第41話 引かれた境界線
直後、トロワを包んでいた黒い球体が音もなく弾け、消失した。
そのまま黒い水の中へ落ちてしまうところだったトロワを、寸でのところでウィルが抱き留める。ちょうど、少し腕を伸ばして前へ体を傾ければ届く距離だったのだ。
「おにいさまぁっ、僕、僕……っ!」
まだ感情が落ち着かないのか、トロワが抱えられたままウィルの首にしがみついてくる。
いきなり腕を巻き付けられた苦しさに顔を歪めるものの、ウィルは何とかトロワを落とさずに済んだ。
「ったく、しょうがねぇなあ……。ほら、落ち着いたんなら、この魔法止めろって」
トロワの背を抱えたまま、ウィルは器用に掌だけでぽんぽんと背中を叩いてやる。トロワはゆるゆると顔を上げて、ウィルの顔を見た。
「魔法……?」
「そ。このよくわかんねぇ黒い水だよ。お前の魔法なんだろ?」
ウィルの言葉に、トロワは周囲をきょろきょろと見回し、そして
「僕、何にもわかんない……魔法って、どうしたらいいの……?」
と言った。
「…………は?」
ウィルの口から間抜けな声が漏れ、二人は顔を見合わせたまましばし無言になる。
どちらも、相手が次に何か言うだろうと思って黙っていたのだ。自分は何も言う事が無いから。
その間、時間にしておよそ5秒。それが長いと感じるか、短いと感じるかは人それぞれである。
そして、相手が何も言う気がないと気付いた二人は、一斉に喋り出した。
「いや、いやいやいやいやいや!!!! どうしたらって、俺だってわかんねぇよ!! お前が泣き喚いたからこんなことになったんだぞ、何とかしろよ!!」
「だってだってだってだって~~~!!! 本当に本当に本当にわかんないんだもん! 僕何にもしてないよぉ! 確かにちょっと泣いちゃったけど、こんなの知らないよ! 何とかって言われても、全然わかんない! どうしたらいいのぉ~!!」
「ええい、泣くな喚くな騒ぐな!! また泣き出したら、次は何が飛び出すかわかんねぇぞ!」
「わーーーんどんどん水が溢れ出してるよぉ~!! このままじゃ、僕達また沈んじゃう~~~!!」
混乱と焦りと恐怖に支配され、ウィルもトロワも滅茶苦茶に騒ぎ出す。
水が沸き続ける音がそれに加わり、更に水流に飲み込まれた木々や岩がぶつかり合って耳障りな音を立て始める。
もはや阿鼻叫喚と呼ぶにふさわしい光景であった。
「やれやれ……いくら力に目覚めても、自分で始末がつけられないんじゃ困るなぁ」
不意に聞こえてきたのは、幼い誰かの声。
そして、彼は、いや彼女は、ウィル達の前に空から降りてきた。
「手伝ってあげるのはこれっきりだよ。ボクは本来、キミ達に介入していい立場ではないんだ。ボクだって怒られちゃうんだからね」
まるで子供に言い聞かせるような口ぶりで言うその人物は、歳は十歳かそこらの、少年とも少女とも見える不思議な顔立ちの子供だった。
何より不思議なのは、その子供が空から静かに舞い降り、そして今も黒い水に足を浸すことなく、宙に浮いているということ。
蒼く長い髪……ティモールもそうだったが、こちらの子供の方がより深く、静かな蒼い色だった……を静かに揺らしながら、子供は両手を前方に掲げる。それに合わせて、黒い水の勢いが止まる。
さらに子供は両手を頭上へと向ける。ウィルの腰まで濡らしていた黒い水が、まるで地面に吸い込まれたかのように、目に見える速さで引いていく。
だが、本当は地面に吸い込まれたわけではないことは、ウィルにも理解できた。
水は、この子供の力によって、どこかへ移動させられたのだ。
「まあ、こんなものかな?」
子供がそう言って手を下ろした頃には、河原の地面は露出しており、水と言えば向こうに流れる川ぐらいしかないという状態だった。
ただし、地面は水流によって抉られた跡が残り、水浸しになった植物が萎びて地面に倒れ伏している。
周囲の木々の幹には、水位を表す変色がしっかりと残っていた。
一連の光景を目の前で展開され、ウィルもトロワも呆然としている。
「あ、あの……君は、一体誰……?」
ようやくトロワがそう尋ねると、青い子供はにこりと笑った。
「ボクはスピカ。キミ達をずっと見守ってきたし、これからも見守り続けるモノだよ」
「……敵じゃ、ねえのか?」
固い口調で、ウィルがそう続ける。スピカと名乗った子供は、悪戯っぽく唇を吊り上げた。
