第2話 側女の気苦労、従者の懸念・2

 ヘルムートは、リーファの城出の少し前の出来事を思い出す。


 ◇◇◇


『翌朝まで部屋に籠る。用は明日聞くから留めておけ』


 ぶっきらぼうにヘルムートに言い捨てて、アランは側女の部屋の扉を開けた。

 部屋の中に人の気配はなかった。でもベランダの側に”家”が置かれているのがちらりと見えて、リーファが”家”の中で待っている事が察せられた。


 思えば、アランはその日の執務をいつも以上にてきぱきとこなしていたし、リーファも執務室へは来なかった。

 前から計画していたのだろう。いつもにはない逢瀬を満喫したくて、うきうきしていたに違いない。


 ただ、扉を閉じようとしたアランの口元がだらしなく緩んでいるのに気付いてしまい、何故だか嫌な予感を覚えたのだ。


『───ヘルムート様は、奥方様との間にどんな取り決めがあるんですか?』


 後日リーファがそんな話を振ってきて、どうやら”家”の中でをしているのだと知った。

 何でも、家族との団欒だんらんというものがよく分かっていないリーファの為に、アランが夫婦の在り方を教示してくれるのだとか。


 アランが喜ぶ事は良い事だ───そう思っていたヘルムートでも、これは異常だと気付かされた。


 あれは現実逃避だったのだ。

 王の責務から目を背けて、庶民の夫婦として暮らす幻想にのめり込んでしまっていたのだ。


 ◇◇◇


(遊びだと思っているのならまだ許せるけれど───でも、”そこ”から戻って来たくないと思っているなら、看過は)


「………ああ、思っているさ」

「…っ?!」


 思っている事を見透かされた気がして、ヘルムートはたじろいだ。

 こちらの動揺を見たアランが、苦々しくもしてやったりと嗤ってみせる。


「『そんな訳ないだろう』…などと言うと思ったか?残念だったな。

 ───あれはなかなか良いものだぞ?

 リーファの家も一般的な家庭とは言い難いようだったから、どんなものが一般的か議論を重ねたさ。

 まずは互いの呼び方を考えたな。

 私からはそのまま呼べば良いが、リーファが私の呼び捨てを嫌ってな。

 ”旦那様”や”ご主人様”では仰々しいし、子もいないのに”お父さん”と呼ばれるのはこっちが癪だ。

 結局消去法で”あなた”となったが、他に何か良い呼び名がないか研究中さ」


 聞いてもいないのに長々と中での出来事を語る。まるで誰かに聞いて欲しかったかのようだ。

 しかし、その表情に余裕のようなものは見られない。


「私が”家”に入るとリーファが出迎えるのだ。

 リーファは食事の支度を進めていてな。作業の手を止めて玄関までやってきて、うがいと手洗いをするよう口うるさく言うのさ。

 そして私は寝室で楽な格好に着替え、夕食までの間好きに過ごすのだ。

 本を読んで穏やかに過ごすも良し。揃いのエプロンを着て料理を手伝うも良し。

 食事の合間の会話など他愛のないものだ。仕事で誰それが失敗しただとか、今日の煮物は丁度良い仕上がりだとかな。

 食後はリーファが食器を片付けて、私はその間に風呂に入って。

 風呂上がりのレモネードは良いものさ。片付けが終わっていなければ皿拭き位は手伝ってやれる」


 聞き流しながら、何となく半分位は嘘なのではないかとヘルムートは感じた。

 あまりに具体的でかなり妄想が入っていると思ったし、その面持ちもどこか虚ろだ。


「寝るまでの間、息抜きにカードゲームやボードゲームに興じるのも悪くない。

 二部屋あるから、気が向けばどちらかがどちらかの部屋に行けばいい。

 いつぞやなどベッドでうたた寝をしていたら、目を覚ました時リーファが腹の上で馬乗りになっていてな。あの拗ねた顔………お前にも見せてやりたかった」


 クスクス笑ってアランは言いたい事を言い切ると───おもむろに表情が消え失せて行った。長い長い溜息をつく。

 机に肘をつき、何かに祈るかのように俯いてぼやく。


「…そして”家”を出れば、『自分は何故王なのか』と考えさせられる───その繰り返しだ」


 塞ぎこむ姿を見下ろし、思ったよりも深刻な状態だとヘルムートは考えさせられた。

 どうやらリーファと過ごす庶民の暮らしの疑似体験を経て、王としての窮屈な暮らしよりもあちらの方が良いものだと思ってしまっているらしい。


(そう良いものでもないような気がするんだけどねえ)


