2-21.乾由貴 対 笹渡耕助②-2
「まだです」と即答する。
笹渡がいつ、話を打ち切るかわからない。これは綱渡りなのだ。〈黄昏の者たち〉にとって不利になることを、そう簡単に語るとも思えない。だが、もう少し話せることはあるはず。
先程までの話を思い返す。
そう、文化の話をしていた。
「話を戻しますが……文化は獲得形質ですよね」と由貴は言った。
文化的なものを種の定義に加えると、現在の科学体系との大きな矛盾が生じる。確率的な突然変異と自然淘汰により種の分化が起こるという考え方が、現代の遺伝生物学のセントラルドグマ、原理原則、一丁目一番地だ。文化という、遺伝子にコードされない後天的なもので種を鑑別することは、教科書的には正しくない、ということになる。
だが、笹渡はあっさりと応じる。
「獲得形質は遺伝します。生命を遺伝子の器と見なすネオダーウィニズムは、必ずしも正しくないのです」
「ネオダーウィニズムへの批判は承知しています」知識不足は否めないが、この男の話についていくしかない。つくづく、この場には桃山修の方が適任だったと思う。「ラクトース代謝酵素を持たない大腸菌をラクトースしかない培地で培養すると、通常ではありえない速度で突然変異が起こり、代謝できるようになる。これは、確率的な突然変異と自然淘汰だけでは説明がつかない。何らかの環境との相互作用があると考えるのが自然です」
「ラクトースオペロンの話ですね?」
「あとは……ショウジョウバエの横脈欠失。蛹への熱ショックが、遺伝子の欠損と同じ働きをする。これも、遺伝子の発現過程が、必ずしも遺伝子にコードされない仕組みによってコントロールされていることを示唆していると考えることもできます。さらにこれを数世代繰り返すと、熱ショックなしに横脈欠失を生じるようになる。この時、元々あった遺伝子が横脈欠失の遺伝子として機能するようになっている。設計図であるDNAとは別に、環境に対応する、遺伝子の表現システム、いわば取扱説明書のようなものが、遺伝しているとも考えられる」
「表現型可塑性という言葉がありますね。その可塑性の程度が、遺伝する可能性に、既に人類は辿り着いている。遺伝子中心の考え方を批判する、構造主義生物学です。これに倣うなら、いわば、メタ構造主義生物学のようなものに、私たちは従っているのです」
ふと、違和感を覚えた。
今、目の前で明瞭に話す笹渡耕助は、昨日までの笹渡耕助と同一人物なのだろうか。これまでの職歴さえはっきりと説明できなかった彼が、頭の中で体系化された知識を的確に引き出して簡潔に会話しているのだ。
前頭側頭型認知症が進行し、脳の前頭葉の一部や側頭葉に存在する言語領域に病変が及ぶと、言語能力に支障が生じる。今の笹渡にその兆候は見られない。
あるいは。
彼の脳には極めてアノマリーな認知様式が構築されており、自分が何者かに関する内容に限っては、極めて高度な認知が保たれている、と考えることはできないだろうか。たとえば、メタ構造主義生物学とやらに基づいて人類を観察する宇宙人としてのアイデンティティについてだけは選択的に記憶し――。
「植えつけられた?」と由貴は呟いた。
園田実宇の、半ば妄言のような考察を思い出した。
笹渡耕助は、〈ESクリア〉の摂取によって銀河のパワーと繋がり、宇宙人に意識を乗っ取られているのではないか。
もしも彼が呈しているものが、初期症状であるとしたら。
そして、末期症状が石黒一成であるとしたら?