「そうだね、敵ではないよ。ボクは誰の敵でもない。そして誰の味方でもない。……トロワ、キミ以外にはね」
「えっ!?」
トロワは驚き、その動作でウィルの腕からずり落ちそうになる。
そういえばずっと抱えたままだったと、ウィルは慌ててトロワを地面に下ろした。
「どうして、僕の名前を知ってるの?」
「言っただろ、ボクはキミ達をずっと見守ってきたって。まあ具体的には、キミを、かな?」
「僕を、ずっと前から知ってるってこと……?」
トロワの問いに、スピカは頷く。
「じゃあ、じゃあ! 僕に、お姉様がいるって、本当なの!?」
トロワが急いで問いかけると、スピカはきょとんとし、そして可笑しそうに笑い出した。
「面白いなぁ、キミは! ボクにまず質問することが、それなの? あはは、これは予想しなかった!」
ウィルとトロワが反応に困っている前で、スピカは一頻り笑うと、当初の子供らしい表情に戻った。
「その質問に答えよう。確かにキミには、お姉さんがいるよ。一人はソルフレア、もう一人はメドラ。二人は前魔王ヴィルブランドの娘達だ」
「……じゃあ、その二人が、僕の命を狙っているの……?」
「おっと、そこは訂正。キミを狙っているのは、ソルフレアだけさ。メドラは王権に興味を持たず、随分前に出奔したからね」
スピカが答えていくのを、トロワはショックを受けたような顔で聞いている。ウィルは、黙ってそれを聞いていた。
「僕、お姉様がいるなんて知らなかった……お父様は、どうして教えてくれなかったんだろう……」
「それも、ボクは答えることが出来るよ。でも、今日はここまでだ。全てを伝えるには、まだ早すぎる」
そう言うと、スピカの姿がまるで滲むように透けていく。それを見て、トロワは急いで口を開いた。
「えっと……スピカ! 助けてくれて、ありがとう!」
その言葉に、スピカは何かに驚いたように目を丸くする。
「……ふふ、キミに名前を呼んでもらえたのなら、手助けした甲斐があったかな」
殆ど消えつつある姿で、スピカはそんな言葉を零す。子供の顔立ちに似合わない、懐旧の滲む声だった。
「キミ達のことは応援しているよ。特にトロワ、もう少し泣き虫を直しなね」
その言葉を言い切る頃には、スピカの姿はすっかり消えていた。
呆然と佇む二人の背後から、誰かが駆け寄ってくる音がする。
「トロワ様、ウィル様。ご無事、でしょうか」
「……クレシア!」
すっかりぬかるんだ河原の地面を、クレシアが駆け抜けてやってきた。彼女の顔やワンピースも泥のような汚れが散見されるが、彼女自身に怪我はないようだった。
「先程の、襲撃者は」
「トロワの魔法で追い詰められて、逃げちまったよ。悪いけど、こっちも追いかけられる余裕もなかったし」
ウィルが答えると、クレシアはウィルに向かって頭を下げた。
「いいえ、ウィル様。今回の件において、最も安全な判断は、敵を追撃、殲滅することではなく、トロワ様のご安全を、最優先で確保すること、です。トロワ様を、お守りくださり、ありがとうございました」
丁寧に礼を言われ、ウィルは咳払いして場を繋ぐ。
トロワはと言えば、まだスピカとのやり取りに気を取られているのか、クレシアが戻ってきたことにも気付いていないようだった。
「そういえば、リチアさん達は?」
クレシアには、リチアとソディアックの救助を頼んでいたはずである。ウィルの問いに、クレシアは淀みなく答えた。
「ここから0.9キトメ、離れたところに、高台がありましたので、そちらにお連れしました」
「そっか、それなら安心だな……」
報告を聞き、ウィルはほっと胸をなでおろす。
しかし、クレシアは更に言葉をつづけた。
「そして、ご一緒にここまで、戻ってまいりました」
「え」
その言葉に、ウィルははっとクレシアの背後を見る。
今まで気が付かなかったが、少し離れたところにリチアとソディアックがいる。
クレシアの言葉通り、彼女は二人を連れて戻ってきてしまったのだ。
「な、なんで……」
「私が、この場にて待機していただくよう、再三お願い、申し上げたのですが、お二人の意志が固く、聞き入れて頂けませんでした。トロワ様の、護衛のため、可及的速やかに、こちらへ戻る必要が、あったため、お二人の説得を中断し、こちらへ戻ってまいりました」
クレシアが無機質に説明するのと対照的に、ソディアックの目は明らかな怒りを含んでウィルを睨んでいる。