 自分の新婚当初の事を色々と思い出し、ヘルムートは気持ちがむずむずした。

 浮かれて口走った甘い言葉に妻が顔を赤らめた事もあった。溢れんばかりの花束を渡したら後日押し花にして額に飾ってくれた事もあった。


(それも何年も経てば色々と変わっていってしまうのに。

 あの頃の魅力的だったミアも今は───いやいや、ミアは今も可愛いから)


 寸での所で思い留まる事に成功する。そう、新婚の頃と比べたら変わってしまったかもしれないが、それでも妻の魅力は変わらない。


 何にせよ、アランはあの浮かれた気分と今の状況を行ったり来たりしているのだ。

 ヘルムートの場合は天国から地獄───とまではいかないそこそこな所にたどり着いたが。


 今のアランは地獄と思っている場所から天国を仰いでいるに過ぎない。

 その天国の先までは見ていないのだ。ならば理想だと思い込むのは当たり前だ。


「君は”家”に夢見過ぎだよ。庶民の生活はそこまで裕福じゃない。

 リーファだって、今は君に仕えている立場だから言う事を聞いてるだけさ。

 結婚して相手と対等になれば考え方を変えるはずだよ」


 そう答えると、アランは不満そうにヘルムートを見つめ返してきた。自分と同じ、藍色の双眸で。


「…夫婦は対等か」

「対等だとも。そう互いに思わないと、どこかで夫婦の関係は破綻する」


 と、理想論を併せて言っておく。実際は女性の方が不利な立場にある事も多いが、そこまで話してアランの夢を補強する意味はない。


「君は女性に対してあまりにも経験が少ない」


 王に対してあまりに直球な発言に、アランの顔が渋くなる。


「…馬鹿にしてるだろう」

「じゃあ聞くけど、君は生まれてどれだけの女性と心を通わせた事があるんだい?」

「………………」


 途端に黙り込んでしまうあたり、どうやら図星らしい。


 兵役時代色んな町に行っていただろうから、当然現地の女性との付き合いもあっただろう。体の関係もあったのかもしれない。

 しかしアランのこの反応を見るに、恋仲に至るほどの女性はいなかったのではないかと思ったのだ。でなければ、ここまでこじらせる事もなかっただろうから。


「それでいて、王である事も活用出来ていないと思うんだ。

 正妃は大切だけど、側女をもう二、三人増やしてみようよ。

 庶民でも貴族でもいいさ。極端な話、既婚者だって王の立場ならどうとでもなる。

 どこか惹かれる女性がいたら、側に引き入れる事を頭に入れておいて欲しい。

 女性達との交流が増えれば、その考えも過去のものになるはずさ」


 顔を押さえ、はあ、と呆れた様子でアランが溜息を漏らす。


「…結局はその話になるのか…」

「それが仕事だからね」


 にこ、とヘルムートは微笑んでみせる。うんざりしているのは分かっているが、今一番大切な事はその一点だけだ。


 大分面倒くさそうに、アランは舌打ちをした。


「………………………………検討は、する」

「頼むよ」


 そう言って、ヘルムートは仰々しく首を垂れる。アランはその仕草を嫌うが、これも大切なルールだ。


 ヘルムートは、書棚へと顔を向けた。急ぎ戻ってきた用事は終えたが、執務室でやらなければならない事はまだある。


「心を、通わす…か………」


 アランの呟きがヘルムートの耳に入ってきた。ヘルムートに、という訳ではなさそうで、ただの独り言だ。


 だが思わず聞き返そうと思った時、コン、コン、と申し訳なさが滲んでくるようなノック音がした。

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