かのなつ Dual

常陸乃ひかる

01 Who are you?

 七月上旬。

 首都高速六号からいつものJCTに乗り継ぐまでに、もう地図アプリは使わなくなった。故郷に続く高速道路に入ると、遠目に稜線りょうせんが見えてきて、の町が脳裏に輪郭を現す。と同時に、視覚から牧歌的な匂いを感じてしまった二十五歳の夏。

 男は今年、仕事の都合で早めの夏休みを取った。実家の駐車場に車を停め、チャイムを鳴らすと、普段どおり母が出迎えてくれる。

「おかえりあらた。暑かったでしょ?」

「ただいま。ほい、御土産おみやのブラウニー」

「またオシャレなの買ってきて。ひよ子で良いのよ、ひよ子で。でもありがとね」

 母の優しい言葉は、いつ聞いてもむず痒い。


 豊田とよだあらたは、一見どこにでも居る会社員である。

 が、今から七年前の冬。原動機付自転車原チャリに乗ってアルバイトから帰宅する途中、道に飛び出してきた野良猫をよけようとして転倒。その野良とぶつかって体が入れ替わることもなく、単独事故を起こして体が吹っ飛び、ついでに記憶も吹っ飛んでしまった。

 外傷によって過去の記憶をなくしたのではなく、事故の際になにかに遭遇し、高校生活の記憶を丸々なくしてしまったのだという。

 医者いわく、『解離性かいりせい健忘症けんぼうしょう』。

 数週間で高校生活には戻れたが、『友人』だと思っていた同級生の反応は冷たかった。自らの受験と、他人の記憶喪失なんて天秤にかけるまでもなかったようで、新に対して親身に接してくるクラスメイトは居なかった。

 幸い、小中学校の思い出や、それまで勉強してきた内容は記憶に残っていた。とはいえ、小さい頃の交友関係なんてすでに途切れており、こうして帰省しても親に顔を見せたあとは、田舎町をフラフラする以外にやることがなかった。

 新は散歩に出ると、実家から数分の距離にある事故現場までやってきた。

 視界の先には高速道路が見え、頭上を様々な車が行き交っている。その大きな境界線を挟んだ東側には繁華街がある。反面、西側にあるのは、若者の数が年々減り続ける農村である。


 ――遠くの草木が大きく揺れた。

 ほどなく風音が耳朶じだを包み、露出した肌を夏風なつかぜかすめてゆくと、西側の町で砂埃が上がった。新は顔を背け、徐々に消えてゆく土っぽい匂いに合わせて目を開いていった。

 目線の先――歩いてきた道には人影があった。目を凝らすと、深張りの黒い日傘パラソルを差した色白の女で、こちらをじっと見据えている。

「なんだ……?」

 のみならず、肘を曲げて控えめに手を振っているではないか。

 新は本能的にゾッとした。女には足があり、体は透けておらず、服を着衣している。恐怖の原因は、『人ならざる者』ではなく、『人間』だったからだ。

 互いが存在を認識すると、女は気恥ずかしそうに目を逸らしてしまう。その動作は可愛らしく、新の緊張はわずかにほぐれたが、やはり見知らぬ人間に絡まれるというのは、相応に体が強張ってしまった。


 バックグラウンドでは、木にとまった独身男性たちが、ささやかに夏の訪れを告げている。

「どうも」

 そんなフィールドで、見知らぬ女は控えめな挨拶を放ってきた。ひょっとしたら『知っていた女』なのかもしれない。ぱっと見、二十代だと思う。

 そのほかの情報――情報は――

「あ、どうも……」

 新の情報分析は、そこで止まった。というのも、女を構成するカラー配分に思考を狂わされ、『未知との遭遇』が生じてしまったからだ。

 黒い襟のついたピンクのインナー。

 胸元にリボンタイが垂れ、フリルのついたミニを穿き、レースソックスもバックルのついた厚底のパンプスも、とにかく黒々としている。顔の半分はマスクで隠れており、当然その色も――

