第17話 不透明な彼女の胸の内
帰り道を歩きながら、溢れそうになる涙をごまかすために気持ち早足になる。
別に、日暮さんに怒ってるワケじゃない。
アタシは、真っ直ぐに伝えることができないアタシ自身に怒ってる。
ただ、「好きです」ってどこかで言うだけでよかったのに。
「あら、愛奈ちゃん?」
タイミング悪く声を掛けてきたのはランニングウェア姿の大家さん。
そのまま通り過ぎればいいのに、アタシは足を止めてしまった。
「あっ、おおy……和加菜さん」
「どうしたの? こんな朝早くに。もしかして朝帰り!?」
「そっ、そうじゃないです……」
「ふーん、そうなの。じゃあどうして? 何かあった?」
言わない方が、というか言えない。日暮さんが透明な事を、この人はまだ知らないから。
でも、体は正直で。立ち止まったせいなのか、優しい言葉を掛けられたせいなのか、言葉に詰まる代わりに堪えていた涙が溢れ出してくる。
「愛奈ちゃん!? 何があったの?」
「いや、その、これは違くて」
「違わないから。とりあえずそこ入ろう?」
和加菜さんが指さしたのは、早朝から開いている小さな喫茶店。
「はい……」
連れられて席に座ると、和加菜さんは勝手に注文して、勝手に世間話をし始めた。
「ちょうど喉乾いていたのよ。すみません、コーヒーとホットミルク一つずつ」
「そうそう、大通りに大きいコーヒー屋さんがあるでしょう? あっちは人が多くって、なんだか苦しくて。その点こっちは静かでいいわよね」
「最近はプロ野球も無いし、少し暇だわ」
「この辺は雪が珍しいみたいよね」
「それにしても、日暮くんが透明になるなんてね……」
押しの強い人は少し苦手だ。
気づいた時には移り変わっていく話題に、アタシは聞いていることしかできない。いつの間にか涙も引っ込んでしまっていた。
お説教を受けてるわけじゃないから、別に苦じゃないけど。あれ?
「ちょっと待ってください。なんでそのこと知ってるんですか?」
「え? 101号室のワンちゃんに何かあったかしら」
「いえ、そこじゃなくて日暮さんが透明に、」
「ああ、それね」
ちょうどその時、注文したコーヒーとミルクが運ばれてきた。
和加菜さんは一度話を中断し、カップに口をつけ、ホッと息を吐く。
「愛奈ちゃんも飲んで? あったまるわ」
「は、はい……」
言われるまま、息を吹きかけてからミルクをゆっくりとすする。
ホット特有の膜も無くて、やけどもしないくらいの温度ですごく飲みやすい。
「おいし……、じゃなくて!」
雰囲気に飲まれそうになったのを、なんとか本題に引き戻す。
「なんで日暮さんが透明なこと知ってるんですか?」
「あー。ちょっと昔に色々、ね」
少しうつむいた和加菜さんは、寂しそうな目をしている。
昔ってどれくらい前なんだろう。正確に歳を聞いたわけじゃないけれど、まだ30にもなっていないと思う。
そのまましばらく見つめていると、ぴたっと目が合った。
「訊かないのね?」
「あ、いや、訊かない方がいいのかなって……」
もごもごしながら遠慮がちに言うと、和加菜さんは少しキョトンとして、一呼吸おいてからプッと噴き出した。
「アタシなんか変でした!?」
「いや? 面白いなあ、と思って。ふふふ」
なんなんですか、と返しつつミルクを少しすすった。
ひとしきり笑い終えると、和加菜さんはアタシに微笑みかけてくる。
「やっといつもの愛奈ちゃんになってきたね」
「……!」
「ごめんね。私の話は諸事情があってできないの」
「諸事情……」
「だけど、代わりに話は聞くわよ? 日暮くんと何があったの?」
和加菜さんの声はどこまでも優しくて、本当の親みたいだった。あんまり知らないけど。
でも、アタシにだって諸事情はある。
「ごめんなさい。今は話せません」
和加菜さんは変わらず無言でアタシを見つめている。
「でも、少し整理がつきました。もう一回戻ってみようと思います」
「……そう」
それから、和加菜さんと店を出ると太陽が少し上っていて、足は自然と歩いてきた方に向いた。一度振り向いて、和加菜さんに手を振る。
「ありがとうございました」
「ええ。頑張って」
来た道を戻る。冬の寒さもさっきより少しだけ気持ちがいい。
アタシの頭の中は、日暮さんに言わなければならないことでいっぱいだった。
***
で、戻る途中で車に乗せられて、口をガムテープで塞がれて、両手と両足も紐で縛られて、どこかに閉じ込められているのが今。
目の前には覆面を被ったいかにもな男が三人。ガリと、チビと、デブ。
その内の一人は、見覚えがあるような気がした。
「むう……!」
