第三章 悪役令嬢は、異世界に帰る。
悪役令嬢は出会う。
目を覚ましたら、黒髪の男の顔が目の前にあった。
「ああ、お目覚めになられましたか。」
「ここ、は?」
どうやらそこは、外のようだった。
(夢でも、見ているのだろうか。それとも…夢を見ていた?)
エリザベスは、混乱する頭と視点の合わない目で、まわりを見回す。男は心配そうに、エリザベスの顔を覗き込んでいる。彼に抱きかかえられているらしいということに気が付いたのは、それからすぐのことだった。
彼の向こう側に、マーガレットと皇太子殿下が並んでこちらを伺っているのが見えた。なんだか、とても大人びて見える二人の姿に、少しずつ記憶が戻ってくる。
倒れたらしいエリザベスを見つめる不安そうな様子は昔のままではあったが、純白のドレスを纏い、背筋を伸ばし立つマーガレットの姿は、皇太子妃となるに相応しい優雅さと、何もかもを包み込むようなおおらかさに溢れていた。
「夢を…、夢を見ていたみたいです。」
エリザベスがそう呟くと、最近のちょっとおかしかったエリザベスと様子が違うことに、周囲が騒然となったようだった。
「お、お姉さま!」
目に涙を浮かべてエリザベスに縋りつこうとしたマーガレットは、目の前の男に「しっ!」と静止され、口に両手を当てて慌てて後退る。
男の黒髪が、エリザベスの頬に触れる。先ほどの夢の中、愛しい黒髪の人たちと姿が重なり、思わず手を伸ばしそっと触れた。
(…柔らかい、のね。)
ビクリと彼が一瞬強張ったような気がしたが、彼は何事も無かったかのようにゆっくりと微笑んで「痛みはありませんか?」と聞いてきた。
「は…い。」
特に、これといった痛みは感じなかった。今の状況が、全く読めていないだけで。エリザベスは、友梨たちがいる世界を初めて見た時もこんな感じだったな―――なんて、どこか夢心地で考えていた。
咳払いが聞こえ、そちらに目を向ければ、そこには純白の衣装に身を包んだ皇太子が涙を流すマーガレットに寄り添っている。
「お姉さま、ごめんなさい。」
花嫁衣裳を着たマーガレットが、涙を流している。あまりにも綺麗な涙に、思わずといったように溜息をついたエリザベスは、なんだかその一言で今までの自分を取り巻く全てのことを許せるような気がした。
「私こそ、…ごめんなさいね。マーガレット。」
ゆるゆると首を振ってそう言えば、マーガレットは「お姉さま!」と言いながら、より一層の涙をこぼす。化粧が落ちてしまうのではないかと、エリザベスが思わず「人前でそんなに泣きじゃくるなんて!」と声をかければ、それに気が付いたマーガレットが困ったように笑った。
「大丈夫か?」
数日前まで婚約者だったはずの皇太子殿下が、エリザベスに手を伸ばす。意識がはっきりしてきて、裏側に何かを隠した様な笑顔に思わず顔が引きつりそうになったが、耐えた。
(この人が、ヤンデレ…。)
あまりにも不敬な感情に、エリザベスは慌てて「はい。全然、大丈夫です。」と答え、その手を借りることなく一気に立ち上がった。目の前の黒髪の男が、ふっと笑った気がしたが、気にしないことにした。
行き場を失った手を、苦笑しながら引っ込める皇太子が「ラウル・ザクセン、ご苦労だった。」と黒髪の男に声をかけた。
「急にお呼び立ていたしまして、申し訳ございませんでした。」
マーガレットが、黒髪の男、ラウル・ザクセンに礼を言えば、彼は「お役に立てたようで、何よりでございました。」と、恭しく頭を下げた。
(彼が、あの筆頭魔術師であるラウル・ザクセン様…。)
エリザベスが、まだ今がどんな状況になのかもわからず、少し混乱した頭で彼をじっと見ていると、彼はエリザベスの視線に気が付いたのか、少し困ったように笑い、「何か不調があれば、遠慮無く魔術師塔の方へいらしてください。」と言った。くるりと背中を向けて去って行くラウルの黒髪が揺れるのを、そして「闇色が…」とコソコソ言い合っているまわりの貴族達を、エリザベスは不思議な気持ちで見ていた。
夢ではなかった。
絵梨がいたこちらの世界は、外伝のとおり、エリザベスにとってとても優しい世界になっていた。エリザベスと再び入れ替わる時を想定していたのか、絵梨がこちらに来てからの出来事が書かれたメモが大量に見つかった。が、淑女らしからぬ絵梨のしでかしに、エリザベスは頭を抱え呆然とした。外伝を読んで知っていなければ、きっと腰を抜かしただろう。
(こちらにもスマホがあれば、絵梨にお礼が言えるのに。)
