第二十章 後日談・間が悪かった者達

第1話 過去を笑いに挿げ替えて・1

 ───リーファがエルヴァイテルトの姉弟子の家から帰ってきて、早二日が経っていた。


 足を捻り長雨に降られて調子を崩していたリーファだったが、城で一日養生したら翌日には何とか調子を取り戻していた。

 そしてアランから『姉弟子の家での出来事を書面で報告しろ』と命じられた為、今は机に向かってペンを取っていたところだ。


 コンコン、とノックする音が聞こえてきて振り返ると、ヘルムートが扉の先から顔を出してきた。今日も、お気に入りという灰色のハンチング帽を被っている。


 椅子に座ったまま頭を下げると、彼は部屋に入り机の側まで近づいてきた。


「やあリーファ、足の具合はどうだい?」

「ええ、はい。おかげ様で。

 走るのはちょっと大変ですけど、歩くのは全然です」

「それなら良かった。

 …いやあ、魔術で大抵の怪我なら癒せる君が、まさか足を捻って帰って来るなんてね」


 どこか揶揄からかうようなヘルムートの物言いに、リーファは頬を染めて唸り声を上げた。


「うぅ…本当ですよ全く………何でそんな事忘れてたのか…」


 そして、リーファは右足を見下ろした。

 捻った場所を保護している包帯は、脛の中ほどから足の方まで丁寧に巻かれている。そこそこ厚く巻いてあるから靴が入らず、右足だけは素足のままだ。


 リーファの反応を見て、ヘルムートは人当たりの良い笑みを零した。


「その顔を見るに、よほど取り乱してたんだね。

 …そんなに怖かったのかい?」

「そう…ですね。今も、あまり実感はないんですけど。

 あちらで色々ありすぎたので、気が張っていたんだと思います。

 きっと、こっちに帰ってきて安心しちゃったんですね」


 姉弟子の家での一連の騒動は、まだヘルムート達には話していない。昨日は安静にしている事しか出来ず、今日はアラン達が朝から忙しくしていたから、説明の時間は取れなかったのだ。

 だから、こうして書にしたためている。出来るだけ漏れも不備もないように。


「あちらでの出来事は、後で書面を読ませてもらうよ。

 とりあえず、リーファが無事帰ってきて良かったと思ってる。

 これからの事は…まあおいおい考えて行けばいいさ」

「…ありがとうございます。ヘルムート様」


 ヘルムートの優しい微笑に癒されるような気がして、リーファの口から自然と感謝の言葉が零れて行った。


 リーファとの話はそれだけだったのだろう。一拍置いて、ヘルムートの表情からスッと表情が消え───すぐに、ジト目を側の壁にくれた。


「…で、君はいつまでそうやってるんだい?アラン」


 リーファの側の壁には、アランが寄りかかっていた。

 彼はリーファとヘルムートの会話を興味なさそうに聞き流し、ずっと黙り込んでいたのだ。


「仕方がないだろう?

 リーファが足を痛めているのだ。誰かがついてやらねば可哀想ではないか」

「そう思うんなら、リーファが魔術で足を治すのは許可しなよ」

「それはそれ、これはこれ、だ。

 足が動かなければ、ふらっと出て行く事はないからな。

 痛みが引くまでの短い間ぐらい、私の玩具でいればいい」


 まるで、リーファがいつもふらふらしているかのような言い方だ。リーファもつい口を挟む。


「ふらっとって…アラン様の呪いを解くために行ったのに…」

「三日目の荷物運びは関係なかっただろうが」

「それは、そうなんですけど…」


 痛い所を突かれてしまい、リーファは唇を尖らせた。ヘルムートも、呆れた様子で肩を竦めている。


 ───傷めたリーファの足に、回復魔術の使用を禁じたのはアランだった。

 ここ最近は諸々の事情でアランから離れる機会が多かったので、その穴を埋めるのにリーファの負傷は好都合だったのだろう。


(まあ私も疲れていたし、魔術に頼りすぎるのも良くないしね…)