デブを睨みつける。すると、そいつはニヤッと口端を歪めて、覆面を片目までずらす。
やっぱりだ。あの時のチカン。
「あの時は何かに邪魔されたが……、お前だけはヤらなきゃ気がすまねえ」
もう一度覆面を被り直すと、アタシの前でしゃがんだ。それから分厚い手で頬をギュッと掴まれて、口のガムテープが乱暴に剥がされた。
「いっ……たいなあアホデブ!」
「おうおう、元気がいいな」
「触んなデブ! くっさいねん!」
「じゃあ、そういう臭いのも好きにならないとな」
そう言ったかと思うと、後ろの二人が履いていたものを下ろし始めた。
「っ……!」
「まあ、何されるかぐらい、わかってるよな?」
知らない、なんて言うほどアタシは純粋じゃない。
アタシにできることは、相手を睨み返すことぐらい。
下半身を露出した二人の男が下卑た笑みを浮かべながら近づいてくる。
……こうなったのも日暮さんのせい? ううん、やっぱりアタシのせいだ。
アタシがあの人を見つけてしまったから。
こんな時だからか、いろんなことが思い出せてしまう。
あの本を読んだのは中学生の時。中学受験に失敗して、親からのプレッシャーで少し息苦しくなっていたある日、たまたま友だちに勧められたのがきっかけ。
恋愛モノの短編集で、アタシはその中の一本に出てくる一人の女の子に憧れた。
その子はテンプレートなギャルだった。でも芯は強くて、絶対に偽りのない自分を相手にさらけだす。その信念みたいなものを決して手放さず、誰にも縛られることがない凛とした姿がかっこよくて。その子に対する感情は、なんだか恋みたいだった。
本の登場人物をそんな風に思ったのは初めてだったから、本をちゃんと読んだのもそれが初めてだったかもしれない。
『自由に生きる子が羨ましくて出来上がったのがギャルの子。お気に入りです』
あとがきにこう書いてあって、アタシは書いた人のことが気になってしまった。
調べてみると、まだ高校生だと知ってすごく驚いた。何かの賞を取った時の写真を見つけて、その顔が頭から離れなかった。次第にその人に会いたい気持ちが強くなって、その人が好きなんだと思った。
それからアタシは地元の高校から進路を変え、祖母に無理を言って私立の高校に入ることができた。
染みついた関西弁はほとんど矯正したし、髪も明るくした。ちょっと恥ずかしかったけれど、スカートの長さや胸ボタンを開ける数も調整した。
公園で声をかけたのは、ブレない強さに憧れたからで、振り向いた顔を見た時はびっくりした。だって、前に見た写真の顔だったから。
それから、アタシにしか見えていないって言われたのは、少し嬉しかった。と同時に、彼から何一つオーラのようなものを感じなかったことが、アタシにとってはショックだった。
だから彼を助けてあげたいと思った。
協力している間、いろんな方法でアタシはアピールした。頼まれていない彼の本を買ったことも、カレーを作ったことも、彼が夢だと言っていた朝の味噌汁も、アタシというファンがいることを彼に教えるためだった。
でも、アタシは彼に理想を押し付けているだけだった。
ただ彼が見えるだけの、『日暮通』のファンの一人でしかいられなかった。
“日暮透”のことはちゃんと見えてなかった。
「本当に俺たちが先でいいんすか?」
時間にしてわずか数十秒。
現実に引き戻されると、鼻が曲がるような悪臭を放つ二本の銃口がアタシに向いていた。
「俺が先にヤると壊れちまうだろうが」
「それはそうっすねー」
下衆な会話は耳から抜け、目の前で揺れるソレの匂いに吐き気が止まらない。いっそこのまま吐いてしまえば、少しくらい相手も躊躇ってくれるのかな。
「よし。んじゃ口から、」
チビの方がアタシの頬を掴み、口を無理やり開ける。そしてガリの方がそこにできた穴へ狙いを定めた。
「臭いって言わなくなるまでな」
アタシは今から、どこまでも汚される。
こんなことなら、夜這いでもしておけばよかったかな。
アタシが、ファン以上になっていれば、助けに来てくれたのかな。
もっとアタシ自身の事を見せていたら、日暮さんはどうしていたかな。
結局アタシは、ずっと不透明なまま。あの子みたいにはなれないんだ。
「日暮さん……」
かすれるような声で、その名を呼ぶ。
偶然かもしれない。でも、その瞬間、光が差した。
薄暗かった部屋に光の筋が入り込んで、大きくなっていく光の内側に影は無くて。
「愛奈……!」
その扉の側には、アタシにしか見えないあの人の姿があった。
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