第15話 美也子さん

夏休み。


暑くて長い休みに突入した私は、家に閉じこもっていても腐るだけなので、


近所の公立図書館で山ほど出題された宿題を片付けてしまおうと決心した。


宿題だけではない。


私も来年は高校3年生。


大学受験という難関が待ち受けている。


せめて苦手な数学の参考書のひとつでも取り組まなければならない。


桜街図書館という名の建物は、家から自転車で10分も走ればたどり着ける。


外観はコンクリート打ちっぱなしのモダンなデザインで、


市でもお洒落スポットとして有名な図書館だ。


外にしつらえてある花壇には、ひまわりの花が太陽に向かって真っすぐに伸びている。


夏休みと言えば恋人達には待ちに待った季節なのだろう。


夏祭り、花火大会、海、山、キャンプ。


でも彼氏なし、の私にはどれもこれも関係のない出来事だ。


沙耶は夏休み中、ハンバーガーショップでバイトをすると言っていた。


鹿内さんも相変わらずバイト三昧の日々を送っている。


大学が休みな分、居酒屋のバイト以外にも別のバイトを入れ、2足のわらじを履いているようだ。


そんなに無理しなくても、いつまでも家にいてくれていいのに・・・


でも鹿内さんだって本当は1日も早く独りの暮らしを満喫したいのだろう。


その日も汗をかきながら自転車をこぎ、桜街図書館の自動ドアをくぐると、空いている席に座り、しばらく効きすぎているエアコンの風で涼んでいた。


ふと前の席から並々ならぬ視線を感じた。


そこには女優さんのように綺麗な女性が静かに座っていた。


私はその視線に気づいていないふりをして、問題集とノートを開いた。


するとその女性は私に聞こえるくらいの小さな声で、唐突に話しかけてきた。


その声は少しハスキーで、でも落ち着いていた。


「あなた、山本つぐみさん、よね?」


「はい。そうですけど・・・」


「良かった!真面目そうな女の子で。」


「あの・・・どこかでお会いしましたっけ?」


「申し遅れたわ。私は神宮寺美也子。


あなたのお家に居候している鹿内弘毅とは同じ大学の同級生なの。」


来た!!


