

 そんなことを考えながら、時計の文字盤をもとに戻そうとして、もしこのままの状態で移動ボタンを押したら、どこの時代に行ってしまうんだろうか。そんな想いが心を過ぎったが、耕平は慌ててそれを打ち消した。時計の文字盤をすべてもと通りに直すと、ふたたび時計を見ながら物思いに耽り始めた。

『待てよ。ここに表示されている数字は西暦の年号だから、ここの数字の部分に何も表示されないハイフンマークということは…、紀元前!…。まさか?』

 耕平には、もうどれが真実であるのか見境もつかない状態だった。もう、これ以上考えても埒が明かないことを知った耕平は、自分の家があるほうへ向かうことにした。

 家の側まで来ると物陰に自転車を止めた。玄関まで十数メートルのところから首だけだして覗き込んだが、別に変わった様子もなく人が出てくるような気配もなかった。

 この時代には知り合いがいるわけでもないから、こそこそ隠れていては反対に怪しまれると困るので、通りすがりの人を装って玄関の前を通って、もっと詳しく様子をうかがってみようと思った。耕平は自転車に跨がるとゆっくり走り出した。門柱には、佐々木と書かれた表札が掛けられていた。

『間違いなく、オレの家だ…』

 家の前を通りすぎて、しばらく走ってからUターンをして、また引き返してくると玄関の横のほうを一瞥しながら、先程とは反対方向に走り抜けていった。耕平は走りながらこれから自分はどうすればいいのか未だに判断を決め兼ねていた。十字路に差し掛かった時だった。横道から二十歳くらいの若い娘が姿を表した。考え事をしていた耕平は、ぶつかりそうになって慌ててハンドルを右に切りながらブレーキを掛けたが、間に合わずに自転車ごと横転してしまった。女の子は驚いた様子で耕平に駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか。すみません。あたし、ついうっかりしてて…。本当に、すみません」

 そう言うと、倒れた自転車を起こそうとした。

「ぼくのほうこそ、すみませんでした。考え事をしていたもので…」

 耕平は立ち上がり、自転車を起こし終わった娘と初めて目が合った。次の瞬間、頭の中が真っ白になるのを覚え、顔面から血の気が引いていくのがはっきりと感じ取っていた。目の前に立っているのは、写真で見たことがある若き日の耕平の母親だったのだ。

「あら、大変。血が出てるわ。肘のことろから」

 見ると右腕の肘のあたりから血が滲んでいた。

「あ、ああ…。こ、これくらい、た、大したことないです」

 しどろもどろになりながら、やっとのことで、そう言うことができた。声が上ずっているのが、自分でもおかしかった。

「でも、そのままにしておいたら、バイ菌が入って化膿でもしたら大変だわ。あたしンち、すぐ近くだから手当してあげる。さあ、行きましょ。さあ、さあ」

 急かされて、耕平はしかたなく若き日の母親の後をついて行った。



     二



 家に入ると、つい昨日まで棲んでいた家なのに、なぜか非常に懐かしいものに感じられた。二十八年前にしては、それほど代わり映えしないから、余計そう思えたのかも知れなかった。あちこち眺めていると救急箱を持った母がやってきた。

「お待たせしました。申し遅れましたけど、あたし佐々木亜紀子と申します」

「はあ、ぼくは、さ…坂本耕助といいます。よろしくお願いします」

 耕平は、とっさに思いついた偽名を口にした。

「坂本さんですか。さあ、傷口を見せてください。消毒をしますから」

 亜紀子は、耕平の傷口を器用な手つきで傷処置をしてから、真新しい包帯を巻き終えると耕平に質問してきた。

「坂本さんは、何していらっしゃる方ですか」

「ぼ、ぼくですか…。ぼくは…、うーん。実は、いま失業中なもんで、自転車で日本中を旅して回ってるんです」

 また、耕平は思いつくまま話をでっち上げていた。失業中なのは本当のことだし、まんざらデタラメな話でもないだろう。

「あら、いいわねえ。羨ましいわ。あたしなんか、修学旅行ぐらいしか旅になんて行ったことないんです」

 亜紀子は本当に羨ましそうな顔で耕平を見つめた。そんな亜紀子にまじまじと見つめられると、何故か耕平の心の奥底に熱いものが込み上げてくるのを、どうしても押さえることができなかった。

