第2話 母親というものは

 ベッドの側の椅子に腰かけ、リーファは黙々と編み物をしている。今編んでいるのはアランに渡すセーターだ。始めたばかりだから、まだそこまで編まれてはいない。


『色は地味で』というリクエストに応えて、毛糸はオリーブ色を選んだ。しかし編み方にはこだわりたかったので、縄状文様の編み目にしていく予定だ。何でも、発祥の地名を取って”アランセーター”と呼ばれているらしく、何故かアランにとても良く似合いそうな予感がする。


 ベッドをちらっと見やると、アランはぼんやりした表情でこちらに顔を向けていた。リーファを、というよりは、一本の毛糸から形作られる複雑な模様を不思議そうに眺めている。


「リーファ。…汗が、気持ち悪い」

「あ、はい」


 うわ言のように呟いた王の願いに応じ、リーファは席を立った。編み棒を椅子に置いて、アランのタオルケットを外す。視界の端で毛糸の玉が床に転がって行くが、気にしていられない。


「よいっしょ」


 アランの体を起こしてパジャマのボタンを外し、背中に入れていたフェイスタオルを引きずり出す。

 キャビネットの上に置いた、水を張った桶から濡れたタオルを絞り、アランの上半身を丁寧に拭いていく。


「下はどうします?拭きます?」

「いや、いい。───ごほっ」

「ではそのままで」


 代えのフェイスタオルを背中に当てながら、パジャマを着せ、ボタンを留めていく。


 背中のタオルの感触が苦手なのか、アランが体をよじってぼやいた。


「このタオルは必要なのか…?」

「汗をかいた時、引き抜くだけでいいので便利なんですよ。

 パジャマやシーツを汚さないで済みますから」

「庶民の浅知恵、か」

「そうですね。母から教わったので」

「………、───ごほっ」


 嫌味もすげなく返され、アランは不機嫌そうに唇を尖らせた。


「飲み物はいかがですか?喉渇いてません?」

「もらおう」

「はい」


 リーファはテーブルの上に置かれた水差しの液体をコップに注いで、トレイに乗せて持って行った。


 うっすらと黄色く染まりほんのり湯気を上げている液体を眺め、アランは顔を近づけ匂いを確認している。


「何が入っている…?尿か…?」


 嗅覚がおかしくなっているのだろうか。変な事を言うものだから、コップの中身を零しそうになってしまった。


「な、なんでそうなるんですか、もう。

 レモンと蜂蜜です。喉の痛みを抑えてくれるそうですよ」


 コップを受け取り、アランはちびりちびりと口に含んだ。味が分からないのか、舌なめずりをして怪訝な顔をしている。


「…氷を入れて飲みたい…」

「温めた方が胃に負担がかからないそうです。冷たい方は次の機会にしましょうね」

「仕方がないな…」


 アランは不貞腐ふてくされながらも、ゆっくりと半分までホットレモネードを飲み、コップをリーファに手渡した。


 リーファがコップをテーブルに戻し、汗で濡れたフェイスタオルをまとめていると、再び横になったアランが声をかけてきた。


「…リーファ」

「あ、はい」

「…お前も、風邪を引いた時、母親はこうやって、世話をしてくれたか?───んんっ」


 訊ねられ、リーファは自分の記憶を手繰り寄せる。


 母が亡くなって四年は経っていたし、母が存命中に風邪を引いたのも大分昔だったような気がする。

 しかしそういう思い出というのは、つい先日の出来事のように思い出してしまうものだ。


「…そう、ですね。父はいつも家にいないので、風邪を引いた時は母が看病してくれましたよ」

「そうか…」


 ぼんやりとアランは相槌を打つ。アランのまぶたは、うつらうつらと力なく揺れていた。眠りにつこうとしているらしい。

 それでもアランは言葉を紡ぐのを止めない。まるで睡魔から抗おうとしているようだ。


「母親とは、どういうものだろうな…」


 それが哲学的な問いのように聞こえ、リーファは少し考え込む。


 リーファにとって母親とは一人しかいないから、参考にできるのはその人しかいない。しかしそれは、アランが求めた答えかどうかまでは分からない。

 考えて考えて───やがて考えるのを止めた。どうあっても答えは一つしか出てこない。


「…そう、ですね。一言で表現するのは難しいですね…。

 優しかったり、厳しかったり、です。

 テストでいい点を取れば喜んでくれましたし、虐められて帰ってきたら怒ってくれましたし。

 …でも母も、調子や気分の、良い時悪い時はあるんですよね。

 エリナさんが言ってた事がありましたよ。

『あんたが五歳になったなら、お母さんのお母さん歴も五年なんだ。一緒に成長してるんだよ』って」

「そう、か…」


 アランは否定も肯定もしなかった。ただ、そうなのだと、相槌を打っただけだ。だが。


「では…私の母親は…母親では、なかったのだろうな…」


 ぼそりと呟いた言葉に、リーファは眉根を寄せた。アランを覗き込む。


「…アラン、様?」

「………………」


 アランからの返事はない。まぶたを揺らしてはいるが、もう眠ってしまいそうだ。未だ熱は下がらないようだが、とりあえず眠れたのなら薬が効いてきているのだろう。


(確か、アラン様の母親って…)


 アランの容態を気にしつつ、リーファは先の言葉について考える。


 ラッフレナンド王家は不妊の呪いにより、正妃の他に複数の側女を囲う制度を取り入れている。彼女らから生まれてきた子供は、全て王子あるいは王女として扱われ、正妃の子として育てられる。


 アランは、先王の正妃───つまり現・王太后の実子ではなく、どうやら側女の一人から生まれたらしい。


 リーファがここに来た時点で王太后も側女も城にはおらず、どこで何をしているかは分からない。貴族の生まれの者たちなら実家に帰れるだろうが、そうではない者ならどうなってしまうのか。


(私だって、いつかは城を出るのよね…)


 現実味はないが、先を考える必要はあるのだろう。何年、何十年先の話になるかは分からないが。

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