月白邸事件

もちょき

前編

 湖のほとりから月白邸つきしろていまで約300メートル。

 その間に人が通るための道はなく、橋などもかっていない。湖には小型のモーターボートが浮かんでいるが、キーは管理人が預かっているため、夜は動かすことができない。

 目の前には屋敷を囲むように夜の湖が広がっているだけだ。

 湖面こめんには緑色のインクを垂らしたように、浮き草が静かにただよっていた。

 1分だ。

 1分間で湖を渡って月白邸に辿たどり着き、ヤツを殺害して逃げる。

 こんなことは自分にしかできない。

「……待ってろよ、月白龍之助つきしろりゅうのすけ

 にくきその名前を口にして、男はポケットの中の手紙をくしゃりと握りつぶした。


 ※


 パインとはその名の通り丸くて大きな湖で、夏になれば湖面に漂うアサザの浮き草が黄色い花を咲かせる。

 湖の中央には小島があって、そこには大きな屋敷がひとつだけ建っている。


月白邸つきしろてい


 超能力、超常現象、不老不死、錬金術。ありとあらゆる怪しげな研究に身をささげた月白龍之助は、その屋敷にいる。


 湖から1キロほど離れた森の奥で、男が倒れていた。

 死んではいない。意識はある。

 だからこそ、言うことを聞かない手脚てあしうらめしい。どんなに『動け』と命じても、肉体がそれを拒否きょひする。


(ああ……まったく、“能力ちから”を使いすぎた……たかが老いぼれ一人を殺しに行っただけなのに……)


 夜の闇は孤独をつのらせる。

 ここで俺は死ぬのだろうか、と男は考えた、その時。

 ざざっ、という野草やそうを踏む足音が聞こえた。

(熊でもいるのか……)

 男は考える。死にぞこないの俺に、まだ“能力ちから”は使えるだろうか。逃げびるだけの体力があるだろうか。

「おーい、おっさん。生きてるかー?」

 やけに間延まのびした、女の声。

(おっさん……? 俺はまだ30代だぞ!)

 闇の中で男は目をこらす。紫色のライダースジャケットを着た女が立っていた。

 まだ女子大生くらいだろうか。

 髪は金色のショートヘアで、ガールズロックバンドのボーカルみたいに見える。

「よかった、生きてるみたいだな。私は村崎むらさきアゲっていうんだ。まあ探偵みたいなことしてんだけど、なんかやべーことしてきたって感じだろ、おっさん?」

 男は笑いそうになった。

 熊ではなく、蝶だったか——それも探偵の。


 ※


 男の服装は明らかに普通ではなかった。

 黒いレインコートに、ごつごつとかたそうな登山靴とざんぐつ。胸元にはスノーボード用のゴーグルが首飾くびかざりのようにぶら下がっている。

 腰にはベルトでつながれたサバイバルナイフが一丁いっちょう。革製のホルスターに包まれたそれは、キャンプに使うための道具には見えない。

 暗殺者。そう呼ぶにふさわしい格好だった。

「まさかおっさん、月白龍之助を殺しに行ったとか?」

「月白を、知っているのか」

「有名人だろ。私はガキだったからよくおぼえてないけど、昔はオカルト系のコメンテーターとしてテレビに出まくってたそうじゃん。パイン湖にそいつの屋敷があるって聞いたから色々調べたけど、黒いウワサばっかりだな。たとえば——研究に失敗して善良ぜんりょうな市民を死なせちまった、とかな」

「その、善良な市民は、俺の弟のことだ」

「……え、っと。マジか。ごめん、つらいこと思い出させちまったな」

 男は吹き出した。

「な、なにがおかしいんだよ!」

「はは……お前、良い奴だな。探偵ってのはもっと気難きむずかしい人間だとばかり思ってた。……なあ探偵、ひとつ頼まれてくれないか?」

「私は夜の散歩を楽しんでただけなんだ。無理な頼みは聞けないぜ」

「無理というほどじゃない……俺が月白邸でやったことを、ただ忘れないでおぼえてて欲しい。俺は、何もできなかった。何も残せなかった。俺には大切なことをたくせる友人も、恋人もいないからな」

「なんだそれ。まるで遺言ゆいごんみてーじゃねえか」

「遺言だよ。俺の命はもう長くはない。なあ、お前は超能力を信じるか?」

「超能力があるって根拠こんきょはない。だけど超能力がこの世に存在しないって根拠もないから、私はどっちでもないよ」

「……回りくどいな、探偵」

「回りくどいのはおっさんの方だろ」

「ついさっき、俺が月白を殺害しに行ったと言ったら、お前はどう思う?」

 その言葉に、アゲ羽はパイン湖を思い浮かべる。

「そりゃ難しいだろ。でも、あの湖に橋はないし、夜になったらボートも使えないだろうけど、300メートルくらいなら泳いで渡れない距離じゃない。問題は誰にも見つからずに屋敷に侵入しんにゅうすることだろ」

「その通り。——さて、超能力の話に戻ろう。俺にはある“能力”がある。こいつのせいで俺は月白と知り合い、弟を失った」

「その能力ってのは?」

 男は「やれやれ」と口にして、ゆっくりと上半身を起こした。それから激しくき込み、胸元をおさえる。

「今から見せてやる……探偵、一瞬たりとも目を離すんじゃないぞ」

 アゲ羽は男を見る。観察するように、じっくりと、注意深く。


 そして、

 


「は、えっ?」

 突風が吹き、アゲ羽は乱れる髪を押さえつけた。

「おい! どこだおっさん!」

「……どこを見てるんだ、探偵」

 背中から声。振り返ると、男が鼻血をたらして倒れていた。荒々あらあらしく呼吸を繰り返し、痛みをこらえるようにうめく。

「瞬間移動したのか?」

「……違う」

「まさか、時間を止めて、そのすきに私の背後に移動した……のか?」

「まあ、そんなところだ」

 アゲ羽は腕組みして、しばらく考え込む。

「時間を止めればゆっくり泳いで渡ればいいし、屋敷の人間にも見つかることがない……」

「1分だ」

「あ?」

「俺は1分しかこの能力を使えないんだよ。この意味がわかるな、探偵?」

 たったの1分でパイン湖から屋敷まで移動し、月白龍之助を殺害し、そして現場から逃げる。

 そんなことできるはずがない。

 そんなことは不可能……

 可能だ!

 たったひとつだけ方法がある!

「あぶねー。あやうく勘違いするところだったぜ。時間を止めたのか? って私は聞いたけど、おっさんはその質問に対して認めちゃいないんだよな。『まあ、そんなところだ』って曖昧あいまいなことしか言ってねーワケだし」

「はは……。さすがに鋭いな。俺の本当の能力がわかったか?」

 挑発的な物言いに、アゲ羽はまるでどうじることがない。

「当然だろ。謎はすべて解けたぜ」


 ※

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