「おーい、亜紀子。いないのかー」

 その時、亜紀子を呼ぶ声がして襖が開いた。

「なあに、おとうさん」

 声の主は、耕平が中学生の頃に亡くなった祖父だった。

『おじいちゃん…』

 耕平は心の中でつぶやいた。祖父が死んだのは六十代後半の頃だったから、いまはまだ四十代後半のはずだった。母も二十歳そこそこで、祖父もまだ若々しさを保っているし、これが本当に現実の世界の出来事であるとは、耕平にはとても信じ難いことではあった。

「おや、お客さんかい。どちら様だい」

 祖父は会釈すると、耕平を観察するように視線を向けた。

「坂本さんよ。横丁の角で、わたしにぶつかりそうになって、自転車が倒れてケガをしたから薬を塗ってあげたの」

「さ、坂本耕助と言います。亜紀子さんには、すっかりお世話になりまして…。どうも、申しわけありません」

 耕平があいさつをすると、祖父も腰を下ろした。

「ほう、自転車で…。あそこは、見通しが悪いから気をつけてください。で、ケガのほうは大丈夫ですか。骨のほうには異常ありませんか」

「ええ、大丈夫です。ほんのかすり傷ですから、ほら、このとおり」

 耕平は大袈裟に手をふってみせた。

「おとうさん。坂本さんは、自転車で日本中を旅してるんですって、わたし何だか羨ましくって、あたしも行ってみたいなー。旅」

 亜紀子は座っていた足を伸ばすと、まるで子供のようバタバタさせた。

「これ、亜紀子。何だ、はしたない。嫁入り前の娘が…」

 そう言って、祖父は娘を窘めてから、耕平にほうに向き直ってから改めて尋ねた。

「旅ですか。日本中をねー。いいですなあ、いまの季節は…。ああ、この間ニュースでやってた、あの方ですか」

「いえ違います。ただ、失業中なものですから、どうせ家にいても、おふくろ…、いや母に邪魔にされるだけですから、それで…」

 そこまで話すと、若き日の母が目の前にいることに気づいて、頬が赤らんで行くのを感じた。しかし、ここにいるのは母というより、もし自分に妹がいたら、これくらいの年頃だろうと思われる、うら若い女性なのだから耕平は戸惑いを隠せなかった。

「失業ですか。それは、大変ですなー」

 祖父はポケットからタバコを取り出し、一本を口にくわえると火をつけた。

「どうです。よかったら、君もどうぞ」

 耕平も勧められたが、自分はやらないのでと断った。

「あ、それより、おとうさん。わたしに何か用事があったんじゃないの」

 亜紀子が思い出したように口を挟んできた。

「ああ、あれか。別に急ぐことじゃないから、後でいいよ。後で…」

 そんなふたりの会話を聞きながら、耕平はさっき祖父の言ったことが気になっていた。それは『嫁入り前』という言葉だった。それを聞いた時、何か妙な気がしたからである。何故なら、耕平は歴史上的な目から見ても現実でも、来年のいま頃には生まれているはずなのに、眼の前にいる若き日の母はいまもって独身らしい。これは、どういうことなのだろうか。

 耕平が、そんな考えを巡らしているうちに、祖父は部屋から出て行った。

 いろいろ考えた末に、ひとつ亜紀子に質問してみようと思いたった。何をどう聞けばいいのかわからなかったが、とにかく少なくともひとつだけは聞いてみよう思い、恐る恐る口を開いた。

