第25話 ネズミによる被害

「まいったなあ」


大きなミズナラの木の上で、小さなネズミがため息まじりに呟いた。

その眼下には早足で移動する三つの人影があった。

ネンコにとってそれだけなら特に何ということはなかったのだが、問題は向かう先である。

このまま進めば、あと十分足らずでリアのいる場所に出る。

奴らが何者かは分からないが、決して良いことにはならないように思えた。

ネンコはリアのいる方向に意識を向ける。

ネンコの眼をしても数キロ離れたところで眠っているリアの姿は見えないが、その研ぎ澄まされた感覚はあらゆる気配を感じ取ることができた。

ネンコはリアの周囲に害をなすような生き物がいないことを確認すると、前足を組んでじっと考え込むような素振りをする。

しばらくそうしていたが、やがて前足をほどくと木から木へと飛び移りながら三人の後を追いかけたのだった。



男と二体の魔物は黙々と歩き続けていた。

彼らの行く手を阻むものもなく、順調に事を進めているはずだった。

しかし、男は急に立ち止まった。

体勢を低くして、後ろの背後の二体にも動かぬよう手で合図を送る。

魔物たちは命令に従い、息を殺す。


(……つけられている?)


男は視界を広げるため音を立てないよう慎重に黒いフードを上げる。

解放された長い銀髪が月明かりで輝いた。

男は少し痩せてはいるが美しい顔立ちをしていた。

耳は人間のそれより大きく、するどく尖っている。

肌は青黒く、生きている人間のものとは思えない。

男はダークエルフだった。

闇を好む邪悪な種族である。

忌むべき神を奉じており、信仰のためならば手段を選ばない。

力は強くはないが、身軽で、狡猾、汚れた魔法を使う。


男は周囲を見渡す。

生まれながらに持つ暗視の力により、暗闇でもはっきりとものが見える。

また、気配を察知する力も人間より秀でている。

彼はその二つの力を使って辺りを警戒する。

しかし、森はいつもの様子で、特に変わった点はないようだった。


(わずかに何かの気配がしたが……気のせいだったか)


警戒を解いて立ち上がる。

目的の場所まであと僅かなので、気が急いているのだろう。

こういうときこそ落ち着かなければならない。

男は自分自身にそう言い聞かせ、先を急ごうと足を踏み出したのだが……。


『引き返せ』


突然、森に声が響き渡った。

今度こそダークエルフたちは身構える。

各々が神経を研ぎすませて声の主を探すが、やはり見つからない。


『引き返せ。引き返さないと後悔することになるぞ?』


再び声が響いた。


(森の精霊か?)


しかし、ダークエルフはその考えを打ち消す。

精霊は言葉を発しない。

意思の伝達が必要なときは頭に直接かたりかけてくるのだ。

声は明らかに耳から入った音だった。


『はよ、帰れ』


声の主は、指示に従わないことを不満に思ったのか、少し苛立ったような口調になった。

ダークエルフは怪物たちに目配せすると、右手は細剣に、左手は触媒袋にゆっくりと手を伸ばす。

ほとんどのダークエルフは魔法戦士としての素質を備えている。

もちろん彼も例外ではなく、魔法と剣の両方に長けていた。


『止めておけ。ろくなことにならんぞ』


その言葉を皮切りに、三体は一斉に動いた。

大型の怪物たちは腕を振り回しながら大声を上げ威嚇する。

ダークエルフは素早い動作で細剣を抜き放つ。

さらに触媒袋の中の『塩』に指で触れ、然るべき魔法の言葉を唱える。


『仇なす者の姿を……!』


「警告したぞ?」


言葉とともにダークエルフの目の前にいた怪物の首が百八十度回転した。

その勢いで怪物の巨体は大きく横に吹き飛ぶ。

ほぼ同時にもう一体も上から何か見えない力をぶつけられたように地面に叩きつけられた。

ダークエルフは固まったように動けない。


「ほれ、みろ」


呆然とするダークエルフに声がかかる。

しかし、今や彼の眼にはしっかりと敵の姿が映っていた。

使った魔法は『索敵』。

術者に敵意を持つ者の姿を浮かび上がらせるものだ。

暗い森の中に小さな赤い光がぼんやりと輝く


(なんだ、こいつは!?)