神宮司美也子。


鹿内さんと微妙な関係の女性。


でも私はそんなことは知らないという風にとぼけてみせた。


「鹿内さんの?」


「そう。ねえ、つぐみちゃんって呼ばせてもらっていいかな?」


「いいですけど・・・。」


美也子さんはダークブラウンでゆるいカールの艶々とした髪に陶器のような白い肌、オレンジ色のリップが良く似合う唇で、優し気な表情を浮かべていた。


美也子さんがいるその空間だけが、マイナスイオンに包まれているようだ。


薫さんが言っていたように、美しい胡蝶蘭のような女性だ。


「どうして私がここに来たかわかるかしら。」


「鹿内さんのことですよね。」


私は平然とそう答えた。


「ミス早慶大なんですよね。すごい美人。」


「あら、ありがとう。良く知っているじゃない。弘毅から聞いたの?」


「いや、あの薫さんって人から聞いていて」


「ああ!おかまの薫ちゃんね?元気にしている?」


「はい。といっても私も一回しか会っていないんですけど。」


「あの店、私も弘毅と会う口実を探して、何回か行ったなあ。」


美也子さんは机に頬杖をついて、懐かしそうな瞳で遠くを見た。


美也子さんが鹿内さんのことを「弘毅」と呼ぶたび、ああ、ふたりは本当に仲がいいんだな、となんだか胸がチクチクしてしまう。


「弘毅は元気にしている?」


「はい。バイトが忙しいみたいです。」


「そう・・・。弘毅のお家、色々あったみたいだから心配していたの。」


ふと周りを見ると、明らかに迷惑顔をした利用者達の顔が私達を睨んでいた。


図書館で話すには少し声が大きかったかもしれない。


私は美也子さんがどんな女性なのか知りたい気持ちを自分でも止められなかった。


私は自分から美也子さんを誘うことにした。


「もしお時間があるなら、近くに喫茶店があるので、そこでお話ししませんか?」


「そうね。その方がよさそうね。」


美也子さんはヴィトンのバッグを肩に下げ、椅子から立ち上がった。




図書館のある路地を右に曲がると、そこは小さな商店街になっている。


その商店街には美味しい珈琲を飲ませてくれる「喫茶カトレア」があった。


店の白いドアを開くとカランコロンと懐かしい鈴の音が響いて、ウサギのアップリケのついたエプロンを着た髭のマスターが「いらっしゃいませ」と声を掛けてくれた。


「ここ、小さなお店ですけど、味はなかなかいいんですよ。」


私はそう言って一番奥の窓際の席に美也子さんを誘った。


「私も嫌いじゃないわ。こういうレトロチックなお店。素敵よね。」


美也子さんは壁に飾られた鳩時計を眺めながら、椅子に座りバッグを膝の上に置いた。


私達はそれぞれアメリカンとウインナーコーヒーを頼むと、しばらく無言で向き合った。


店内には控えめな音量でビートルズの曲が流れている。


今流れているのは中学の教科書にも載っていた。


そう、確か「イエスタディ」という曲だ。


沈黙を破ったのは美也子さんだった。


「ごめんね。勉強中だったのに突然来ちゃって・・・」


「いえ。神宮司さんこそわざわざこんなとこまで・・・」


「美也子でいいわ。私、この苗字あまり好きではないの。


神宮寺ってどこの世界遺産?て感じでしょ?うふふ」


そう言って美也子さんは肩をすくめて笑った。


色っぽいのに、少女のような、目の前の人を包み込むような可愛い微笑み。


「・・・恰好いいと思います。


私みたいな山本なんてどこにでも転がっている苗字の人間からしたら。」


「そうかなあ」


そういうと美也子さんはまた笑ってみせた。


「えっと、じゃあ、美也子さんってお呼びします。」


マスターが湯気の立ったコーヒーカップを私達のテーブルに置くと、


素早くその場を立ち去った。


私はウインナーコーヒーをすすりながら、美也子さんの言葉を待った。


「学内ですごい噂よ。弘毅が女子高生とお付き合いしているって。


そのお相手ってつぐみちゃん、アナタよね。」


「ええ。まあ、はい。」


私はウインナ―コーヒーをすすりながら、曖昧にそう答えた。


「弘毅はつぐみちゃんに優しくしてくれる?」


「ええ、まあ、はい。」


私は罪悪感から、壊れたおもちゃのように同じ言葉を繰り返していた。


「でもつぐみちゃんって噂のイメージと全然違うのね。


なんだかすごく馬鹿っぽい女の子って聞いていたけれど、夏休みなのにちゃんと図書館で勉強していて、とても真面目そうな感じでびっくりしちゃった。」


そうだった!


私、馬鹿っぽい女子高生キャラだったんだ!


