友人作家の死

春泥

前編

 最近ちっとも姿を見せないし連絡もとれない友人のことがいい加減心配になり、わたしは彼の自宅まで訪ねて行った。自宅といっても彼の住まいは年代物の木造アパートの二階なのだが。なにしろ変わり者で、人付き合いなどほとんどない変人だ。万年床の上でひっそり亡くなっていることもあり得なくはないと、半ば本気で考えていたのだ。

 私の心配をよそに、彼は存外元気そうだった。アパートのドアを開けたらすぐ目に飛び込んでくる六畳の書斎兼寝室兼リビングに敷きっぱなしの布団の上に胡坐をかいたまま私を迎え、ケロリとした顔で言った。


「よう、どうした」

「どうしたじゃないよ。長らく音信不通だから、こっちは、もしやと思うじゃないか」


 私が非難がましく言うと、彼は私の手土産のおはぎ(道中、和菓子屋で買ったものだ)をむしゃむしゃ頬張りながら、「まあ、健康上は何も問題ないよ」と言った。

 話を聞いてみると、こういうことだった。売れない小説家の彼は、最近ひどいスランプに陥り、原稿が一枚も進まない。見ての通りの貧乏暮らしではあるが、幸い親の遺産が少しあり、書けなくなったからといってすぐに食うに困るようなこともなく、本人もはじめのうちは、そのうち何か思いつくさと高を括っていた。

 ところが


「もう半年以上経つが、少しのアイデアも浮かばないんだ。僕は高尚な芸術志向の作家ではない。大衆作家だ。金のためなら今時のはやりに合わせた軽妙な小説だって書くし、エログロだってお手のものだった。なのに、書けないんだ」


 窓際に寄せられた文机には事実、まっ白な原稿用紙が埃を被って放棄されていた。

 彼は二十代でそれほどメジャーではない文学新人賞を受賞し、それから十年余、爆発的に売れたことはないが、廃業を考えたこともなく、不定期的に作品を世に送り出してきた。その間、一時的にアイデアが枯渇することは何度もあったが、好きな本や漫画を読んで、映画でも観て、美術展に通うなどすれば、干上がった井戸に水が染み出てくるが如く創作意欲がわいてきた。しかし今回ばかりは何をやっても、二度と書けないような気がする、と彼は笑った。


 そう、彼は笑った。


 狂気が宿っていたとか虚ろな瞳にすでに死の影が見えたとかそんなことは微塵もなく、ただおはぎを頬張りながら、ほほえんだ。

 それほど深刻な状況にあるとは思えなかったものの、さりとてそのうち書けるようになるさなどという無責任なを口にする気にもなれず、スランプの原因に心当たりはあるのか、ときいてみた。彼は、恐らく彼自身も自分に問うてみたのだろう、案外すんなりと答えた。


「多分、人を殺したせいではないかと思う」


 だが、それは夢の中での話だ、と彼はすぐに付け足した。彼の夢というのは、こうだった。



 彼は急な木造階段を上りきったところに立っている。その階段は、彼が子供の頃に両親と住んでいた古い借家のそれだ。二階には彼の子供部屋があった。

 だが、階段の一番上に立って見下ろしている彼は、大人である。それ故、視点は実際に住んでいた子供の時分より高い。

 彼は、階段を上りきった一番高い位置から、頭を下にして落ちていく男を見降ろしている。

 その男は、彼が突き落としたのだった。

 音もなく落下していく男を見下ろしながら、あのように頭を下にして階段から落ちたら、確実に首の骨を折って死ぬだろうと彼は考え、下っ腹が冷や冷やする感覚を味わうが、男を死に至らしめることになった自らの行為には、微塵の後悔もなかった。



「で、その男は死んだんだな。君の夢の中で」

「いや、階段の一番下に居た人が、うまい具合に彼の頭を受け止めてくれたので、死ななかった」


 では殺していないではないか、とわたしは指摘したが、彼は首を振りながら、男は静かな怒りを秘めた面持ちで上に立つ彼を睨みつけながら、階段を上って来たので、ああ、この男に殺される、と夢の中で確信したのだ、と言った。


「で、君は殺されたのか?」

「いや、夢の中だからか体が動かず硬直していたが、男が階段の真ん中辺まで上って来たところで目が覚めた」


 ならば、彼は誰も殺していないし、殺されてもいない。しかも、それは夢の中でのできごとだ。

 わたしからの指摘を受け、彼は「それはそうなんだが」と少し困惑したような笑みを浮かべたまま言う。


「でも、殺してしまった、と目が覚めた瞬間に思ったんだ。怖かったよ。それとほぼ同時に、ああ、僕は殺されたんだなって」


 そしてその夢を見て以来、書けなくなったのだ、と。全く要領を得ない話だが、まあ夢に整合性を求める方が間違いだろう。その夢を見たのは一度きり、男の顔には全く見覚えがないという。わけのわからない不穏な夢を見て、何か隠された意味でもあるのかとずっと心にひっかかっており、それを創作意欲が突然消滅したことの理由にこじつけている、冷静に分析すれば、そういうことになろう。

 結局、「まあそのうち書けるようになるさ」とありきたりかつ無責任に慰めて、わたしは彼の住まいを後にした。


 彼がアパートの階段から転落して亡くなったのは、それから三ヶ月後のことである。

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