「乾さん?」と笹渡が言った。
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
言語連想検査では、『殴る』に対して『男』、『傷』に対して『痛くて、可哀想』、『死』に対して『時として、必要』、『涙』に対して『見たくない』、『最低の』に対して『独占する人』、『浮気』に対して『独占』、『人気者』に対して『局在』と答えていた。笹渡が親しくしていた長内夏海は、江口から精神的DVを受けていて、それに強い怒りを感じた。だが、歪んだ認知から自分の恋愛感情を認識せず、進化生物学的な理屈をこじつけた、と考えることもできる。長内を守るため、スマートフォンを破壊して繋がりを隠蔽したことにも筋が通る。
頭の中に幾つもの仮説が渦巻いていた。そのいずれもが正しいのかもしれないし、いずれかが正しいのかもしれないし、すべて間違っているのかもしれない。現象は一つしかないはずなのに。
すみません、と由貴は応じた。
「どうも僕は、この手の話は苦手なんです。専門は認知科学、犯罪心理学なもので」
「こちらこそ、妙な話ばかりして申し訳ない」笹渡は首から上だけで頭を下げた。
妙な話という自覚はあるのだな、と思う。
それからはしばらく、留置場での生活の話になった。曰く、警察官の巡回が今日になって増えたのだという。平埜への警告はそれなりの効果を発揮していたようだった。
留置場での監視にも、特異被留置者、特別要注意被留置者等の段階がある。最高レベルになると二十四時間対面での監視となるが、笹渡の扱いはまだそこに至っていないようだった。
雑談を交わしながらも、頭の中では浮かんでは消える仮説を整理していた。
今できることをする。今鑑別できるものを鑑別する。そのために何を訊けばいいかを考える。
ならば、宇宙人説はひとまず後回しだ。
由貴は、話に区切りがついたタイミングを見計らい、笹渡にそれと伝わるように壁の時計を見た。
「ところで……」と由貴は切り出す。「〈ESクリア〉という健康食品、使われていますよね。あれ、お高いですよね」
「私はモニターだとかで、無料で使わせてもらっていたんですよ」雑談と全く同じ調子で笹渡は応じた。「代わりに、データが欲しいと言われまして。時々病院に通っていました」
「病院ですか。僕は苦手だな。あの診察券ってのが気に入らない。アプリにならないんですかね?」
「診察券は作らなかったんですよ」
「そういうところもあるんですね」
「本青森……さわやか記念病院? だったかな。そこの先生のところで、何か検査のようなものを受けていました。それも無料だとかで」
驚愕を隠し、そうなんですね、と笑って応じる。
笹渡の財布から診察券は見つかっていない。診療の領収書も。だから警察は、本青森すこやか記念病院に笹渡が通っていたとは気づいていない。
「その先生のお名前は、思い出せますか?」
「確か……矢部先生と」
矢部隆和だ。〈ESクリア〉の広報に協力し、〈ESナチュラル〉の石井恒男代表と繋がっていると思われる、〈エンテロタイプX〉の提唱者。
「あなた以外に、同じような検査を受けていた方はいらっしゃるのでしょうか。情報交換の場などは……」
「知りません」今度は即答だった。ええと、も確か、もない。
笹渡は、自身のスマートフォンを破壊している。そしてセミナーで、江口爽平の一番古株の恋人である長内夏海と知り合い、〈CAFE&DINING ES〉で頻繁に会っているにもかかわらず、それを今隠している。
一つの仮説が信憑性を増せば、同時に別の仮説も信憑性を増す。隣人である江口爽平の四股に気づき、夏海を救うための英雄的行動として江口を殺害したとしても、辻褄が合ってしまうのだ。
そして、今までまくし立てていたDNAにまつわる話は、すべて江口の殺害という行動を正当化し、夏海が自分の方を振り向かない現実から目を背けるための強がりなのではないか。
仮説一、女にモテず怪しいセミナーに傾倒する、発達障害傾向の男。
仮説二、怪しい健康食品によって超若年性の前頭側頭型認知症を発症し、異常行動を呈した男。
仮説三、銀河のパワーを受信し宇宙人に意識を乗っ取られている男。
笹渡と話せば話すほど、棄却したはずの仮説一も含めていずれの仮説も正しいように思えてくる。そして今一度立ち上がる最初の問い。
笹渡耕助とは、何者なのか?
「乾さん」笹渡は背筋を正していた。「私の話を聞いてくださり、ありがとうございます。私も長く生きました。様々な人と関わりました。ですが私の話に、こうも真剣に耳を傾けてくれたのは、あなただけでした」
「それが仕事ですから」
「それでも私は、あなたの誠意に報いたい。ですから一つ、あなたに大切なことをお伝えします」
「大切なこと?」
問い返した由貴に、まるで感情が宿っていないように見える満面の笑顔で、笹渡は告げた。
「明日、嵐と共に、星々の航路を抜けて、大宇宙の使者がこの街を訪れます。あなたとお話するのは、これが最後です。さようなら、乾由貴さん。ありがとうございました」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。