すっかり忘れていた。


「・・・まあ私も、もうすぐ受験だし、いつまでも馬鹿やってられないっていうか~。」


急に口調を変えた私に、美也子さんはふふふっとコブシを口に当てた。


「つぐみちゃん、なんか無理してない?」


「・・・・・・。」


もう駄目だ。この瞳には嘘をつけない。


生活指導の先生に叱られた生徒のように視線を落とした私に、美也子さんはまたふふふっと笑った。

そして唐突に鹿内さんへの熱い想いを私に語りだした。


「単刀直入に言うわね。私も弘毅のことが好きなの。」


「はい」


言われなくてもわかっている、という風に私は平然と受け流した。


「私と弘毅は高校でも同級生でね。


図書委員の私は図書室で勉強する弘毅と、少しづつ話をするようになったの。


主に野球の話が多かったかな。私は阪神のファンだけど弘毅はジャイアンツが好き。


よく二人でお互いの好きな球団を罵りあったりして・・・でも楽しかったな。


彼は高校時代から女子が苦手でね。彼と口をきける女子は私ひとりだったのよ。」


・・・そうか。


美也子さんは高校時代で鹿内さんが心を開いた唯一の女子だったのだ。


「ある日、私が他校の不良に絡まれているところを弘毅に助けてもらったの。


そのせいで彼、2週間の停学をくらっちゃってね。


私、毎日授業のノートを取って、弘毅の家まで届けにいったわ。


弘毅もありがとうって言って受け取ってくれた。」


私がナンパされた時も鹿内さんは助けてくれた。


あれはなにも特別なことじゃなく、鹿内さんの正義感の賜物だったんだな。


「高校の時から野球部でキャプテンをやっていて、誰よりも声を出していたし、練習も遅くまで頑張っていた。

弘毅はぶっきらぼうだけど、周りの人間は皆、そんな弘毅の誠実な優しさに気付いていたから、キャプテンを任されたのね。

よく女子から告白もされていたわ。


何人かの女子生徒と付き合っていたみたいだけど、みんな一か月で別れちゃうの。」


「一か月・・・」


たった一ヶ月しか続かなかったんだ。


それは鹿内さんが愛を知らないから?


「そういえば中学の時に年上の女性と街を歩いていた、なんて噂もあったかな。


でもそんなの関係ない。2番目でもいい。私は弘毅と一緒にいたいの。」


美也子さんは高校時代からずっとずっと鹿内さんを想い続けていたのだ。


「私はテニス部で、フェンス越しに弘毅の姿を目に焼き付けて、ずっと心で応援していた。


弘毅が野球を頑張っていたから、私もテニスを頑張れた。


友達にしかなれなかったけど、ずっと弘毅に片想いしていたの。


大学も頑張って一緒のところを受けて・・・未練がましいでしょ?」


「そんなことないと思います。」


私はフルフルと首を左右に動かした。


恋する乙女は、どんなことをしても欲しいものを追いかけてしまうものなのだろう。


私はネットで調べた「恋」の定義を思い出していた。


「・・・でね。大学に入ってすぐに私、思い切って告白したの。」


「・・・・・・。」


「でも彼、お前はいい女過ぎて、俺にはもったいないだって。


そんなこと言われたら、諦めきれないわ。」


・・・鹿内さんてば、随分思わせぶりなことを言ったものだ。


あの男はやっぱり、全く女心というものをわかっていない。


でも女神のような美也子さんに一途に好かれたら、鹿内さんだって内心嬉しかったに違いない。


「ねえ。つぐみちゃんって本当に弘毅の彼女なの?」


美也子さんはそう言ってコーヒーを口に運んだ。


ここはどう答えるべきなのだろう。


私が言い淀んでいると、美也子さんは私の答えを待ちきれないとでもいうように早口でまくし立てた。


「弘毅は嫉妬心が人一倍強いのよ、きっと。


だから私の八方美人な態度が気にくわないのかもしれない」


「・・・・・・。」


「弘毅のこと忘れようとした。でもやっぱり忘れられなくて。


つぐみちゃん、弘毅に頼まれて彼女役を引き受けたんでしょ?


