2-9.ESクリア
*
実宇が指差した先にあったのは、幅八〇センチメートルほどの水槽だった。
八割ほど満たされた水。天面には網が張られている。フィルターが装着されエアーポンプが投入されているものの、部屋自体のブレーカーが落とされているためか今は稼働していない。中には白い砂が敷かれ、流木や岩、水草が巧みに配置されている。
「笹渡の趣味ですよ」と一戸が言った。「犯行に至る思想的背景が推測できる可能性から部屋の中のものは粗方証拠品として今は警察です。ですがこれは、さすがに持ち運ぶわけにもいきませんから」
水槽は腰ほどの高さのキャビネットの上に置かれており、そのキャビネットは捜査の過程で開け放たれたままになっている。中身は餌や薬剤、メンテナンス用具の類だった。
「凝り性な男だったのかな」と樹里。「おっ、ミナミヌマエビ」
隣の部屋で起こった大事件も主の逮捕も知らず、水槽の中では二十匹ほどのミナミヌマエビが悠然と泳いでいる。水草の間に目を凝らせば、細かい稚エビもいる。
「いいよなエビ。あたしこういうアクアリウム結構好き。自分ではやんねーけど」
「そうじゃなくて! よく見てくださいよ樹里さん!」実宇が水槽の一点を指差した。「ほら、これ! 絶対宇宙生物ですって! やっぱり笹渡は宇宙人で、自分の星に生息している生物をここで繁殖させてたんですよ」
「いやミューちゃん、これただの奇形だから」樹里はため息をついた。
実宇の指が示す先では、確かに妙な形をしたヌマエビが泳いでいる。頭部の側に、尾ビレがあるのだ。そのせいで、全体としては細かい足の生えたリボンのような独特のシルエットになっている。
「こういう狭い環境で繰り返し繁殖させてると、血が濃くなって奇形が出るんだよ。別の環境の個体をちょっと買ってきて入れてやればすぐ出なくなるらしいけど」
「奇形? それで頭から尻尾が生えるんですか?」
「専門家に訊いてみる? たぶんあたしが掛ければ即出るし」樹里は返事を待たずにスマホを取り出し、専門家の番号をコールした。
ビデオ通話にして水槽に立てかけるようにスマホを置く。数コールで、糊の利いたシャツの上から白衣を羽織った眼鏡の男が映し出された。桃山修である。
「小暮さん? 朝の依頼でしたら、まだまとめきれてなくて……」
「悪い、別件」
「人使いが荒いですね」
まあまあ、と宥めてスマホを取り上げ、ちょうど手前側に近づいていたリボン型ヌマエビにカメラを向ける。「どうよモモやん。これ、宇宙生物だと思う?」
「いや、ただの奇形でしょう」専門家は容赦がなかった。「遺伝子プールが乏しい状態で交配を繰り返すと潜性同士のホモ接合が起こりやすくなり、本来ならば顕性の形質で上書きされて翻訳されない奇形が発現しやすくなる。生物学、遺伝学の基礎です」
「潜性ってことは」実宇がカメラの画角内に身を乗り出す。「尻尾が頭に生える遺伝子がエビには普通にあるってことですか?」
「僕はヌマエビを研究対象にしたことはないけど、いくつか可能性は考えられると思う。一つが実宇ちゃんが言うように、尻尾を頭に生やすことが正常なヌマエビのDNAにコーディングされているという考え方。また、そうではなく、尻尾の位置を尻尾側と規定している部位に損傷のあるDNAがたとえばラギング鎖側に生じ、これが潜性として受け継がれたのかもしれない。そもそもDNAの複製の機構としてラギング鎖側はリーディング鎖より一〇〇倍程度エラーが起こりやすい」
「損傷によって、たまたま頭側に尻尾を出せという命令文になってしまったということですか?」
「さあ? わからないものは頭という仕組みなのかもしれない。本来頭に発現する器官の位置を規定する配列が尻尾のところに潜り込んだのかもしれない。現象を単純に解釈する理屈は提示できるけど、突き詰めていくと個別具体的になりすぎて簡単に語れなくなるのがDNAの世界だ。だからみんな『血が濃くなるから』と簡単に言う。モデル生物、たとえばショウジョウバエなんかだと、器官を発現させる位置をコードしている部位について詳細に研究されたデータがあるんだけどね」
