第21話
拓斗は臨戦態勢を整えた。
アホの工藤と話すのに適当な呑気モードから、瞬時に怜悧な判断を要する舌戦モードへと、スイッチしなければならなかった。
「ええと……話って、なに? いやな話は聞きたくないぜ」
青木の忌避する話題について、すばやく暗に牽制した。
いまの拓斗は「友情の人」だ。
広瀬ははにかんだ表情を浮かべ、拓斗を見るような、それでいて視線をそらせるような中途半端な仕種で、しばらく答えない。
「あ、あの……もしかしたら」
ようやくしゃべりだすが、蚊の鳴くような彼女の声は耳を澄まさないと聞こえなかった。
「はあ?」
「あの……ね、もしかしたら上島くんにとっていやな話かもしれないけど、でもね、わたしはそう思ってほしくないの。だけど……でも、あの……勇気を出して言うね。たぶんわたし、きっともう一生、こんな気持ちになれないと思うの。だから聞いてもらいたくて。
もし受け入れてもらえなくても、どうせ一生に一度のことだし、それだったらちゃんとみんなに聞いてもらえる場所で、ダメならダメで……でもできたらそうなってほしくないけど、だから、あのね、わたしにとってもう十年来の想いだから、そろそろ打ち明けたいの。迷惑かもしれないけど、わたしの気持ちは一生変わらないと思うから」
頭のいい女の考えることはわからん。
なにが言いたいんだ、この女は。
「あのさ、それって
二度目の、そして最後の防衛ラインは、しかして瞬時に突破された。
広瀬はいきなり拓斗の腕を強くつかみ、こんどこそ思いきり大声を張り上げる。
「ここで聞いてほしいの。みんなも聞いて! わたしね、きのう痴漢に乱暴されそうになったところを上島くんに助けてもらったの。わたし、ずっと上島くんのことが大好きだった。小学校のころからずっとずっと。だから上島くん……ううん、拓斗くん。ずっとそう呼びたかった。呼んでいいわよね。ダメって言われても呼ぶ。拓斗くん、わたしと……わたしとつきあって。恋人になって。あなたが好き。大好きなの!」
拓斗はぽかーんとして、しばし身動きとれなかった。
彼はアホになっていた。
広瀬の目は、拓斗を見据えていた。
もちろんクラスじゅうから注目の的だった。
ダリの描いたグニャグニャした牛肉の時計が、大気に瀰漫しているような気がした。
そしてヴェニス──バルザックの女主人公デルフィーヌ・ニュシンゲン男爵夫人が若きラスティニャックを連れて行った大運河の、あの傾いた宮殿を見ているような気分だった。
つまり「くらっ」ときた。
水を打ったようにシーンと静まり返っていた教室が、直後、おそるべき反動でドワッと弾けた。
「ヒューヒュー、やるじゃねーか、拓斗っ」
なにもやってねえよ、オレは。
「かっこいいわ、広瀬さん。私、断然応援しちゃう」
勘弁してくれ、すんな応援。
「お似合いだぜ、拓斗。よっ、おしどり夫婦」
貴様、まえへ出ろ、歯ァ食いしばれ。
「まさかゴメンナサイはないわよね、拓斗ちゃん? 女の子がこんなに勇気出したのに」
なんでだよ、だとしたら女子有利すぎんだろ、ルール変えろマジで。
「返事、すぐじゃなくていいよ。でも、できたらいま、ここで聞かせてほしい。みんなにも聞いてもらって、認めてもらいたいから」
なるほど、そのためにこんな大袈裟な真似をしやがったのか。
意外に計算高いじゃないか。
本然フェミニストの拓斗が、かぎりなく「ゴメンナサイ」しづらい状況だった。
……いや待て、たしかオレは広瀬に対してだけは、フェミニスト返上できたはずだ。
思い出せ、しっかりしろ、拓斗。
とにかく早急に多角的な分析が必要だった。
いま、拓斗の頭蓋にあるスーパーコンピュータは超高速で回転している。
この局面、どう切り抜けるべきか。
当該状況、交遊関係、中長期的展望、相対利害、局地的立場、広義条件、集中投機筋……エトセトラエトセトラ。
あらゆるデータをクリーニングして最善の回答を模索する、なんて悠長なことをしている時間はなかった。
最終的に拓斗の脳裏をよぎったのは、やはり「青木」そして「友情」だった。
拓斗はついに、熱烈な友情の人としての自分を、選択したのだ。
「オレは広瀬の恋人に……」
「はい」
再び教室が静寂に包まれた。
拓斗の両手をしっかりとつかんで放さず、まっすぐに拓斗の目を見上げる広瀬に向けて、拓斗は拓斗のためでなく最高の親友のために、言った。
「恋人に……なる」
血を吐くように紡いだ言語だった。
いままで言の葉というものを軽視し、たいした意味もない台詞をペラペラと並べ立てて生きてきた人生のなかで、たった一言にこれほど力を込めたことはなかった。
再び教室が嵐のように盛り上がる。
何事が起こったのかと、隣の隣のさらに隣のそのまた隣のクラスまでから、生徒たちが集まってきた。
広瀬はウルウルと涙ぐんで泣き出すし、おかげで騒ぎはさらにひどくなるし、そのときブッ倒れて目をまわさなかった自分を尊敬する。
なんにしても、これで上島拓斗は広瀬涼子の公然の恋人になってしまった。
こうなったら明日からは、それを切望する青木正広に上島拓斗の生活のすべてを任せるしかあるまい。