「あの~、亜紀子さん。ひとつ聞いよろしいでしょうか…」

「何でしょうか。あたしに分かること?」

「不しつけなことを聞くようで恐縮なんですが、亜紀子さんには現在お付き合いをなさっている恋人とか、ボーイフレンドとかはいらっしゃらないんですか」

「いないわよ。何故…、どうして、そんなことを聞くの」

 亜紀子はあっけらかんとした顔で答えた。

「い、いや、べつに深い意味はなかったんですけど、亜紀子さんはとてもきれいだし…、どなたかお付き合いしている方がいらっしゃるんじゃないかと思っただけです」

「そんな人いません。それより、坂本さんは結婚して…、いるわけないか…。ひとりで旅して回ってるんですもんねー」

 そう言いながら、亜紀子はケラケラと声を立てて笑った。

「あら、ごめんなさい。でも、いいなあ、坂本さんって、自由で…、自分で好きなところどこでも行けるんでしょう。ホント、羨ましいなあ」

 しきりに羨ましがる亜紀子を見ていると、耕平は何かしら後ろめたさのようなものを感じていた。それは、自分が嘘をついて亜紀子や祖父を騙しているという、罪悪感のようなものなのかも知れなかった。

 しかし、現実問題としては、どうすることもできないジレンマがあり、耕平自身も本当のことを話せたら、どれだけスッキリするだろうと思えた。だが、それは例え口が裂けても絶対に言ってはならないことだった。

「ねえ、坂本さん」

 亜紀子に声をかけられて、耕平は物思いから急に現実の世界に引き戻された。

「これから、どうするの。もし、よかったら今晩うちに泊まってかない。旅の話も聞きたいし、どうせ急ぐ旅でもないんでしょ。おとうさんの酒の相手でもしてあげて、おとうさん、きっと喜ぶわよ。いつもひとりで飲んでるから、つまらなそうなの。あたし飲めないから…」

「え…、いいんですか。見ず知らずのぼくなんか泊めても…」

「大丈夫よ。あたしにはわかるの。あなたは絶対に悪いひとなんかじゃないわ。それに、さっき逢ったばかりなのに、なんだか昔から知っているような気がしてならないのよ。ねえ、いいでしょう。ぜひ、そうして。いま、おとうさんに聞いてくるから」

 亜紀子はそそくさと部屋を出て行った。こうして、耕平は佐々木家に一宿一飯の恩義に預かることになった。


       三


 その晩の佐々木家は、いつもなら父娘ふたりだけのささやかな食卓だったが、耕平がひとり加わったことによって大いに盛り上がっていた。

「いやー、わが家に客人が泊まるなんて何年ぶりだろう。いつもは娘とふたりで細々とやってるんだがね。きょうは君が泊まってくれたおかげで実に楽しい。まあ、一杯飲んでくれたまえ」

 祖父は耕平が泊まったことが、よほど嬉しかったのか上機嫌でビールを勧めてくれた。

「はあ、いただきます」

「時に、耕平くん…」

 祖父が本名を呼んだので、耕平は一瞬ドキッとしたが、すかさず亜紀子が口を挟んできた。

「いやだぁ、おとうさん。耕平じゃなくて耕助さんよ。すぐ間違えるんだから、もう…」

「お、そうか。これは失礼…。日本中を旅してると言ってたが、生まれはどちらかね」

「生まれですか。えーと、新潟です。魚沼の近くの小さな村です」

 また、耕平はとっさに嘘を就いた。

「ほう、魚沼か。あそこはいいねえ。米がうまいから」

「そうですか。まあ、『コシヒカリ』に関しては、一応全国区でしょうからね」

 耕平は当り障りのないことを言って、その場のお茶を濁した。

「ところで、君は失業中だとか言ってたね。実は、うちの会社で臨時というかアルバイトみたいなもんなんだが、人を募集しているんだ。ところが、ここ数年来の好景気のおかげで、賃金の安いアルバイトなんかに誰も応募してこないんで、困っていたところだったんだよ。で、どうだろう。君、急ぐ旅じゃなかったらしばらくの間、少し手伝ってもらえないだろうか」

