悪役令嬢は勉強することの意味を知る。
――――この世界の魔法のようなものは、この世界の人々が長い年月をかけて生み出した技術。
昨晩、友梨の父親がエリザベスに教えてくれたことを思い出す。魔術が様々な知識の結晶であるのと同じく、そういった技術も先人の知識の結晶なのだということを、友梨の父親は丁寧に教えてくれた。そして、それを受け継ぐための授業が、学校で行われていると言われたのだが。
「きっと、エリザベスにとって無駄になることは無いと思うよ。」
その言葉の通り、エリザベスにとって学ぶことだらけだった。それは、授業の内容だけではない。———どちらかと言えば、授業の内容は全然頭に入らなかった。
朝、教えてもらった飛行機。馬車のような車。そして、たくさんの人を運ぶ電車。空を飛ぶための魔法は、向こうの世界では数名しか使えない魔法だし、転移は複雑な魔法陣が必要になる。全ての人がそんな技術を享受できる世界には、やはりそれだけの理由があったということ。
初めて電車に乗る時、お風呂のお湯を使う時、つきまとっていた不安も、こうしてその理由に繋がる何かを既に皆が学んでいるのだとしら、エリザベスのようにいちいち恐れることもないだろう。
(魔術師に対する差別も、もしかしたら皆が知らなすぎるだけなのかもしれない。そういったことを学ぶ場所さえあれば、もしかして…?)
魔法陣について学ぶのは、魔力を持つ者に限られており、それはエリザベスの通う学園とは全く違う機関で行われているものだ。そんなことを考えながら化学式を眺めていたエリザベスは、向こうの世界の学園を思い出す。こちらの世界の学校と似ているようで似ていない、ギスギスとした貴族社会の縮図。能力よりも重視されるのは、親の階級ばかりで…。思わず、重い溜息が零れた。
そこで、ふと新たな考えが過る。これほどの教育を平民でも受けられるという事に感動はしたが、裏を返せば誰しもがこれほどのことを学ばなければいけないのか?ということだ。この難しさは、誰しもが王妃教育を受けているような、そんな感覚ではなかろうか。皆が、喜んでこれほどまでに高等な知識を求めているというのか…と。
「こちらでは、これほどの内容のものを皆様当たり前に受けられるのですか?」
「普通に高校に通っていたら、学ばなきゃいけないことではあるね。」
美知の答えに、エリザベスは驚きを隠せないでいた。あまりにも高すぎる教育の水準。それを本当に必要かどうか、わからないのに学ばされるということではないのか。
でも、だからこそ。魔術に匹敵するほどの技術が平民にも溢れ、身分差というものが無い世界になりえたのかもしれない。それに思い当たれば、自分のやってきたことは実は大した苦労ではなく、もしかしたら幸せなことだったのかもしれないと感じた。
(自分ばかりが、何でこんなに大変な思いをしなければならないのかと思っていたのに…。)
必死で書き写したノートを見ながら、その明らかに難しい内容を思い返してみれば、この世界が発展した理由はわかれども、それを誰しもが学ばなけれなならないことの理由にはならないのだ。平民が皆、王妃教育のような…、いや違う。あの世界の研究職に就くようなレベルの物を学ぶ必要がるのだろうかという疑問は消えない。
「これらは全ての人に必要なものとお考えなのでしょうか。」とおずおずと質問してみれば、美知は「さあね。」とそっけなく答えただけだった。
必要かどうかわからないものを、学ばされるというのはどういう気持ちなのだろうか。自分にとってお妃教育は、必要だと思えたから頑張れた。婚約破棄されて、それらが無駄になると思った時の絶望感を思い出し、美知に同情の目を向けると「でもね、」と言って美知が言葉を続けた。
「勉強した内容もいつ役に立つかわからないし、それにさ、勉強したっていう事実がくれる自信みたいなものが大事だったりするんじゃないかな。」
そう言われて、エリザベスの中で何か固い重しのようなものがスーッと消えていったような気がした。
「誰の受け売りだよ。」と、いつの間にか近くに来ていた健太郎の声がして、「はは、中学校の時の塾の先生。」と美知が答えている。そんな会話を聞きながら、エリザベスは下を向く。気を抜けば泣いてしまいそうだった。気を張って、少し疲れてもいたし、少し情緒不安定なのだと自分を鼓舞する。
すると、頭にそっと手が置かれた。
「エリたんは、頑張ってきた自分に自信を持って良いんだよ。そんでね、もう頑張らなくても良いの。きっとね、頑張ってきたことは、無駄にはならないよ。」
美知の声がして、いよいよエリザベスの目から涙が零れ落ちた。
「ああああ、エリたん泣かないで。ほら、これガンガン使っちゃっていいから!」
鼻を啜るエリザベスのために、美知がティッシュを差出した。しかし、そう言われても、向こうの世界で紙は高級品だ。エリザベスがおそるおそるそれを鼻に当てれば、少しだけ優しい香りがした気がした。
頬杖をついて心配そうに見ている美知と、優しく笑う健太郎に、エリザベスは背筋を伸ばすと、「ちょっと、目にゴミが入っただけですわ。」と、赤くなった目で言った。
お昼ご飯は、美知とエリザベスが向かい合ってそれぞれ持って来たお弁当を広げた。隣の席では健太郎と数名の男子が、ビニール袋からパンを取り出して食べている。厨房も無いのに食事が簡単にとれてしまうような状況に、エリザベスは――今日は本当に驚く事ばかりだ。——と思った。
「午後の最初は体育だから、体育着に着替えないとだね。」
「たいいくとは、どんな授業でございますか?」
「ああ、運動。外で身体動かすの。」
もぐもぐと口を動かしながら話すことははしたないと教わってきたが、こちらの世界ではそんなことも無いらしい。せっかくだから、少しお行儀の悪いことをしてみても良いかもしれないとこの状況を楽しみつつある。エリザベスは、口許を押さえながら美知に質問をした。
「剣術といったようなものでございますか? それとも、馬術とか?」
「そんな小難しいことはしないよ。って、エリたん。剣振れるの?」
首を傾げる美知に、エリザベスはふふんと胸を張る。
「当然ですわ。少しは身を守れるようにと、幼少のころから教師がついておりましたから。」
「じゃあ、健太郎と対決してみる?」
得意げなエリザベスに、ちょっと意地悪してみたくなったらしい美知が言った。自分の名前が聞こえたのか、近くで既に食事を終えたらしい健太郎が振り向いた。
「馬鹿なこと、言ってんなよ。」
「こう見えて、やつ、剣道部。」
「ケン、ドーブ? …とは、どういう意味なのでしょう?」
エリザベスの返答に、健太郎は吹き出し、美知は「ドーブはねぇ、そうだなぁ。何だろうなぁ。」とふざけたように言っている。また変なことを言ってしまったらしいと、エリザベスは頬を赤くして、「またからかいましたのね!」とそっぽを向いた。
そんなエリザベスを見て「ははは」と楽しそうに笑う健太郎の笑顔が、ふいに記憶と繋がる。絵梨の部屋。写真と呼ばれる本物のような絵姿。その中に父親以外で唯一映る男性が健太郎ではなかったか? それは、エリのスマホの中にもあったはずだ。
思わず繋がった記憶に、見てはいけないもの見てしまったような気持ちになって、赤くなった頬をますます赤くしてエリザベスが俯いていると、「今日、急遽保健に変更だってさ!」と、教室の前の扉から声がした。何やら騒がしくなる教室。
そして、ひとりの男子が、「5時間目は保健!」と黒板に大きくチョークで書いた。
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