そしていったい、本物の上島拓斗はどこへ行こうというのか。
いずれ青木正広と完全に入れ替わる日がくるのかもしれない。
まあ、そうなるならそうなったでいいか……と忌憚なく放言できるほど、このときの拓斗はきわめて自棄的だった。
ついにルビコン河を越えたカエサルの名のもとに、サイは投げられたのだ。
「と、いうわけなんだよ、マーさん」
きょう一日の、とくに青木が知りたいと思っている事柄について報告を終えた拓斗は、近くの自販機で買ってきたウッシッシーの缶コーヒーをグイッと飲み干した。
よっしっしーのコーヒーより、だいぶ苦かった。
青木は真ん丸に目を見開いて、溺れた金魚のように口をパクパクしていた。
なんと言っていいのか、わからないのだろう。
拓斗自身、語りはじめた当初は困惑した。この事柄を報告するにあたって、まず青木が卒倒しないように気を配らなければならなかった。
しかして青木は卒倒した。
それから起き上がりこぼしのようにすっくと立ち上がり、踊りはじめた。
うきうきわくわくらんらんらーん。
このとき青木を表現するのに、これほど適切な語句はなかろう。
拓斗はなにも見ていないかのように、落ち着いて食べ散らかした食器をまとめた。
青木はひとりでマズルカを踊っていた。きっと彼は、そこに広瀬の姿を見ていたことだろう。
……ふう。
「ああっ、オレうれしいよ。あの広瀬が告白してきてくれて、それでもって拓斗がそれを、それをみんなのまえで受け入れてくれたなんてさっ」
軽やかな足取りで拓斗の周囲をまわる男、青木。
「そうだろうそうだろう。おまえのその喜ぶ姿を見るためだけに言ったんだから、喜んでもらえれば、そのかいもあったってもんだ」
内心にある憤りを感じたのか、青木はいきなり低姿勢になって拓斗にすがりついた。
……その姿でそういうことをするのはやめてもらいたい。自分が情けなくなる。
「ご、ごめん拓斗。そうだよな、拓斗は広瀬なんて、ぜんぜん好きじゃないんだもんな。なのにオレばっかり浮かれちゃって、ごめんな」
「いいって、マーさん。そのためだけに言ったんだから」
容易にこの棘は抜けなかった。
青木は恐縮したが、その崩れた相好だけはもどらなかった。
彼は拓斗に何度も頭を下げながら、
「ありがとう、ごめん、ありがとう、拓斗。うれしくて死にそうだよ、オレ。けどやっぱり広瀬は拓斗のことが好きだったんだ。オレの思ってたとおりだったろ? ああわかってる、ごめんよ、拓斗。でもやっぱり広瀬は拓斗が好きだった。それでオレ思うんだけどさ、拓斗と広瀬ってお似合いだと思うぜ。いや、もちろん拓斗は広瀬なんて好きじゃないってことはわかってる。だからそっちのほうはオレに任せてくれよ」
そのまま舞い上がって空を飛べるんじゃないかと思えるほどの浮かれようだった。
当初はコトの成り行きに絶望していた拓斗さえも、これだけの踊りを見せてもらえれば代理満足的カタルシスをおぼえるほどであった。
「ああ、任せるよ。なんなら明日の放送もやるか?」
意地悪じゃなく言ったのだが、さすがに心のどこかに残っていた冷静さが、彼をしてその一事を断念させた。
「そ、それはできないって。DJだけは無理だよ。そうか、それじゃ明日は入れ替われないんだよな。うーん、残念。でもしかたないか。拓斗がふたりもいたら大変だもんな」
一瞬沈み込んでから思い出したように大笑いしたかと思うと、このウカレポンチは弾かれたように立ち上がって蝶のように舞い踊った。
「おい、マーさん。あんまり調子乗ってると、また体調崩すぞ」
そこまで喜んでもらえればマジで本望だったが……クルクルと舞いを舞う青木の歓喜の裏にある不安は、けっして褪色していない。
……おまえの身体は異常なのだ、青木。
その証拠に、見るがいい、聞くがいい。
おまえは声まで、上島拓斗に似てきている。
髪の毛はたった三日で、前髪など五センチ以上も伸びている。
いや髪の毛ばかりではない。
信じられないことだが、身長まで伸びていることに気づいているか?
しかも彼はきょうの昼、牛丼屋で五人前を平らげたらしいが、いぜんとして身体は痩せつづけている。
さっきだって優に三人前を食べたというのに、もちろん遠慮しながらもまだ不足そうな顔だったではないか。
そのエネルギーは、いったいどこへ消えているのだ?
決まっている。
青木の変身と超回復と怪力。これらの特殊能力に費やされているにちがいない。
そんな異常な状態が恒久的につづくのなら、オリンピックの歴史は塗り替えられずにはいられないだろう。
こんな青木にしたのは、いったいだれなんだ?
傍若無人にふるまうさきに、やおら藤原先輩の姿が思い浮かんだ。
……あのひとだ! いまのオレを助けてくれるのは、あのひとしかいない!
拓斗はケータイを手に、猛然たる勢いで電話帳をめくった。
リダイヤルではない、電話帳から探して電話するのだ、この労力がすべての道を切り開く、そう信じた。
ふー、ふー、ふじわらの、くそったれええ!
その指が最終的にタップしたのは、
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