第16話 トロワ、大暴走!

 その時聞こえた音は、何とも形容しがたいものだった。ぎゃん、とも、みゃん、とも聞こえた気がするし、そもそも『音』だったのかどうかすらよくわからない。


 ただ、その音が聞こえた瞬間、トロワの周りにいたミルキィとジョンが、いきなりその場から二、三歩後方へ飛び退ったことは確かだった。

 まるで、何かに押し退けられたかのように。


「な、なに……? 急に何なのよ」

 ミルキィの狼狽えた声に、トロワは痛みで歪む意識の中、トロワを凝視する。怯えたように蹲るその体が、どこか濁って見える。

 それは濁りではなく、彼を包むように不透明な障壁が展開されているのだと、ウィルはようやく気が付いた。


「ううぅう、もうヤダよぉ……おとうさまもいないし、やっぱり僕一人じゃ、修行なんて無理だよぉ……っ、しかも、変な人達が、怖いことしてくるしぃ……っ、もうやだ、こんなのやだ、もう僕帰りたいよぉおおおおおっ!」


 トロワは大声で叫び、そして泣き始めてしまった。まるで赤ん坊のような、なりふり構わない大号泣である。

「わぁあああああんっ、おとうさまぁあああっ! 迎えに来てよぉおおおっ!」


 すると、信じられないことが起きた。

 トロワの鳴き声に呼応するように、彼を包む障壁が、はっきりと視認できるほどその厚みを増した。そしてそこからにじみ出るようにどす黒い靄が生じ、ミルキィやジョンが狼狽えているうちに、その靄は意志を持つかのようにトロワを包み、その粒子を凝集させて一つの形を形成していく。出来上がったのは、例えて言うなら『腹のあたりにガラス玉を埋め込んだ、頭のない巨大な赤ん坊』の姿だった。


「な、な、な……!?」


 これにはウィルも、痛みすら忘れて呆然としてしまった。同じく呆然とするホワイトローゼ姉弟の前で、頭のない黒い赤ん坊は、その丸々とした手足でもがくようにして、周囲を手あたり次第に破壊し始めた。赤ん坊と言っても、その大きさは四つん這いのままで周囲の倉庫の屋根に届きそうな程なのだ。少し手を振っただけで、それが当たった倉庫の壁がいとも容易く破壊されてしまった。


「ちょ、ちょっとちょっとぉ!! 何なのこれ! 聞いてないわよこんなこと!!」

 混乱のまま、ミルキィが怒鳴り散らす。それに反応したのか、黒い赤ん坊の手がミルキィの方へと伸び、まるで玩具を手に取るかのように彼女を握り込もうとする。


「姉さん、危ないっ!」

 ジョンが叫び、横から彼女の体を押し退けるようにしてその場を逃がす。寸でのところで難を逃れたが、当のミルキィは助けてくれたはずの弟に当たり散らしている。


「どういうことなのジョン! こんな面倒なことになるなんて、あたし聞いてないんだけど!? お前があの時失敗したせいで、厄介なことになっちゃったじゃないの!!」

「申し訳ありません。ですが、俺もこのような状況は想定外です。あの方は何も……」


 喚くミルキィを抱えて、ジョンは必死に逃げ回る。足を止めれば、赤ん坊の手が容赦なく降り注いでくるのだ。そこに明確な感情はなく、ただ動いているものを衝動的に掴もうとするだけの動作でしかない。

 動くから追いかけられる、だが止まれば捕まる。それを察知しているジョンは、とにかく逃げ回るしかなかった。


「なんなんだ……あれは、トロワの魔法なのか……?」

 木箱の陰にいたことで難を逃れたウィルは、こちらに背を向けた黒い赤ん坊を見上げて呟いた。

 見間違いでなければ、トロワの周りからあの黒い靄は生じていた。もしかしたら、あれはトロワが咄嗟に発動させた魔法の類なのかもしれない。

 ウィルは魔法のことは碌に知らないので、そう結論づけた。


「そうだ、クレシア……!」

 はっと冷静になり、ウィルは向こう側の瓦礫の山へと駆け寄る。幸いにも、あの黒い赤ん坊はこちらに気付いていないのか、向こう側でジョンを追いかけ回している。その隙にと、ウィルは瓦礫の欠片を一つ一つどかしながら、その下にいるであろう彼女を探した。