弘毅の考えそうなことぐらいわかるのよ、私。


ねえ、そうなんでしょ?」


「・・・・・・。」


今、ここで「はい」と言ってしまうのは簡単なことだ。


でも鹿内さんとの約束だって大切だ。


「・・・そんなに好きなら私から奪い取ってみたらどうですか?」


「え?」


美也子さんは目を丸くして私の口元をみつめていた。


まさか私が反撃してくるとは思っていなかったらしい。


「大丈夫ですよ。鹿内さんは美也子さんのことを自分の中でどう位置付けていいのか迷っているだけです。だからまだ間に合いますよ。」


「つぐみちゃんにそう言われちゃうとはね。」


美也子さんはコーヒーで濡れた唇をそっとハンカチで拭った。


「もう一回鹿内さんにちゃんと想いを伝えた方がいいんじゃないですか?」


「そうね。私もそう思っている。でも弘毅、今忙しいでしょ?家に押しかけていくのも悪いし。」


「別に家に来ても大丈夫ですよ?」


「つぐみちゃんはそれでいいの?弘毅のこと本当に好きじゃないの?」


「好きかどうかはわかりません。」


私は語気を強めて言った。


「でも、大切な人です。・・・だから幸せになってもらいたい。


あの人は誰のことも愛さないし愛されたくもない・・・って心を閉ざしているのです。


誰でもいい。あの人の冷たい氷のような心を溶かしてくれるなら、私はその恋を応援したいと思っています。」


美也子さんは唇をかみしめ、しばらく黙っていたけれど、何かを決心したかのように清々しい顔になった。


「そう。それじゃ遠慮なく弘毅を奪いにいくわ。


これ、つぐみちゃんにお願いしてもいいかしら?」


美也子さんはヴィトンのバッグから、細長く白い封筒を取り出し、私に差し出した。


「これ、弘毅に渡してくれる?」


「・・・・・・。」


「弘毅へのプレゼント。つぐみちゃんから渡して欲しいの。」


「わかりました。」


私は手渡された白い封筒を眺めながら、そう答えるのが精いっぱいだった。


「あ、そうだ。お礼と言っちゃなんだけど、これあげる。」


美也子さんはカバンの中をごそごそと漁ると、何かを取り出した。


「これ、先輩の勤めている化粧品店で貰ったの。良かったら使って!」


それは高級そうな白いチューブ式のボディクリームだった。


「こんな高そうなもの、頂けません。」


「いいの、いいの!私もタダで貰ったものだから。


じゃ、私、友人との約束があるからこれで失礼するわね。


つぐみちゃんの本当の気持ち聞けて良かったわ。またね。」


美也子さんは言いたいことだけ言うと席を立ち、


素早く私の分まで会計を済ませ店を出て行った。


綺麗で可愛くてスタイルも良くて、性格もおちゃめで優しくて、パーフェクトな女性。


それに私の知らない高校時代の鹿内さんを知っていて理解してあげている。


私はいま、自分が出来る精一杯のことをやったつもり。


あとはふたりの問題だ。


「よし!勉強しよ!!」


私はそう自分に喝を入れると、喫茶店を出て再び図書館へ向かった。




家に帰り自室の机の上には、美也子さんから預かった白い封筒が置かれていた。


私を挑発するように、その封筒は封がされていなかった。


それはまるで見るならお好きにどうぞ、と囁きかけているように思えた。


人からの預かりものの中身を勝手に見るなんて、卑怯者のやることだと思う。


でも、どうしてもその中身が知りたかった。


私ったら一体どうしてしまったのだろう。


真面目で正直なだけが私の取り柄なのに、こんなことするなんて。


ふたりの問題なのだから、ってうそぶいていたのはどこの誰?