樹里は苦笑して言った。「言ってくれるじゃん。どうせあたしは雑だよ」
修はいつものように中指で眼鏡のブリッジに触れた。「よくわかりませんが小暮さんがそう説明されたのなら、適切だと自分は思います。そもそも突き詰めていくと、突然変異によってランダムに生じたうち環境に対して有利な形質だけが残るというネオダーウィニズムの自然淘汰説は果たして正しいのかという話になります。この前乾からこの手の議論を吹っかけられたんですけど、関係あります?」
実宇は水槽のリボン型ヌマエビを指差す。「不利なの出ちゃってるじゃないですか」
「ランダムな変化のうち有利なものだけが生き残る自然淘汰による環境適応が成立するには、一定以上の母数が必要になる。そういう長期スパンの仕組みを作ったことで、個体数が減った場合は、短期的には不利な方向に働いてしまうこともある。家畜の飼育や品種改良、近親相姦による先天性疾患などを通じて人間はこれを経験則で知っていたから、血が濃くなるという慣用表現が生まれた」
ふーん、と実宇は応じる。「ちょうどそういうの試験範囲なんですよ。再来週で」
「そういえば最近は優性・劣性って言わないんだっけ。モモやん偉いじゃん」
「日本遺伝学会は二〇一七年から顕性・潜性に改めてますが?」
「はいはいどうせあたしは大学から知識のアップデートがされてないアホですよ」
「そうは言ってません。小暮さんの専門は化学分析と毒性、メディシナルケミストリーでしょう。それぞれがそれぞれの専門性を持てばいい」
「照れるぜ」
「褒めてはいません」
「この野郎」
「そういえば」修の目つきが少し柔らかくなる。「この手の話を乾に講義してやった時、小暮さんに煽られたって言ってたんですけど……煽ったんですか?」
「なんだろう。心当たりが……ありすぎる」
由貴と昼食中に犬がどうのという話をしたことを樹里は思い出した。思えばあれは一日前の話。今は青森で殺人者の自宅で奇形のミナミヌマエビを見ている。おかしな気分だった。
「それで、小暮さん」蚊帳の外にされていた一戸が言った。「この水槽、笹渡が意味不明なことをまくし立てていることと何か関係するんですかねえ」
「それはわかりませんけど……」樹里は水槽を置いているキャビネットの中を改める。押収品は後でリストを確認するとして、笹渡がこだわりを向けていたものならば、パーソナリティを理解する助けになるかもしれない。「ミューちゃん、この中に入ってるもの一応全部写真撮っといてくれる?」
「了解でっす」実宇は自分のスマホを取り出し、早速カメラを起動する。
「小暮さん、念のため水槽のサンプル採取しておいてもらえますか」ビデオ通話越しの修が言った。
「サンプルって、何を。エビか?」
「いえ。水です」
「水? なんでまた」
「環境DNA解析です。未知の生物が紛れているならそれでわかるでしょう。五〇〇ミリリットルほどあれば十分です」
「なんだそりゃ。水だけでいいのか?」
「ええ。湖沼や河川の野生生物の調査方法として最近確立されつつある技術です。生物は生きていれば代謝をしますし、代謝産生物にはその生物由来のDNAが含まれています。これを増幅して解析します。……サンプリングする時はちゃんと手袋してくださいね。小暮さんのDNAを増幅してもしょうがないので」
「わかったよ、うるせえなあ」と応じて通話を切った。
そして道具を取りに戻ろうと一戸に声をかけた時だった。
「樹里さん」キャビネットに頭を突っ込むようにしていた実宇が言った。「これ、なんでこんなところにあるんでしょう」
プラボトルだった。ラベルには『すっきりクリアに、毎日元気』と書かれていた。
江口の部屋にあったものと同じ、〈ESクリア〉だった。
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