 リーファとしても、アランの禁止令に文句がなかったのは確かだ。


 一言いちごん魔術の使用は、高い集中力を必要とする。

 素質があると言われていても、普段使っていない技術で連射などと無理をしていれば、当然疲労は一気に押し寄せてくるのだ。


 あの場は結局グリムリーパーの力で収めたが───言い方を変えるならば、”人間”として対処するのはあれが限界だったと言えた。


 また回復魔術も、使いすぎると今度は体がその力に慣れてしまって自己治癒をさぼってしまう事があるという。

 別に急ぎの用がある訳ではないのだから、魔術に頼らずのんびり休むのはそう悪い事ではない。


「それに、今日の仕事はもう片付いているぞ。さっき済ませた」


 顎を上げてどこか勝ち誇った微笑を見せたアランに、ヘルムートが目を丸くして驚いている。


「え、な、う、うそぉ?」

「嘘かどうか、その目で確かめてくるといい」

「…何で普段から、その全力を使わないのかなぁ…」


 恐らく執務室へ行くのだろう。苦々しくアランを睨んだヘルムートはきびすを返し、部屋を出て行った。


 ◇◇◇


 側女の部屋が再び静かになり、リーファがペンを紙に滑らす音だけが聴こえてくる。一日目、二日目はもう書き終えており、三日目ももう少しだ。


 その間アランは、書き上げて横に退けている紙を手に取って見ているが、何を話しかける事もない。

 気をつかって話しかけようとすると、『待ってやっているのだから書き上げるのに専念しろ』と言われてしまうのだ。

 だからリーファも、急ぎ報告書を完成させなければならない。今日の執務は片付いたと言っても、明日の支度だってあるのだろうから。


 しかし二日目の報告書を手に取ると、アランは愉しげに口の端を吊り上げ、リーファに話しかけてきた。


「お前は、敵討ちをするよう教唆したのか?」


 アランが言っているのは、恐らく過去と向き合ったバンデとの会話の事だろう。


 バンデの母親の家族は、父親を殺し、母親にバンデを殺すようにそそのかし、母親を見殺しにした。

 リーファからすれば、敵討ちをさせない理由はない。


 ペンを置いて、リーファは酷薄な笑みを形作ってアランを見上げた。


「私だって、仕返しをしたいと思う人はいるんです。そんな私が、止められるはずがないじゃないですか。

 …幻滅していいですよ?」

「ふん、幻滅などするものか。むしろ安心したところだ。

 お前は、私達のエニルを死なせた連中にすら、慈悲を与えてやっていた。

 この女には憎しみの感情など芽生えぬのか、と考えてしまったからな」


 アランの口から出たうしなわれた子の名に、ほんの少し表情がかげる。


 リーファとて、我が子をうしなって今に至るまで、平静でいられた訳ではない。

 役所のフロアなどで、赤子を背負う女性が手続きに来ている姿を見る度に気持ちは揺らいだ。

『あの赤ちゃんと同じ年頃の子を、私も産むはずだったのに』───と。


「エニルは………私にも、落ち度はありましたから。

 多分、自分を許す事が出来ないから、いつまで経っても人を責められないんだと思います」

「私だって、自分は許せんよ。お前が人を傷つける事に、慣れていないだけさ」

「…そうかもしれません」


 目頭が熱くなったような気がして、リーファは目線を下へ落とした。その視界の隅で、アランが報告書を机へ戻すのが見える。


 そのまま一歩だけ近づいて来たアランは、リーファの顎を指先で持ち上げてきた。呆気に取られている間に、リーファの唇へアランの柔らかい唇が触れてくる。

 まるでいたわるかのような、甘ったるいキスだった。


(…やだ、私ったら現金ね)


 アランの機嫌取りのキスで、ちょっとは気持ちが紛れてしまうのだ。我ながら単純な性格に、リーファはつい苦笑してしまう。

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