 黒くない部分は、両耳に装飾された多数のピアスと、アッシュベージュのロングヘアくらいである。これはまさしく、異星人との触れ合いファーストコンタクトだ。

「えと……あの、どこかでお会いしましたっけ?」

 新は突発的に目を細め、相手の素性を探るような真似をしていた。その言動に悪気はなくとも、黒いレースの傘地の向こうからは、ほとほと嫌そうな目が覗いていた。無言で立居を見据えてくる視線は、眉間に突きつけられた人差し指のようで、

「すみません。高校の時に事故って、その影響で記憶がなくて。東京に進学して以降は、地元の人間関係が皆無だったもんで」

 モヤモヤに耐えきれず、新は一部分を白状した。

「そう、覚えてない? ホントに? わたしははるか

 ほどなく、会話の流れで放たれたファーストネーム。

「ハルカさん……? 申しわけないっす」

 どこにでも居そうな名前だった。

 それなのに、海馬かいばコールセンターに問い合わせても返答がないし、声に出して自問しても、骨伝導こつでんどうが働くばかりで前頭葉には届いていないような気がする。そうなると、高校時代の知り合いだった可能性が高い。

 女は微笑を浮かべたあと、「はるか彼方のハルカよ」と、今度はわかりやすい作り笑いを見せてきた。

「高校の知人ですか? 俺を知ってる……?」

 ほどなく新は、淡い期待を込めて真相に近づこうとした。

「今は答えられない。それでも記憶喪失の手助けになれるかも」

 が、返ってきたのは甘ったるいベリー系の香りと一緒に、意味深な情報提示と密かな笑みだけだった。その発声は新の心を揺さぶるとともに会話の延長戦を物語っていた。人の心を覗きこむような蠱惑こわく的な両眼。瞬きのたびに長いまつ毛が生き物のように動いている。

 新は咄嗟に目を逸らしながら高架下を指差し、

「日影に入りません?」

 物理的なUVカットを促した。

 ――Who are youあんただれやねん?


 高架下を吹き抜けてゆく風が、気持ちを軽くする。

「俺は高校の時、ここで事故ったんです。ネコをよけようとして」

 そのせいか、自分語りをする口もどこか軽かった。

「よけようとして? 違うわよ」

「え? なにか知ってるんですか?」

「いえ……なにも。バイト帰りだから二十一時半くらいよね。あ、そういやこの高架下、夜になるとラーメン屋台が来るの。わたし、落ちこんだ時とか気が晴れない時にラーメンすすってビール飲んで、おじさんと話すの」

 日傘を閉じた遥が思い出すような仕草をし、同時になにかを隠し、代わりに過去をリンクさせるように語ったのは、地元で有名なラーメン屋台だった。バイト帰りに何度も目撃したことのある軽トラや赤提灯ちょうちんだが、新自身は一度も関わったことがなかった。

「あの屋台まだやってるんですね」

「ねえ、日が暮れたらまたおいで。屋台で話せばなにか思い出すかも?」

「何時頃ですか」

「キミが事故った時間。わたしはここで待ってる。あとはキミ次第よ」

 アッシュベージュがふわりとほつれ、厚底パンプスのつま先が東側を向いた。そうして日傘を開く音とともに、足音が――残り香が――一方的な口約束が離れていった。新も背を向け、うつむき加減で歩き出した。それは肯定的な一歩だった。

 彼女のバックボーンに身を任せてみれば、失った記憶とともに、己の在り方が見えてくるかもしれない。この数年で新たな人間関係を築き、それなりに充実した生活を送っていたが、一度立ち止まって過去を振り返ってみるのも、人生を豊かにするひとつの手段なのかもしれない、と。

 いつかの夏休み。夕方まで外をうろついていた時のように、山際やまぎわに太陽が触れてもワクワクが心に残っていた。


 二十一時二十分。

 視覚、聴覚、触覚から、飛び回る虫を感じる田舎の野外。

 ほどなく遠くに赤提灯、赤暖簾のれんが見えてきた。それぞれには、『ラーメン』の巨大フォントが存在を誇示しており、裸電球の光を吸収し、薄い布地が赤く光っている。

 軽トラからさほど離れていない場所には、女性のシルエットがおぼろに浮かんでおり、「こんばんは、豊田とよたくん?」と、小さなショルダーバッグを斜め掛けした遥が、昼間のように手を振ってきた。日傘は持っていなかったが、昼間同様マスクはつけたままである。