 壁や材木の破片の下で、無事でいるとはとても思えない。だが、見覚えのある黒い衣服を掘り当て、そこから周囲の破片を取り除いていったウィルは、驚愕した。


「な、何で無傷なんだ……!?」


 瓦礫に埋もれていたクレシアは、様々な汚れは付着していたものの、その白い肌には一切の傷がついていなかった。眠るように目を閉じているその表情は普段通りの無表情で、苦痛を感じている様子すらない。

 壊れた人形……咄嗟にそんなことを連想し、それを振り切るようにウィルは彼女の体を抱えて起こしてやった。


「クレシア、大丈夫か!? 生きてるか!?」

「……魔導人工知能、復旧完了。再起動、します」


 何か聞こえたような気がしたが、クレシアの唇は一切動いていなかった。そして、クレシアはぱっちりと目を開ける。

「ウィル様、おはよう、ございます」

「へ、あ、お、おはよう……いや、じゃなくて!」

 思わず挨拶をし返したが、ウィルは慌てて首を振った。


「お前、あのジョンって奴にぶっ飛ばされて、壁にぶつかったんだぞ。痛いところないか? 骨とか折れてたら、無理に動かない方が、」

「問題、ありません。損傷は、軽微です」

 短く答えて、クレシアはすっくと立ちあがった。ウィルですら、まだ痛みが残って動きに支障が出ているというのに、よほど頑丈な体のつくりなのか。


「トロワ様は、ご無事ですか?」

 クレシアは言いながら、周囲をきょろきょろと見渡す。軋む体を何とか立たせて、ウィルは振り向いて指をさそうとした。

「ああ、あの黒い……、……」

 あの黒い靄みたいなのが、と言おうとしたウィルは、言葉を失った。

 少し目を離した隙に、トロワを抱えた黒い赤ん坊は、もはや倉庫よりも大きく膨れ上がっていた。


「まじ、かよ……!? おいクレシア、あれは何なんだ! あれはトロワの魔法なのか!?」

 思わず横にいるクレシアに問い質したウィルだったが、クレシアもまた目の前の光景に驚いているようだった。

「該当する、データがありません。クレシアには、わかりません。該当する、データがありません……」

 表情も声も変わらないが、同じ言葉を繰り返すばかりの様子に、彼女の混乱が窺えた。


 黒い赤ん坊は周囲の建物を掴み、ちぎるように破壊しては放り投げていく。おそらく製造工場の機械を破壊したようで、爆炎と煙が吹き上がった。赤い炎に舐められても、赤ん坊は怯む様子が一切ない。おそらくあの体に痛覚は生じていないのだろう。

「このままじゃ、工場が滅茶苦茶だ……! とにかく、トロワのところへ行かないと!」

 ウィルは走り出そうとしたが、あちこちを痛めた体ではいつものように走ることすら難しい。痛みに顔を顰めたものの、ウィルは必死に足を前へ前へと向かわせる。


「ウィル様、失礼、いたします」

 背後からクレシアの声が聞こえ、ウィルは振り向く。どうした、と聞くより早く、体がふわっと浮き上がってウィルは驚きの声を上げた。


「うわっ!」

「歩行困難であれば、クレシアがお助け、いたします」

 ウィルを横抱きに、つまりお姫様抱っこをして、クレシアはそう言った。少し前にトロワがしてもらったのと同じ抱え方である。


「え、いや、これはちょっと……」

「では、如何しましょう?」

 女の子に姫抱っこされるのは、ウィルのプライドが許さない。かと言って、今自力で歩くも辛い中、ウィルがたどり着いた答えは。

「……じゃあ、おんぶで、お願いします」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る