第48話 日暮れ時に・3~贈られた名前

 ターフェアイトを振り回して浮かれている姉さんを、呆れた様子でバンデが声をかけた。


「なあなあ、ウシチチー」


 さすがに師匠を前にして、その名で呼ばれるのは恥ずかしかったらしい。

 案の定ターフェアイトに頬を膨らませて笑われてしまい、姉さんは顔を紅くしてバンデをたしなめた。


「も、もう、バンデ。その言い方はやめてって…」

「じゃあさ、何て言えばいいんだ?」

「…あ」


 バンデの指摘に、姉さんが言葉を失っている。

 不当な契約は解約され、もう彼女を縛る名前の制約は取り払われたはずだが───


「姉さん。本当の名前は…?」

「え、う、えええっと。何、だっけぇ…?」


 リーファが顔を青くしている姉さんに問うも、彼女から本当の名前が出てくる事はない。口元に手を当てて困り果てている様子を見るに、どうやら本当に忘れてしまったらしい。


 リーファはあの石板の内容を思い出す。上の方に、”あなたの名前はされ”と記されていただろうか。


「もしかして、あの石板の契約が履行したタイミングで名前が失われてた…?

 し、師匠は知ってるのよね?」

「さあねえ?アタシももう歳だからねえ」

「はあ?何言ってんの?」


 姉さんの手の中で白々しい態度を取るターフェアイトを見下ろし、リーファは戦慄わなないた。忘れているのか状況を楽しんでいるのか、言う気は全然ないらしい。


「そんなに怒りなさんな。いいじゃないか。この機に好きな名前を名乗れば。

 アタシだって、”ターフェアイト”は国に仕えた時に与えられたものだ。心機一転、って意味じゃ、名前を変えるのはアリだろ?」


 リーファは、ターフェアイトがもっともらしい事を言って誤魔化しているように思えた。

 どうやって白状させようか、と師を睨んでいたリーファを余所よそに、姉さんは顎に手を当ててぽつりと呟いた。


「好きな………好きな、か…」


 どうやら彼女は、ターフェアイトの案を好意的に捉えたようだ。新たな名前のヒントになりそうなものを求め、リビングルームをぐるりと見回している。


「ね、姉さん、師匠の言う事あまり真に受けなくても…」

「で、でも、せっかくだもの。皆に呼ばれて嬉しい名前を考えたいわ」


 今まで過去の物に執着していた姉さんにしては、随分思い切った決断だ。人が変わったように模索している彼女に、リーファは思わず面食らう。


(親から与えられた名前に未練はないのかな…?)


 姉さんの変わりようの原因を、リーファはつい考えてしまう。


 元々彼女は、行動力がある人柄なのだろう。国を越え、ラッフレナンドで隠遁生活を送っていたターフェアイトに師事しているのだ。きっかけは分からないが、なかなかやろうと思っても出来る事ではない。


 もし彼女が身に着けていたブレスレットに、後悔から悪夢を引き出す効果があったとしたら、過去に囚われる副次的な力が働いていてもおかしくはない。


 ブレスレットの解呪により、生来の性分が現れるようになった───そう、考えられなくもないのだ。

 ただ単純に、敬愛するターフェアイトを真似て改名をしたいだけなのかもしれないが───


「お、じゃあおれが名前つけてやろうか?」


 姉さんが考えあぐねていると、思ってもみない所から手が上がって、ついそちらを見てしまう。

 そこにいたのはバンデだった。彼はどこか得意げに胸を張っている。


「え…?バンデが、名前をつけてくれるの?」

「ふうん?まあ自分で名乗るより、人に呼ばれる事のが多いかねえ。この中じゃ、アンタが一番呼ぶだろうし。小僧、言ってみなよ」


 ターフェアイトからの後押しを受け、バンデは腰に手を当てて高らかに叫んだ。


「おう。”リヤン”、だっ!」

「!」


 バンデが言ったその名前は、なんとなく聞き覚えがあった。彼の魂の記憶を読み解いた時に、母親らしき女性が言っていた言葉だ。

 リーファにはよく聞き取れなかったが、記憶を掘り起こされたバンデ自身はより明確に聞き取っていたのだろう。


 挙げられたその名前に、姉さんが息を呑み、険しい表情で反応している。


「───バンデ、あなたその名前…!」

「ああ、おれの母さんがつけてくれた名前だ。東の国の言葉で”きずな”って意味なんだぜ。

 ウシチチも知ってたんだろ?できすぎだもんな?”バンデ”はこっちの古代語で”きずな”って意味なんだもん」

「………………」


 図星だったのだろう。姉さんの表情は浮かない。


 恐らく姉さんは、奴隷商人から”リヤン”の名を聞いていたのだろう。

 しかし独りになる事を恐れた彼女は、名前から出身地を気付かれる事は避けたかったはずだ。自分探しを、故郷を求めてもらいたくなかったから。

 それでも、意味だけは持たせたかったのだろう。バンデの両親が、ちゃんと名を遺してくれた意味だけは。


「せっかくだから、名前をしてやるよ。

 おれもいざって時に忘れないでおきたいし。大切に使えよな?」


 カッコつけて上から目線で物を言う少年を見下ろし、姉さんは不可解な面持ちで訊いた。


「…怒って、ないの?名前、黙っていたのに…」

「まー、ウシチチならそーするよなって思ったしなぁ。

 ………で、気に入ったか?気に入らねえのか?」

「………………」


 期待を込めて急かすバンデを、目を潤ませた姉さんは黙して見下ろしている。


 ”リヤン”の名は、元々バンデが持っていた唯一のものだ。

 理由はどうあれ、姉さんがバンデから取り上げて捨ててしまったものと言える。

 それが、巡りに巡って彼女自身に返ってきた。

 名を取り上げられ、捨てられてしまった彼女の所に。

 あるいは、彼女が名を取り上げられてしまったから、拾い上げたバンデの名も取り上げなければいけなかったのか───


(バンデは深く考えていないでしょうけど、因果のようなものを感じてしまうわね…)


 この流れを罰と思うか恩恵と思うかは、彼女が今まで重ねてきた献身と、これから名前と共に育んでいく生き方にかかっているのかもしれない。


「うん…ありがとう………ありがとうね…。

 わたし、リヤンって名前、大事にするわ…」


 彼女───リヤン───は瞳に溢れかけた雫を指で拭い、精一杯バンデに微笑んでみせた。

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