第38話 少年兵の回顧・3~異変

 ───ユーニウスの月の五日、未明。


 ノアはいつものように、兵士宿舎1階の集団部屋の自分のベッドに丸めた毛布を忍ばせた。タオルケットをかぶせ、いかにも自分が眠っているように偽装しておく。

 そして両手を合わせて深呼吸で心を静め、想いを刻み込むようにゆっくりと詠唱を始めた。


「”我が身躯ィム・ィドブ・セィム・ウティウ光に塗れ、闇に呑まれ、世界に溶けよエウツ・ドゥルロゥ・ウグオーウツ・トゥウギル・ドゥナ・ッセンクラドこの在り方、十の手に触れずシウツ・トセッフェ・ストゥサル・リツヌ・ウオィ・ウクオツ・チ・ネツ・セミット百の耳に届かずラエウ・チ・ア・デードヌゥ・セミット千の目に止まらぬようにロ・エエス・チ・ア・ドゥナスオウツ・セミット。───不可視化インビジビリティ”」


 頑張って丸暗記した魔術は無事発動し、巡回兵の装備に身を固めたノアの体を無色透明に染め上げて行く。

 自分の手が完全に周囲の風景に溶け込んだのを見計らい、ノアはそっと仕切りのカーテンを押しのけた。


 小一時間程前まで灯りがつき同期達の語らいで賑わっていた集団部屋だが、今は灯りも消え一面闇に包まれていた。

 備えつけられているカーテンの遮音の紋のおかげで、ちゃんとカーテンを閉じたベッドからは寝息やいびきすら聞こえてこない。あまりに静かすぎて少々不気味だが、この環境はノアとしてはありがたかった。


(手は………ここ、だな)


 不可視化インビジビリティ発動中は、自分にもその姿形を見る事が出来ない。その為、まめに体勢や手足の位置を再認識しておかないと、周囲にある物や人にぶつかってしまう事がある。

 右手を開いたり閉じたりして、何もない空間に自分の手が在る事を自覚しつつ、ノアは集団部屋のドアノブを回し、そっと兵士宿舎を後にした。


 外は思っていた以上に闇が濃かった。討伐隊に人員を持って行かれた為、深夜の巡回兵が少ないのは仕方がないにしても、手入れする者が減ったからと篝火かがりびまで減らしてしまうのは納得がいかなかった。


(気が緩み過ぎだ………何事もなければいいけれど)


 今日何が起こる、と思った訳ではない。討伐隊が出発した二日から昨日にかけて、ノアは同じように城を巡って、異常がない事を確認してきたのだから。


 だが、討伐隊のスケジュールをギースベルト派が把握していたとしたら、アロイス=ギースベルトの一団との戦闘結果がどうなろうと、討伐隊がすぐさま帰還出来なくなる今夜を狙うだろう、とは思ったのだ。


 本城の扉は、南正面、西、東、北、北東の薬剤所の五ヶ所のみだ。ノアは、人気ひとけがなく見張りもいない薬剤所の扉から本城へと侵入した。


 時折徹夜して調剤を行う事もある薬剤所だが、今日は皆出払っている事は知っていた。書類が床に散らばり、薬研やげんなどの調剤器具が片付けられていない部屋を抜け、廊下へと入る。


 1階の廊下は、階段、トイレ、医務所などの夜でも使われがちな箇所のみ、壁掛け燭台が灯されていた。巡回兵も、夜は照明が灯された通路だけを回るものだから、多くの人が出払う業務時間以降は人気ひとけが殆どない。

 ───はずなのだが。


(人の気配が───ある…?!)


 巡回の兵でも夜勤のメイドでもない。潜んでいる者特有の呼吸、もしくは温もりと言うべきものが、肌に伝わってくる。


 緊張に鼓動が早くなる。手の震えが止まらない。汗がじわりと身体を濡らし、肌着に湿り気を広げていく。


(ああ───こんな、こんな、僕に、何が出来るというんだ…!?)


 齢は十二。体はまだ成長期に入っておらず、声変わりだって始まっていない。

 言葉巧みに人心を掌握して王を支える次兄ヘルムートのようにも、優れた剣技で輝かしい戦績を積み上げて行ったアランのようにもなれていない。


『ノア君が役に立つかどうかなんて、ノア君にしか分からないんじゃないの?』


(分からないよ、僕にも…!)


 かつてリャナが発した言葉に、胸中で言い返す。

 逃げ出したい気持ちを必死に振り払いながら、出来るだけ足早に本城北側の廊下を西へ進んで行く。目的地は、リーファがいる3階の側女の部屋だ。


(…っ!)


 しかし、2階へ通じる階段の踊り場まで来て、ノアは先の光景に身構えてしまった。

 2階の廊下で見張っているはずの衛兵が、壁に持たれて座り込み、動かなくなっていたのだ。


(まさか、もう襲撃が…?!)


 嫌な推測にサッと血の気が引きつつも、ノアは階段を上り切りそっと衛兵に近づいた。


 耳を澄ませば、呼吸は規則正しくしているように思える。争った痕跡はなく、血生臭い匂いがしてくる訳でもない。しかし衛兵の肩を揺り動かしても、起きる気配はない。


(強制睡眠の魔術…かな?)


 分からないなりにそう見立てる。衛兵が自分でかけるような馬鹿な真似をしていない限り、魔術を扱える誰かがかけた事になる。しかも、2階の巡回兵がここを通過してから今に至るまでと言う、極めて短い間に、だ。


 ───ガチャンッ


 上の方から何かが落ちるような音と振動がして、ノアは思わず顔を上げた。3階に通じる階段の先からだった。

 3階の階段側の廊下にも衛兵は待機している。この魔術をかけた人物かもしれない。


(急がないと!)


 間に合うかどうか。魔術をかけた人物に対抗出来るか。自分に何が出来るか───そんな無粋な話は後で考える事にした。まずは、3階へ行く事が先決だ。


 不可視化インビジビリティの作用によって、足音はかき消されるはずだ。ノアは脇目も振らず、階段を駆け上がったのだった。

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