グリムリーパーと花の魔女

那由羅

Ⅰ.

第一章 お節介は日常を遠のけた

第1話 物語の始まり

 王子は、疲れていたのかもしれない。

 いつまで経っても慣れない執務に追われ、いつまで経っても解消しない問題に腹を立てた時は、いつも3階のこの部屋に転がり込むのだから。


 自分の私室は2階にあり、間取りも家具もそちらとそう代り映えはしないのだが、『安らぎを得たい』と思った時はこの部屋だと決めていた。

 元々は特別な務めを果たす者の部屋だが、その者も今は亡くただの空き室だ。王から許可を貰い、王子は自由に使う事が許されていた。


 灯りのついていない部屋に入り扉を閉め、誘われるように突き当りにあるベランダのガラス戸を開ける。

 まずは夜風に当たりたかった。冬の冷気なら、癇癪を起こしたこの頭を冷やしてくれるだろうと信じた。


 ベランダの先には、この城で最も優雅な庭園が広がっている。

 中央に石造りの東屋があり、その周囲を美しい花々が咲き誇っている。園芸に興味がない王子であっても、パンジーやビオラくらいなら知っていた。空気の澄み渡った季節に相応しい、清い花だと思う。


 空を仰げば、その先に月があった。ほんのり黄色がかった、欠けのない満月だった。

 それは雲一つない夜空から煌々と光を撒き、それが祝福であると言わんばかりに庭園の花々を優しく照らしている。


 空気はとても冷たい。

 外気を吸うだけで頭が冷え、思考が冴えわたってくるような感覚すらある。役人の失敗も、兵士の不敬も、従者がよこした見合い話も、今なら軽く受け流せる自信がある。


 しかし、外気を吸い続けただけで名案が湧いて出てくるはずもないし、頭が冴えた分、体の熱は徐々に冷めていく。

 長居は無用、なのだが。

 視界の中心にいきなり現れた”それ”に対し、王子は目が離せなくなってしまった。


「──────」


 不法侵入者だった。まず最初に、それだけは言えた。


 そして次に目に付いたのは、身の丈ほどの柄を持つ巨大な鎌だった。

 刃も、大人三人ほどならまとめて首を刈れそうな大きさだ。背後の月の光に照らされて、その刃が鈍色に妖しく光っている。


 それを握る持ち主は、空色の甲冑に身を包み、腰まで伸びる橙の長髪は月夜に揺れていた。どうやら女らしかったが、人と呼んでいいかは分からない。

 庭園の空を、微動だにせず浮いていたからだ。


「──────」


 頭は冷えていた。冷え切ってはおらず、ちゃんと程よく冷えていたはずだ。

 氷菓子のようなきつい冷たさではなく、夏の井戸水のような程よい冷たさ。

 こんな事を考えてしまうのだから、頭は十分冴えているのだ。

 つまり、次にしなければならない事はちゃんと理解していた。


 兵を、呼ばなければならない。

『不法侵入者だ』と声を上げ、周囲を巡回している兵士達をかき集めなければならない。

 甲冑女の意図は分からないが、自分がこの国の王子である以上、自分の身は最優先に考えなければならなかった。

 なのに。

 体が、動かなかった。

 声が、出せなかった。


 体が動かないのなら、声が出ないのは当然だろうか。しかし瞼は瞬きをしている。間抜けに空いている口から、何らかの声が出せてもおかしくはないのだが。

 本能が、止めている───そう考えてしまう程に、この光景が異様だったのかもしれない。


「夜分遅くに失礼致します。殿下」


 侵入者の癖に頭を下げる最低限の礼儀は持ち合わせているようだが、それも頭上からでは台無しだ。

 だが、声は紛れもなく女のものだった。この庭園のどこにでも届きそうな良く通る声だ。

 この声なら、誰かしらが───特に従者あたりが───気付いて騒ぎ立てそうな気がするのに、王子の視界には甲冑女しか入って来ない。


「あなたに死を告げる時が迫っています。機に備え、万事を回避して下さい」


 それは紛れもない殺人予告だった。

『近いうちに殺しに行くから、死にたくなかったら全力で抵抗しろ』と、挑発しているようにも聞こえた。


 誰の差し金かなど、問う必要もない事だった。

 王子の立場あっても、あるいはなくても、彼の周りは常に敵だらけなのだから。


 こちらの気持ちなど知る由もなく、甲冑女はそれだけ告げると月に溶けるように消えて行った。

 後には何も残らない。いつもと変わらない見事な庭園が広がっているだけだ。


 視界の端───城を囲む城壁の哨戒路と庭園から、巡回する兵の姿が見えた。遠くからでも、カシャン、カシャンと、鎧の軋ませ歩く音が聞こえてきた。


 確かめるように右手を見下ろし手を開いたり握りしめたりしてみるが、どこにもおかしな所はない。普通に動く。


 何も変わらない。いつもの夜の光景だった。


「………?」


 やはり王子は、疲れていたのかもしれない。

 あるいは、体を冷やして幻覚でも見てしまったか。実に嫌な気分だ。


 しかし、改めて悲鳴を上げ、ベッドに飛びついて震えて眠る程子供でもない。ちょっとだけ、ゾッとしただけだ。


 王子はマントを翻して部屋へと入る。ガラス戸を閉め、部屋に入る寒気の流れを止める。


 静まり返った部屋の中で、王子は独り考えた。

 体が冷え過ぎたから、温める為に湯浴みをするべきだろう。そうすればこの疲れも即吹き飛ぶに違いない。

 メイドに命じてこの部屋を温めさせ、大浴場に行き湯浴みを済ませ、湯上がりに一杯ワインを飲み、歯を磨く。


 まだまだ寝るには時間がかかると、王子は深く溜息を吐いた。

 何とはなしに、部屋に飾られた絵画を見上げる。


 それは彼が生まれる前からこの城にあったもので、何か響くものを感じ飾らせたものだ。

 王と共に歩み、夥しい死を撒き散らし、最後は王に殺された女。


 死を運ぶ、戦乙女の絵。

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