 そこまでに話すと、祖父はビールを一気に飲み干した。

「仕事ですか。でも、いいんでしょうか。ぼくみたいな素性のわからない者でも…」

 耕平もつられてビールをひと口飲んだ。

「なーに、そんなことなら、うちの親戚とでもなんとでもなるよ。よかったら、ぜひ頼みたいんだ」

「ぼくはかまわないんですが、でも、仕事の内容はどんなものなのですか。ぼくに出来るかどうかもわからないし、それに旅の途中ですから泊まるところもないし…」

「なーに、それなら、うちに泊まってればいいさ。もちろん、家賃なんかもいらないから。仕事のことを説明しておこう。うちの会社は小さな食品関係の製造業をやっているんだが、毎日商品を出荷する際に荷物の上げ下ろしをする時、車の出入りが激しくなるから、車がほかの物にぶつからないように誘導してもらえればいい。後ほかの時はいろいろ雑用もあるからそれをやってもらえればいい」

「はあ、それくらいなら、ぼくにでも出来そうですが…」

「じゃあ、よろしく頼むよ。耕助くん」

 その話を聞いていた亜紀子が、急にはしゃぎだした。

「よーし、決まりね。あたしも一杯もらおうっと。耕助さんの就職祝いだから、今夜はわたくしも飲みますわよ」

 亜紀子は台所に行くと、グラスとビールを三本抱えて戻ってきた。耕平と祖父のグラスに注ぎたし、自分のグラスにもビールを満たすと、ふたりのほうにグラスを突き出した。

「それでは、これより坂本耕助さんの就職を祝いまして、不肖わたくし佐々木亜紀子が乾杯の音頭を取らさせていただきます。それでは、おめでとうございます。カンパーイ」

「乾杯」

「カンパイ」

 亜紀子は、あまり酒が飲めないと言っていたわりには、結構ハイペースでビールを飲み始めていた。

「でも、なんだか不思議ね…」

 しばらく酒盛りをした後で亜紀子は言った。

「なんだ。何が不思議なんだ」

 と、祖父が聞き返す。

「だって、そうじゃない。さっき、耕助さんの傷の手当をしていたときも思ったんたけど、耕助さんとわたしは今日の午後に逢ったばかりなのよ。それなのに何か、こう初めて逢ったような気がしなくって…。なんだか、とても懐かしい人に逢ったようで変な気がしたの」

「実は私もさっき逢った時に、亜紀子と同じような感じがして、何の違和感もなく話が出来たので不思議だったんだ…」

 祖父も亜紀子と似たようなことを言った。これが血縁とでも言うものなのだろうか。と、耕平は漠然と思った。昔から〝血は水よりも濃い〟とか〝血は争えないもの〟という言葉があるように赤の他人にはわからない、何か特殊な力のようなものが備わっているのも知れなかった。