汚れないように、皺がつかないように、私は封筒から中身をそっと取り出した。


それはミスチルのライブチケットだった。


特別席で値段は1万円もする代物だ。


さらにほのかにフローラルの香りがする便箋が一枚入っており、


「いまも貴方を想っています。美也子。」


とだけ達筆な文字で書かれていた。


美也子さんは鹿内さんを、ライブに誘おうとしている。


ライブの日にちは8月16日土曜日の午後18時開演、と書かれていた。


いまさらながら、何故かこの封筒を鹿内さんに渡したくない気持ちがこみ上げてくる。


どうして私はこんな役回りを引き受けてしまったんだろう。


「私は鹿内さんの彼女なので、これはお受け取りできません」と突っぱねることも出来た筈だ。


でも私はどうしても美也子さんの想いを無下に出来なかった。


あんなに純粋で真っすぐな想いを、私ひとりの権限で跳ね返すことなんて出来ない。


鹿内さんには文句を言われるかもしれないけど、これは渡さなければいけない。


私は重い足と鉛のような心を引きずり、鹿内さんの部屋のドアの前に立った。


大きく息を吸い、コンコンとドアを叩く。


「はい」


という鹿内さんの低く響きのある声が聞こえてきた。


声の調子からいって、そんなに機嫌が悪いわけではなさそうだ。


鹿内さんは機嫌がいいときと悪い時の声が全然違う。


私がドアから顔を覗かせると、鹿内さんはノートに文字を書く手を止めた。


ノートの側には何やら小難しそうな題名の本が置いてある。


大学に提出するレポートでも書いていたのだろうか。


鹿内さんは座っていた椅子をくるりと私の方に向けた。


「どうした?」


「はい。あの・・・。」


「なに?」


「すいません。私はやっぱり役不足です。美也子さんからこれを預かってきてしまいました!」


私は鹿内さんに、美也子さんがわざわざ私に会いにきたことを告げた。


「なにアイツ、つぐみのところに直接行ったの?」


「はい。一応私が彼女だって言ったんですけど、美也子さんすごく真剣で、突き放すことが出来ませんでした。」


私はその白い封筒を鹿内さんに手渡した。


「あ、そう。」


鹿内さんは訝し気にそれを受け取ると、ぽいと無造作に手紙類が入っているレターラックにその封筒を入れた。


私がいたのでは封筒の中身を確認できないのだろう。


「じゃ、私はこれで」


「あ、おい。」


鹿内さんは両手を上に伸びをすると、持っていたシャープペンシルを机に置いた。


「気分転換にモモの散歩でもしようと思っていたところだ。一緒に行かない?」


「・・・・・・。」


「嫌なら無理にとは言わないけど。」


「いや、行きます!」


私は美也子さんのことを頭から追い出し、慌ててモモを探しに1階に降りて行った。


外に出ると夏の夕暮れにしては程よい風が吹いて、昼間の暑さから比べれば過ごしやすかった。


私達はいつもの公園で一休みをしていた。


今日は小太郎は来ていないようだ。


私がぼーっとしていると、鹿内さんがモモのリードを引っ張り、私の表情を伺いながら尋ねた。


「美也子、なんて言っていた?」


「弘毅を奪わせてもらうわねって。」


「俺はモノかよ。」


そう呆れ気味に鹿内さんはつぶやいた。


「俺は誰のモノでもないんだけど。」


「でもあんな素敵な女性に想われるなんて、人生で最後かもしれませんよ?」


私は極めて明るくそう言った。


鹿内さんは頭をかきながら、ベンチから立ち上がった。


「アイツは俺を理想の王子様に仕立て上げているだけなんだ。


俺自身を好きなわけじゃない。」


切り捨てるように言う鹿内さんの言葉は強がっているようにしか聞こえなくて、思わず思ったことを口にしてしまった。


「じゃあこの先もずっと一人で生きていくんですか?


そうやって愛し愛されることから逃げて生きていくんですか?」


「・・・・・・。」


「それって淋しくないですか?」


鹿内さんは黙ったまま、地面をみつめている。


私はもう日が半分暮れかけた淡く薄暗い空を見上げた。


「私はいつになるかわからないけど、誰かを愛してみたい。


鹿内さんの言ってくれた愛ある未来を見てみたい」


「・・・愛、ね。」


鹿内さんはフッと小さく笑って見せた。


「愛なんて幻想だぜ?もっと目にみえるものを大切にしたら?」


「そんなことない。美也子さんに会って思ったんです。誰かを愛する気持ちってすごいなって。」


その言葉に鹿内さんは片眉を上げて見せた。


「愛なんて所詮、自己満足なんだよ。」


一刀両断されて私は少しむきになっていた。


「そんなこと言わないで、美也子さんともう一度ちゃんと向き合ってみたらどうですか?


