第2話 クラゲの絨毯

「海行きたーい」


 放課後の教室、机の上で溶けた猫のように伸びをしながら、風子は呻いた。


「いや、無理でしょ。今の時期」


 教室のクーラーは放課後になると止められるので、わたしは「さっさと帰るよ」と風子の椅子を軽く蹴飛ばす。


「えー、やっぱ無理かなー」


 渋々といったふうにだらだらと起き上がった風子と連れ立って教室を出る。


「無理無理。だってほら、クラゲいるし」

「クラゲめー」


 わたしが目下日本を襲っている脅威――にしてはなんだかぷくぷくとしている、クラゲのアホみたいな大量発生について思い出させてやると、風子はつまらなそうに鼻を鳴らした。


 下駄箱から外へ出ると地獄のような暑さで、なぜだかフライパンの上でじゅうじゅうと焼ける目玉焼きが思い浮かぶ。海行きたーい、とわたしも思った。


「海行きたいと思ったでしょ」


 謎の動物的嗅覚で以て、風子はわたしの内心を的確に突いてくる。ただ、ここでわたしが頷いてしまうと、風子は「じゃあ行こうよ」とか言って本当に海に行きかねない。


「いやいや、だからクラゲがヤバいんだって。見てこの写真、どっかの海辺なんだけど、クラゲしか見えないからね」


 SNSでみんながぽこぽこ上げている、海面がクラゲでびっしりと埋め尽くされた写真をじゃんじゃかスクロールさせていくと、風子はうむむ、と呻いた。


「海というか、クラゲだね」

「でしょ? 太平洋も日本海も瀬戸内海も、日本の周りは今全部こんな感じらしーよ」

「えーじゃあ海外行こうよ」

「ハワイとか?」

「いいね」

「パスポート持ってる?」

「ないね」


 ひとしきりケラケラ笑うと、風子はぽつり、と言った。


「なんかさー、絨毯みたいだよねー」

「えー?」

「海のこと。クラゲの絨毯で覆われてるみたい」


 風子の言葉に、わたしは頷く。


「確かに。なんか海の上歩けそうだよね。海というかクラゲの上、だけど」


 なんの気なしに言ったことだったけれど、風子は途端に目を輝かせた。


「それいいね!」

「え?」

「だから、海の上歩くの」

「え、マジ? 冗談だったんだけど」

「歩きに行こうよ」

「クラゲの上を?」

「クラゲの上を。裸足で!」

「うえー、キモそう!」


 なんて頭の悪そうなやり取りをしつつも、最終的にわたしたちは思い切って電車に飛び乗り海へとやってくる。なんだかんだ、風子に流されている。


 実際に見てみると、クラゲで満たされた海は写真の百倍くらいぷくぷくとしていて、「キモいね」「キモい」「でもちょっと綺麗かも」「ね、ゼリーみたい」なんて言っては、パシャパシャと水遊びをする代わりにパシャパシャと写真を撮りまくっては、SNSにアップしていいねの数を競い合ったりした。暑くなってくると近所のコンビニに避難してアイスを貪ったりした。


 そして夏の長い日が落ち、夜空にまん丸の月が浮かぶ頃、わたしたちは砂浜へと降り立った。


 薄い月明かりに照らされたクラゲの絨毯はなんだか幻想的にぷくぷくと輝いていて、風子はローファーと靴下をぽとぽと砂浜に脱ぎ捨てながら、波打ち際というかクラゲ打ち際まで歩いていく。わたしはそれを遅れて追いかける。


 風子は片足を上げ、それからそーっと、クラゲの絨毯に一歩踏み出した。


「ふぇー、なんかぶにぶにする」


 ふへー、とか、ひょえー、とか間抜けな声を上げながら風子は遂に両足でクラゲの絨毯に乗った。そうして、ふよふよと弾むように歩いていく。


 ぷくぷくとした絨毯の上で、月明かりを浴びた風子はまるでこの世のものではないみたいだった。綺麗だな、とわたしは思う。


 風子はどんどん遠ざかる。


「ねー風子。どこまで行くの?」

「んー、ハワイ?」

「徒歩で?」

「徒歩で。パスポートないし」


 答える風子の声はどんどん遠くなる。風子はずっと同じ歩幅で歩いているのに変だ、と思ったら、わたしの足元がパシャパシャと音を立てた。さっきまでクラゲ打ち際だったのに、波打ち際になっている。


 海を覆っていたクラゲが、ざざざぁ、と潮のように引いていた。


「風子!」


 駆け出したわたしの足を海水がどっぷりと絡めとる。クラゲの絨毯は滑るように流れ、その上の風子も見る間に遠ざかり、やがて見えなくなった。


 わたしは重たい足取りで砂浜に戻り、そのまま倒れ伏した。


 波に呑まれるみたいに、意識が沈んでいった。




 こつん、と小さく体が揺れて、わたしは目を覚ます。


 そこは放課後の教室で、クーラーが止まって微妙に温い空気の中、クラゲと共に海の彼方に消えてしまったはずの風子が立っていた。


「あれ、風子、ハワイは?」

「ハワイ? どうしたの、急に」

「え、だって、クラゲに乗って、歩いてハワイまで行く、って」

「え、意味わかんない。寝ぼけてるの?」


 風子は呆れたようにわたしの座る椅子をこつん、と蹴りながら「さっさと帰るよ」と言った。


 あれー夢かー、と起き上がったわたしは風子と連れ立って教室を出る。


 下駄箱から外へ出ると地獄のような暑さで、海行きたーい、とわたしは思う。


「海行きたいと思ったでしょ」


 謎の動物的嗅覚で以て、風子はわたしの内心を的確に突いてくる。頷こうとしたけれど、唐突にさっきの夢を思い出して、風子を海に行かせるのはなんだか嫌だな、と思ったわたしは「でも水着ないしなー」と微妙に話の矛先を逸らす。


「あー、私もないや。それじゃあ水着買いに行こうよ」


 そうして水着を買いに行ったわたしたちだったけれど、高校生的お財布事情を鑑みて水着を新調するのは諦め、帰り道のコンビニでアイスを貪ったりした。


「まー海は逃げないしね」


 風子は溶けたアイスが垂れないようにあっちを食べたりこっちを食べたりしながら言った。


「だからまたいつか行こうよ。それこそ大人になってからハワイとか」

「徒歩で?」

「いや飛行機でしょ。ふつーに」

「パスポート持ってる?」

「ないね。でもそのうち作れば良くない?」

「あー、それもそっか」

「ていうか徒歩ってヤバいね」

「ヤバい」


 ひとしきりケラケラと笑う風子に、わたしも釣られて笑った。


 コンビニの明かりの下の風子はとても日常的で、綺麗だな、とわたしは思った。

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