 祖父はよほど気分がいいのか、8トラックのカラオケを持ち出してきて歌いだした。

「♪やーさしさと甲斐性のなさがー、裏と表についてくるー、そおーんなあー、男おにー惚れーたのだからー…♪」

 祖父は、本当に気持ちよさそうに、小林幸子の『雪椿』を熱唱していた。亜紀子は、そんな祖父を横目で見ながら耕平にささやいた。

「おとうさん、うちじゃ滅多に歌わないのよ。それなのに、きょうはあんなに楽しそうに歌ってる。よっぽど嬉しかったのね。耕助さんが働いてれるのが決まって」

「♪花はー、越後のー、花は越後のー、雪ー椿ー♪」

 歌い終わって祖父が戻ってきた。耕平と亜紀子が拍手で迎えると、祖父は照れ笑いをしながら腰を下ろした。

「いやあ、お上手ですね。あんまり上手いんで驚きました」

「なあに、会社の付き合いで飲み会の後なんかに、たまにカラオケボックスに行くんだよ。どうだね。君も一曲やってみては。耕平くん」

「ほらー、おとうさんったら、また間違えて」

 またしても亜紀子に揚げ足を取られた形の祖父は、

「こら、亜紀子。ひとの揚げ足ばかり取っていないで、そろそろ耕助くんに寝る準備をしてあげなさい。準備さえしておけば、あとはゆっくり出来るんだから」

「はーい」

 亜紀子は奥の部屋に行くと押し入れを開けて、中から布団やシーツといった寝具類を取り出すと、酔いのせいか足元をふらつかせながら寝具を敷いて、耕平がいつでも寝れる状態にするとふたりのいる茶の間に戻ってきた。

 亜紀子が戻ると祖父はまたビールを持ってこさせて、耕平に勧めてから自分のグラスにも注ぎ足した。

「あたしも、もう一杯いただこうかしら、なんだか布団を敷いてたら喉が渇いてしまって」

 耕平はビール瓶を取ると、亜紀子のグラスに注いでやりなながら聞いた。

「大丈夫ですか。そんなに飲んで…。さっき布団を敷きながら、だいぶ足がフラついてたみたいでしたけど…」

「だーい丈夫よー。たまに、いーじゃない。今日は、とおーっても楽しいんだから。ね~え、おとーうさん」

 亜紀子は、かなり呂律が回らなくなってきていた。

「これ、亜紀子。もういい加減にしなさい。飲めもしないくせに、あんまり飲むからそうなるんだぞ。ここは、もういいから早く寝なさい」

 父祖に言われて、亜紀子はしぶしぶ立ち上がった。

「はい、はい。私は、もう寝ますよー。それでは、皆さまおやすみなさーい。さーて、お風呂に入ろーっと…」

 亜紀子が茶の間から出ていってから、ふたりは明日からの仕事の段取りやら、詳しい相談をしたあとでそれぞれの部屋に引き上げて行った。


       四


 それから一ヶ月が過ぎ去っていた。耕平もようやく仕事にも慣れて、祖父と亜紀子の三人で会社に通う日々を送っていた。亜紀子は、とある商事会社のOLをしているらしかったが、取り立てて聞く必要もなかったので、亜紀子がどういった内容の仕事をしているのか耕平はわからなかった。

 そんなある日、祖父は会社から帰ってくるなり亜紀子を呼ぶと、忙しげな表情で矢継ぎ早に話しだした。

「急に出張を仰せつかって、明日から北海道に行かなければならなくなった。すまないが亜紀子、着替えとかいろいろ必要なものをまとめて詰めといてくれ」

 そう言うと、机に向かって何やら調べ物を始めたようだった。

「ねえ、おとうさん。出張って今回はどれくらいの予定なの」

 亜紀子が聞いた。少し間を置いてから、答えが返ってきた。

「三日くらいだと思うよ。でも、先方の都合次第で五日くらいになるかも知れない。とにかく、行ってみないことには何とも言えんな…」

「ふーん」

 それだけ聞くと、亜紀子は部屋を出ていった。

 その夜の佐々木家の食卓は、祖父の出張の話題でもちきりだった。

「富良野ですか。いいですね。あそこは、ぼくも一度行ってみたいと思ってたところなんです」

「いやあ、きょう急にいわれたものだから、焦ってしまって大変だったんだ。何しろ、社長直々の命とあっては断るわけにもいかないし、正直のところまいったよ、ほんとに」

 祖父はビールを飲みながらため息をついた。それを見ていた亜紀子が口を挟んできた。

「おとうさん。出張なんて久しぶりなんだから、たまには羽目をはずして遊んできたらいいよ。どうせ夜は暇なんでしょう」

 祖父は、この出張にあまり気乗りがしないらしく、亜紀子のいった言葉など聞いているのか聞いていないのか、なんの反応も示さないでピールを呷っている。

「おとうさん…。おとうさんってば、一体どうしたの。いつもなら盛んにはしゃいでいるのに、きょうはあまり元気もないみたいだし、どこか体の具合でも悪いんじゃないの」

 亜紀子は祖父の額に手を当てて熱を測るしぐさをした。

「変ねえ。熱はないみたいだし、ほんとにどうしたの」

「あ、いや、ごめん。ごめん。何でもないんだ。今回の出張はちょっとばかり込み入った商談になると思うんで、どうしたら話がスムーズに進むか考えていたんだ。いやあ、すまん。すまん」