それはネズミのように見える。

ダークエルフはこの姿で、これだけの力を持ち、さらには人の言葉を操るような魔物を知らなかった。


「な、なぜ、邪魔をする? 俺たちが何をした?」


ダークエルフは動揺しながらも、ネズミに声をかける。


「……お前らからは悪い匂いがする。そんなやつらに会わせるわけにはいかないからな」


「誰をだ?」


「知らなくていいぞ」


ネズミはそう言うと前足で腹を掻いた。


(ふざけやがって)


人を小馬鹿にしたような態度にダークエルフは怒りを覚えたが、すぐに心を落ち着けて考える。

先ほどあっけなく倒された魔物―――トロールは決して弱くはない。

熟練の剣士を五人集めても、倒すことは難しいだろう。

それをこのネズミは一瞬で二体を打ち倒してしまった。

自分ですらそんな真似はできない。


(恐ろしい力だ。しかし……)


彼は焦りはしたが、絶望しているわけではなかった。

ネズミの背後にゆっくりと起き上がる影を見て、ダークエルフは笑みを浮かべる。


「あれ? お前らなんで生きてんの?」


気配を察したのか、ネズミは首だけ上に向けて自分を見下ろすように立っている魔物の方を見る。


「やれ!!」


ダークエルフはトロールに指示を出すと、大きく後ろに飛ぶ。

トロールたちは主の命に従い、その巨体で敵を押しつぶそうと飛びかかった。


「手応えあったんだけどなあ……」


ぶつぶつと呟くネズミを見て、ダークエルフは勝利を確信する。

ネズミに魔物や魔法の関する知識がないことを知ったからだ。

トロールを凶悪たらしめるのは、暴力的な性格や身体能力の高さではない。

強力な再生能力―――これこそがトロールの最大の武器なのだ。

通常の攻撃や魔法でつけられた傷であれば例えそれが致命的なものであろうと、瞬時に治ってしまう。

もちろん不死というわけではなく、弱点はあるのだが、それを知らない限りトロールを殺すことは不可能であった。

長期戦にはなるが、倒すすべがない以上いずれ敵は疲れ果てて、逃亡なり降伏なりするだろう。


「まあ、そんなことは許さんがね!」


ダークエルフはそう叫ぶと、触媒袋からからからに乾燥した指を取り出した。

自分の崇高な使命に水を差したこの生き物には、死をもって償わせる。

彼は触媒を左手に握りしめると、第六位の闇術である『死の言霊』の詠唱を始めた。

この魔法は、死の世界に棲むと言われる魔物の指を触媒とする。

魔法の抵抗に失敗すれば即死、抵抗しても一時的に相手に恐怖を植え付け、しばらくは戦えなくなる。

彼はこの魔法で多くの人間と魔物の命を奪ってきた。


ネズミの方に目をやると、またトロールを吹き飛ばしていた。

吹き飛ばされたトロールは地面から三メートルほど身体を浮かせた後、頭から地面に落下する。

首はあらぬ方向に曲がり、眼球も飛び出したが、すぐに再生を始めていた。

すでにネズミはもう一体のトロールに攻撃を仕掛けようとしている。

ネズミとダークエルフの距離は十分あり、ネズミがどれだけ素早くても間に合わないはずだ。


(死ね!)


ダークエルフが最後の言葉を発しようとしたとき、物凄い衝撃が彼の腹部を襲った。

魔法の言葉の代わりに、口からどす黒い血を吐き出す。

そして、膝から崩れ落ちるように地面に突っ伏した。


「魔法はダメだぞ」


自分の血で顔を汚しながら、ダークエルフは必死に声のする方を見る。

そこには、先ほどまでトロールと戦っていたネズミの姿があった。

トロールは二体ともボロ雑巾のようにされており、まだ再生が終わっていない。

ダークエルフの魔法は先ほどの一撃で完全に中断されてしまった。


「……ば、化物め……」


彼は薄れていく意識の中で、声を絞り出す。


「それはお前らだろ?」


そう言うとネズミはトロールの方に身体を向ける。

ダークエルフはその小さな姿を見ながら、自分の不運を呪った。

やつは生きているものの力ではどうしようもない存在なのだ。

その見た目からは想像もつかないが、恐らく神や悪魔、竜といった世界の理の外に身を置く存在なのだろう。


「……天災……か」


彼は自分なりの結論を出してそう呟くと、意識を手放した。

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