世界の変え方
雨乃よるる
土と風
風がざらついていた。
風は、不規則な吹き方をして、まるで空間で遊んでいるかのようだった。
公園に来ていた。
不思議な色の鉄棒がある。
赤茶色と灰色を混ぜたような色だ。ところどころ緑や赤や黄色も見えるが、どれも「その色そのもの」とはだいぶ違っていて、昔の難しい絵を見ているようだった。
地面の色も不思議だ。
灰色かと思いきや茶色が混ざっていたり、無駄にでこぼこしていたり、見ていると気が変になりそうだ。
この色は何というのだろう。きっと名前などないんじゃないか。だってあそことここでは色が違う。でもひとつながりの同じ色に見える。
永遠に理解しきれないものが、たったこれだけの見渡せる範囲に収められている。ひどく狭いのに、何もかもを吸い込むような色をしていて、この世のすべてが詰まっている気がする。
地面にそんな思いを寄せたのは、初めてで、多田はるかは、果てしなく大きいものに対峙している気分に陥った。
「なつかしいな。もう空気が違うもんね」
さっきから同じようなことしか言わないのは、四つ年上の神川みなみ。映画で見る毒ガス用のマスクみたいないかついマスクを、彼女はもう外してしまっていた。いままでもいつも隣にいたみなみだが、今彼女はこれまで私が見たことのない表情をしていた。どこか物思いにふけっているような、それでいて晴れ晴れとしているような。
みなみの目線を追いかけてみたが、初めは何も見ていないのではないかと思った。鉄棒でも、すべり台でも、はるかのように地面を見ているわけでもない。しばらくして、気が付いた。彼女は遠い町を見下ろしていたのだ。
家がいくつもいくつも立ち並んでいる。うねった大地に沿うように建てられているから、位置が高い家も、低い家もある。それが見渡す限り広がっていて、街を作っている。
そして、街からもう一つ視線が移った。空だ。顔を上げると、空は、青色をしていた。青色そのものに近い青色。ずっと奥まで広がっていそうな鮮やかな色。その中に、薄い白色がサッサッと走っている。「雲」というやつだと思うけれど、ちょっとそれにしては薄くてほそい。レースカーテンをほそく引きちぎってちりばめたみたいだった。
「広いね」
思わずため息をつくような声を出すと、みなみは軽く笑った。
「まだまだ狭いよ。街の中だもん」
もっと広いところがあるのか。もう充分広いのにな。
「はる。」
「なに?」
「マスク、そろそろ外したら?絶対暑いでしょ」
言われてみればそうだった。視界の下の方を占める黒い毒ガス対策用みたいなマスクに、そっと手をかける。でも、やっぱり決心がつかない。
「もう叶人と美咲に会うことって無いのかな」
思い出さないようにしていた疑問が、口をついて出てしまった。
みなみの息子である叶人も、自分の娘である美咲も、シェルターへ置いてきてしまった。いや、自分たちが追い出されてしまったのだ。
定期検疫で、聞いたこともないような感染症が陽性と出たときには、ただただ怖かった。今までの生活を捨てなければいけないこと、美咲や家族同然のみなみ、叶人と離ればなれにならなければいけないことが。
でも、幸か不幸か、みなみも同じ病気の陽性者となった。子供たちは罹らなかった。昔は「たんなる風邪」といわれたような病気だが、みなみとはるかは何週間も寝込んだ。彼女と一緒に隔離療養期間を経た後、二人同士にシェルターを追い出されたのだった。
もし今マスクを外してしまえば、いろんな菌が入り込むかもしれない。もしかしたら万が一でも自分が死ぬかもしれない。死ななくたって、はるかが菌を保有してしまえばシェルターへは戻れない。マスクを外してしまうのは、いつかシェルターへ戻れるかもしれないという淡い期待を完全に消してしまうことのような気がした。
みなみは、遠くを見つめたまま唇を軽くかんでいた。彼女も自分の子供のことを考えているのだろう。
ゆっくり、口を開いて、さっきまでとは打って変わったか細い声で一言だけ発した。
「ないよ」
もう、私たちが会うことはない。メールや電話でのやりとりも禁止されている。親が恋しくなって子供がシェルターを抜け出してしまわないように。
もうどれだけ悲しくても会えない。
はるかは、ゆっくり、いかついマスクに手をかけて、外した。
空気がざらざらしていた。
吸い込むたびに細かい埃が喉の奥に入り込んで、絡まっていった。
世界が地続きになった気がした。あの遠い家から来た風を、私が今吸っている。空気が何もかも繋げてくれる。もっと広いところにも。
ざらざらしている代わりに、開けっぴろげな気持ちいい空気だった。
となりを見ると、みなみが笑っていた。気持ちいいでしょ、とでも言いたげな顔をして。
あの生活には戻れない。
でも、新しい実感がそこにはあった。
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