 祖父は照れ笑いを浮かべて耕平にもビールを注ぎ足しながら、亜紀子にビールを持ってくるようにシグナルを送った。亜紀子はビール瓶とグラスを載せたトレーを持って戻ってくると、

「わたしも頂いちゃおうーっと」

 自分のグラスにビールを注ぐと、ひと口飲んでから父親と耕平のグラスにも注ぎ足した。

「ねえ、おとうさん。あしたの朝何時に出るの。早いの。それともゆっくりでいいの。朝食の準備しなくちゃいけないから…」

「いや、普通の時間でいいよ。朝会社に顔出してから行くことになるから…」

 それから、祖父は耕平のほうに向き直ると、明日の仕事について細かな指示を出した。

「明日は出荷のピークになるから、車の誘導にはくれぐれも気をつけてやってくれたまえ。雑役は横山にでも任せるから。君は誘導にだけ専念してくれればいいから、頼んだよ」

「わかりました。期待に添えるよう頑張りますから、佐々木さんも商談のほううまく運ぶように祈ってますから、安心して行ってきてください」

 耕平がそういうと、祖父は嬉しそうな顔をして、耕平のグラスにビールを注いだ。夕食が終わって、しばらく三人で談笑をした後、耕平は自分の部屋へ引き上げた。机に座ると考えるともなしに、自分が生まれて育った二〇一八年へと思いを馳せていた。

『みんなどうしているだろう…』

 耕平は自分がこうして同じ場所にも関わらず、時間を隔てた世界に存在していること自体が不思議でならなかった。なにか悪い夢でも見ているような気がして、どうしてもそれを拭い去ることができないでいる自分が腹立たしく思われた。夢ならいつかは覚めるが、これが紛れもない現実である以上、耕平にはどうすることもできなかった。

『お前は、そう言ってたかだか二十七年なんて軽く考えてるけど、だいたい過去の世界になんて誰も行ったことがないんだし、第一お前が過去でなんか変なことでもやったら、未来であるわれわれのいるこの世界にどんな悪影響を及ぼすか知れないんだ。悪いことは言わないから、やめとけ、やめとけ』

 あれだけ必死に耕平のことを心配して、引き止めてくれた山本も結局のところ、自分の父親の安否を気遣う耕平の心情に根負けした形で彼の旅立ちを見送ってくれた。しかし、その父親の存在さえいまだにどこの誰なのかさえはっきりしないままだ。少なくても後一年足らずで生まれてくるはずの耕平の原点でもあるべき父親が影も形も見えてこないのだ。これはどういうことなのか、まさかパラレルワールドのように、ここは佐々木耕平という人間は存在しない世界とでもいうのだろうか。そんなことを考えながら寝る支度を整えると布団に潜り込んだが、目が冴えてしまったのかなかなか眠りつくことができなかった。

 そんな中で、あの日公園の草むらの中からタイムマシンを拾ったこと、それが偶然の悪戯からか二十七年前に行ってしまったこと、慌てて元の世界に戻ってきて山本徹に相談したこと、幼い頃からの疑問だった父親の存在を確かめるために再び過去に戻ってきたこと、そこでまだ自分よりも若い娘時代の母親や、中学生の頃に亡くなった祖父に出逢ったことなどが、まるで走馬灯のように耕平の脳裡を凄まじい速さで駆けめぐっていた。

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