私は鹿内さんの淋しそうな顔はみたくない。


だから鹿内さんにも、もう誰も愛さないなんて思わないで欲しいんです。


愛することや愛されることを諦めて欲しくないんです。」


「それなら」


鹿内さんはおもむろにベンチに座っている私の真正面で屈みこみ、私の眼を覗き込んだ。


私はその視線から目を逸らすことが出来なかった。


「・・・つぐみがその「愛」とやらを俺に見せてくれよ。」


鹿内さんはそう言うと、男の目で私の頬を両手で挟み込んだ。


私の瞳を射抜くそのまなざしは、ほの暗い炎が宿っているようだった。


7秒みつめあうと人は恋に落ちるという。


1.2.3.4.5.6・・・


どれくらいみつめあっていただろうか。


その時間が一瞬だったような気もするし、永遠より長かったような気もする。


鹿内さんの顔が私の顔に接近し、唇を奪われそうになった寸前で、私は自分の人差し指を鹿内さんの唇にそっと押し当てた。


「自棄になっている男に、初めての口づけを奪われたくないです」


私のためにも。


そして鹿内さんのためにも。


ふいに鹿内さんはぱっと私の顔から両手を離した。


「・・・悪い。」


「・・・・・・。」


「・・・俺は愛なんて言葉は信じない。」


「鹿内・・・さん?」


「つぐみ・・・愛なんて簡単に言うなよ。」


鹿内さんはただその一言だけ、つぶやいた。


どうしてこの人はそんなに大きな孤独を抱えてしまったのだろう。


美也子さんのこと、本当はどう思っているの?


と私は心で鹿内さんに問いただす。


そんな思いを抱えたまま、鹿内さんと口づけなんかしたくない。


愛を拒絶したままの鹿内さんを、いま受け入れては駄目な気がした。


鹿内さんはしばしの無言の後、振り返り、


私の顔を懐かしそうな表情でみつめた。


「ありがと。つぐみ。俺のこと心配してくれているんだよな。」


「別に・・・心配なんかしていません。」


私は震えそうになる唇をギュッと噛みしめた。


ふと前を見ると、そこにはうっすらと笑みを浮かべている、いつもの冷静な鹿内さんがいた。




そして8月16日が訪れた。


鹿内さんは朝からバイトに出かけた。


私は学校にいるときも家に帰ってからも、時間ばかりを気にして何にも集中できなかった。


他人の物を盗み見たという罪が、こんな形で自分を罰するように苦しめていた。


こんなことなら封筒の中身なんて見なければよかったのだ。


でも今更後悔しても、もう時間は戻らない。


私は夜、ベッドの中で一晩中、玄関の鍵の音が鳴るのを待ちわびて眠れなかった。


今頃鹿内さんは、美也子さんと過ごしているのだろうか?


鹿内さんは美也子さんの愛を受け入れたのだろうか?


それを望んだのは自分のはずなのに、もう一人の私が鹿内さんの帰りを待ちわびている。


気になって眠れない。


一階に降りて、コップ一杯の水を飲む。


そしてまた眠りにつこうとベッドの中へもぐりこむ。


これで良かったのだ。


鹿内さんは孤独という名の牢獄から、一歩足を踏み出したんだ。


私の思いが伝わったのだから、これは喜ぶべきことなのだ。


私のしたことは間違ってなかったはずだ。


それなのに。


どうしてこんなに胸の奥が、ちりちりと尖った針で刺されるように痛いんだろう。


なにか大切なものをどこかに忘れてきてしまったような、探し物がいつまでたっても見つからないような焦燥感に駆られているのだろう。


テストの解答欄を何回も見直して正しい答えを埋めたのに、どうしても達成感が得られないようなこの違和感はなんだろう。


行き場のない、名前のつけようのない感情に戸惑いながら、いつのまにか私は夢の中にいた。


私は深い森の中、裸足で何かを追いかけている。


ただ走り続けている。


鬱蒼と樹木が生い茂る暗闇の中で一筋の光を頼りに、何かを求めて走っている。


その距離はいっこうに縮まらなくて、私は絶望感に襲われる。


待って。行かないで。


そんな言葉が喉の奥でシャボン玉のように浮かんでは消える。


突然ハッと現実に引き戻されたように意識が覚醒し、しばらくするとまたその悪夢の中をまどろむ。


そんなことを繰り返しているうちに、気が付くと窓の外は明るくなり、私は重い瞼のまま、ベッドからむくりと体を起こした。


ひとつだけ確かな現実がそこにはあった。


鹿内さんは朝まで、家に帰っては来なかった。


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