豊田とよだですよ。まあ、昔からよく間違われるけど」

「ふふっ、トヨダくん今日は奢ったげる。ちなみにわたしは本田ホンダよ」

 遥は自らの間違いをくすくす笑い、恥ずかしさを隠すように暖簾をくぐって、緑色のビニールが張られた丸イスに座った。

「そんな、悪いですよ」

 新も同じように、ノスタルジックにつながる赤色の扉をくぐり、遠慮がちに遥の隣に腰を下ろした。

「良いの、探し物に比べたら安いものだから。おじさん、味噌ラーメンと中瓶ちゅうびんね」

 年季の入った「らっしゃい」に被さるように、遥は常連を思わせる素振りで注文を口にした。店主が作業に取りかかろうとするのを横目に、新は言葉に詰まりながら、

「えっと、俺も味噌ラーメンください」

 と、長くも短い一瞬を切り抜けた。


 程なくビール瓶、グラスがふたつカウンターに置かれた。

「なにか思い出しそう?」

「昔ここに座ったことあるような……ないような」

「じゃあ、きっとあるのよ。それよりどう? キミも一杯」

「お酒弱いんです」

「少しくらいなら、ね?」

 笑いながら遥は、王冠が外れた中瓶を持って、柔らかくも強引にグラスを差し出してきた。断れる雰囲気でもなく、それを受け取るとすぐ、小さなガラスの世界は黄色に染まり、気泡が踊り狂い、現世を求めるかのように泡が浮上した。

 遥は「この出逢いに」と洒落たことを言いながらマスクを外し、グラスを下から、軽くコツンと当ててきた。

「いただきます」

 新は心の片隅で違和感を覚えていたが、裸電球に照らされた遥の素顔に目を向け、景気づけの一杯を摂取した瞬間、もうどうでも良くなっていた。

「ゆっくり思い出せば良いのよ、キミがそれを望んでるなら。友達も思い出せない? スマホの連絡先とか見てもダメだった?」

「実は事故の際に用水路に落として、SIMが水没してるんです」

「そっか。じゃあ、わたしが住んでる場所わかる?」

「いや……すんません」

 闇を凌ぐ一角で交わされる会話は、遥からの質問が多く、終始イニシアチブを握られている感覚だった。が、その面影は協力的で、また好意的で、アルコールが入っていたこともあり、新は聞かれるまますべてを答えていた。

「――ねえ、それよりトヨダくんってどんな女性が好きだった?」

 それでも淡い記憶の模索は長くは続かなかった。アルコールの量が増えてゆくにつれて、ふたりの会話は雑談に切り替わり、互いの隔たりはなくなっていた。

「唐突ですね。平凡な答えですが、料理が上手くて家庭的な人ですかね。あとは積極的な子も、割と嫌いじゃないですけど」

「そう、そうよね。じゃあ、女の子のファッションはどんなのが好き?」

「服には疎いですよ。まあ、年相応で似合ってる服装ならこだわりはないです」

 話下手の新だったが、三十分ないし四十分の滞在は、不思議なほど長く感じなかった。初対面の違和感ファーストコンタクトを経て言葉を交わしているうちに、その厚い壁が薄れていたのだ。


 別の客がやってきたのをきっかけに、ふたりは「ごちそうさま」と店主に一礼。現金での勘定を終えて、満たされた腹と、ほろ酔い気分で味わった野外の暗さは開放感に溢れていた。

「ありがとうございます。本当におごってもらっちゃって」

「トヨダくん。あすは朝からこの辺を探索してみない?」

「記憶漁りに付き合ってくれるんですか?」

「わたしがそうしたいから。そんな理由じゃ……ダメ?」

 遥の言葉によって、意識がぼうっとした。生まれて初めて、地元での夏をエンジョイしている気がしたからだ。

 遥のことは思い出せないが、彼女のお陰で過去に対する後ろ向きな気持ちを払拭し、背筋を伸ばし、前を向く勇気をもらっていた。

 当然、新が出した答えは――

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