「おい……これらは一体何なんだ。あいつらは一体何だ。さっきの黒い水は一体何だ。お前らは一体何なんだ!」
矢継ぎ早に問い詰められ、ウィルは碌に反応もできずに視線を彷徨わせる。
それを見て更に苛立ちを強くしたソディアックは、ずかずかとウィルの方へと詰め寄ってきた。
「お前らのために、お嬢様はこんな危険な目に遭って、ボクまでこんな薄汚れて! 助けてやったというのに、恩を仇で返してくるなんて、やっぱり〈
「な、この……っ」
一方的に強く詰られ、ウィルの顔に怒りが浮かぶ。
「そ、そりゃあ危ない目に遭わせて悪かったよ! 助けてくれたのもありがとうよ! だけど、悪いのは全部俺達か!? トロワは襲われた側なんだぞ、被害者だぞ! そこまで言わなくてもいいだろうが!」
「うるさいうるさいうるさい! もうお前達の顔なんか見たくもない! これ以上、理解できないものなんか要らない! 金輪際、ボク達に関わるな!」
ソディアックは髪を振り乱し、もはや癇癪のような勢いでそう言い切った。ウィルの言葉も、目の前の現実も、全てを拒絶する言葉だった。
その言葉に、トロワは酷く傷ついた顔をした。それは誰にも気付かれず、トロワは俯いてその表情を隠した。
「ソディ、もうやめて……それ以上、言わないで……」
彼の背後から、リチアが静かに言った。はっとするウィルの前に、リチアがゆっくりと歩み寄ってくる。
いつも綺麗に整えられていた髪も、今はあちこちが緩んで解けてしまっている。おそらく巻き込まれた際に濡れてしまったのだろうドレスの裾が、彼女の足に鬱陶しくまとわりついている。
その姿に、ウィルは苦い気持ちを味わった。ソディアックの言う通り、自分達に関わったせいで、彼女はこんな目に遭ってしまったのか。
「ウィルさん、クレシアさん、そしてトロワさん……皆様がご無事でよかった。これは私の本心です、どうか信じてください」
穏やかにリチアは言って、無理やりな笑みを浮かべた。
「ですが、私は知りたいのです。トロワさんを襲った者達が一体何者なのか……先程の、突然現れた黒い水は、あれは魔法なのでしょうか? トロワさんは、本当は〈
「……ぼ、僕、は、」
リチアの問いかけに、トロワはすぐに答えられなかった。
その様子を見て、ウィルが声を上げた。
「わかった、俺が説明する。俺も知らないことやわからないことがあるけど、俺で言える範囲なら隠さず説明する。クレシア、俺がもし間違ってたら、横から訂正してくれ」
「はい、承知いたしました、ウィル様」
クレシアが頷くのを横目で確認してから、ウィルは静かに語り出した。
リチア、ソディアックが質問してきたことに対して、彼の知り得る情報を全て丁寧に説明し、曖昧な部分はクレシアに補足させた。
トロワの出身地も、身分も、謎の力のことも、クレシアが人間ではないことも、全てを二人に話した。
「そんなふざけた話を信じるか、……と、数日前のボクなら言っているな……」
ソディアックは苦痛を堪えているかのように険しい顔で、それだけを口にした。
リチアは何も言えなくなってしまったらしく、無言で俯いてしまった。彼女の混乱が察せられて、ウィルもこれ以上の説明は過剰だと、口を閉じた。
やがて、ソディアックはリチアを促し、河原から立ち去った。数日前とは違い、リチアはソディアックの指示に抵抗せず、無言で彼に連れられていった。
二人とも、受け止めた情報があまりにも多く、そして自身の持つ常識からかけ離れているせいで、この場を去ることで思考を守ろうとしたのだろう。
振り返らない二人の背を、ウィルとトロワもまた無言で見送った。
「……はあ、俺達も帰ろうぜ、トロワ」
短く息をつき、ウィルは背後にいたトロワを振り向く。
トロワは酷く憔悴し、ウィルの言葉も聞こえていないようだった。ウィルが歩み寄り、その小さな肩をそっと叩いて気を向かせる。
「、おにい、さま……」
「俺達もずぶ濡れだ、ひでぇ格好だぜ。早いとこ帰って、シャワーでさっぱりしようや」
ウィルは何でもないことのように、まるでいつもの仕事帰りのように、なるべくいつも通りに、そう言った。
トロワはうん、と頷いたものの、そのまま三人のアパートに戻るまでずっと無言だった。
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