エリザベスは、スマホの使い方についても簡単に教わったが、それは魔法の杖に似て、慣れない者には扱いが難しかった。こちらの世界では「念話」と言って、魔力のある者同士であれば会話ができるといった話を聞いたことがあったが、向こうではスマホさえあれば、どこでも誰とでも会話ができるのに。
メモに書かれた絵梨の可愛らしい字を指でなぞりながら、会ったことは無いけれど、おそらくは誰よりも元気な彼女に、心の中で頭を下げた。
婚約破棄されたエリザベスに、王家から婚約の打診が来たのは、それからしばらくしてのことだった。婚約破棄された傷物の令嬢である自分に、まさかこんなにも早く新たな婚約の話が浮上するとは思わなかった。しかも、王家からの打診…。断れるものでもない。
それでも、どこかで「もしかしたら」と思う部分があった。
そう。それは、外伝の最後。エリザベスに伸ばされた手。ちらりと映っていた、その後ろ髪の色は…。
新たな婚約者として紹介されたのは、国の筆頭魔術師であるラウル・ザクセンのものだったのだ。
先日の出来事がどんな形で報告されたのかわからないが、それでも国にとっては大変重要な存在でありながら、嫌悪されがちな魔術師の結婚相手探しは、この国にとって非常に苦労を要するものになっている。魔術師と婚約という話が持ち上がると、修道院に駆け込む者さえいるほどだ。
エリザベスが候補にあがるのも、状況だけを考えれば、当然のことのように思えた。
エリザベスの両親は、婚約破棄されて傷物であるエリザベスをもらってくれること、そして彼が国の筆頭魔術師であることを理由に、闇色と忌み嫌っているにも関わらずこの婚約を受けることにしたらしい。
そこに、エリザベスへの配慮が少しでもあったかどうかはわからないが、エリザベスにとってはもうどうでも良いことだった。家のために結婚することは、貴族の家に生まれたならば当然のことだと思っていたし、何よりあの時のラウルの柔らかい空気と、そしてあの髪色が…エリザベスにとってはとても嬉しくて、もう一度会ってみたいとすら思っていたからだ。
深くフードを被り、その黒髪を隠してやってきた筆頭魔術師は、その闇色に恐れを隠せないでいるヴァリエール家の使用人達の様子を気にも留めていないようだった。
フードをとり、その黒髪を晒したラウルが、「本日は…」と両親に挨拶をしている。エリザベスは、その懐かしい色に、思わず笑顔を向けた。
懐かしい佐伯家。私にとっての、もうひとつの我が家。
「ようこそ、おいでくださいました。エリザベス・ヴァリエールでございます。…先日は、ありがとうございました。」
「ラウル・ザクセンです。」
エリザベスの少し上。見上げた先で、ラウルが目をパチクリとさせ、不思議そうな顔をする。エリザベスが微笑みながら、ラウルを見ていたからだ。
(ああ、この人だ。)
なぜかはわからない自信がエリザベスの中で沸きあがり、嬉しくて泣きそうになる気持ちを押し込めた。エリザベスから向けられる笑顔に、ラウルはやや怪訝な顔になる。
「私の闇色が、怖くはないのですか?」
庭を案内するようにと父親に言われ、二人でその入口へと向かっているところで、ラウルにそう問われた。エリザベスは、微笑みながらゆるゆると首を振った。
「その人が誰かを傷つけようとしていれば、魔力だって武力だって、言葉の暴力でさえ恐ろしいものです。その人の優しさがわかれば、何も恐れる必要などないと知っています。」
エリザベスの言葉に、目を見開いたラウルが、エリザベスから慌てて目を逸らす。少し鼻を啜ったようだ。そして、気を取り直したように再びエリザベスの方を見ると、「でも、私は元孤児です。そんな平民ですらない人間とこれからの人生を共にするなど、嫌だとは思わないのですか? 私としても、自分の立場ぐらいはわかっています。断るなら、今のうちです。」と、不安そうに聞いた。
断って欲しいかのような言動に、エリザベスは悲しくなった。それでも、美知に「言わなきゃいけない言葉が言えないだけ。」と言われたことを思い出し、丁寧に言葉を紡ぐ。わからなければ、聞けばいい。そして、できれば、自分の気持ちが伝わるように。少し涙声になってしまったことは、許してほしい。
「ザクセン卿は、このお話がご迷惑でいらっしゃっるのでしょうか。」
「そんな! 私にとっては、これ以上ないお話です。…本当に、本当に私で良いのですか?」
申し訳なさそうなラウルに、エリザベスは笑いかけ、そして「はい、喜んで。」と言った。
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