第32話:古市遊郭
「お嬢様、あい様を古市遊郭に呼びたいという愚か者がいるのですが、どのようにいたしましょうか?」
もう直ぐ暖簾分けして自分の御師宿を持つ筆頭番頭の角兵衛が、怒りをにじませる口調で優子に報告している。
「そのような愚かな事を言いだすのは何処のどなたですか?」
「それは……」
角兵衛が口にしたのは、西国の某藩主だった。
伊勢山田にまで暗愚という評判が聞こえてくる馬鹿殿だ。
「事が大きくなって藩がお取り潰しにでもなれば、路頭に迷う藩士が多数出てしまうのでしょうが、お伊勢様の権威を地に落とすわけにはいきませんね」
「藩士の方々には不運でしょうが、お伊勢様の評判には代えられません。
ここは直ぐにお奉行所に訴え出るべきでございます」
「そうですね、訴え出ておいた方がいいでしょうね。
乱心しているとしか思えない藩主を野放しにして、好き放題させているような家臣の中には、藩主の命令と偽って、悪事を働いている者もいるでしょう」
「確かに、その恐れもございます」
「一番恐ろしいのは、断った事を逆恨みして、あいを襲う事です。
そんな事になれば、藩は確実にお取り潰しになるでしょう。
それくらいなら、先にお奉行様に叱って頂いた方がいいでしょう」
「はい、私もそう思います。
直ぐに使いの者を奉行所に送ります」
優子はそう言いながらも、全てを伊勢山田奉行所に任せる気がなかった。
まだ恋も知らず、潔癖な所のある優子は、女を力尽くで手に入れようとする者を毛嫌いしていたのだ。
何時でも神罰と偽って叩き潰せるように、手の空いている強力な式神を、古市遊郭にいるという馬鹿殿に送った。
古市遊郭とは、参宮街道の途中、外宮と内宮の中間にある楠部郷の、水利が悪い古市丘陵に築かれた悪所だ。
悪い遊びができる妓楼が70軒も建ち並び、抱えている遊女は1000人を超え、浄瑠璃小屋が5軒もあるのだ。
その繁栄は、地元の人間からは江戸の吉原と京都の島原と並び称される三大遊廓だと言われたり、大阪の新町と長崎の丸山を加えて五大遊廓だと呼ばれたりしている。
外宮と内宮の両門前町と御師宿に芸を披露に行く乞胸達は、どうしても前を通る事になるのだが、複雑な心境を持っていた。
特に女の乞胸達、生きていくために遊女と同じように色を売った事がある者も結構いて、今の幸せな状態と比べて、今も色を売っている遊女の事を思うと、どう表現すればいいのか困る心情になる事があった。
同情する気持ちもあれば、芸がないからだと上から見てしまう気持ちもあれば、優子の気持ち1つで又色を売らなければいけなくなるかもしれない恐れもあった。
「おのれ、余を誰だと思っている?!
たかが遠国奉行の分際で、このような手紙を寄こしおって!」
あいを古市遊郭に呼び出そうとした馬鹿殿が、伊勢山田奉行から諫言する手紙を送られ、怒り狂っていた。
手近にある物を手あたり次第投げて怒りを表現していた。
「殿、お怒りはごもっともなれど、依田殿は役目柄仕方なく手紙を送ってきたのでございます。
それよりは、殿の申しつけに従わず、依田殿に訴え出たあい言う巫女に思い知らせるべきでございましょう」
暗愚の殿を煽り好き勝手している悪臣が、流石に幕府の奉行を相手にするわけにはいかないと、馬鹿殿の怒りの矛先をあいに向けようとした。
「さようか、だったらその方があいという者に思い知らせて参れ」
馬鹿殿らしく、簡単に悪臣の誘導に乗ってしまう。
「はっ、主命必ず果たして御覧に入れます」
悪臣は殿からの主命を貰って内心笑いが止まらない心境だった。
悪臣には最初から策略があったのだ。
主君を自分の都合で操り利を得るような悪臣だ。
あいの神託にも何か仕掛けがあると考えていた。
その方法を手に入れるか、あい自体を手に入れれば、とてつもない権力と莫大な富を手に入れられると考えていたのだ。
その策略を実行するのに、主名という大義名分が必要だった。
同行している藩士全員を自分の手足として働かせるには、主命が必要だった。
「どけ、どけ、どれ、邪魔する者は斬って捨てるぞ!」
「「「「「きゃあああああ!」」」」」
主命という名目の悪臣の命令を受けた藩士達が、古市遊郭の備前屋から飛び出して外宮に向かった。
普段は外宮の中にある巫女館にいるというあいを引っ捕らえてくるためだ。
普通の頭があるのなら、お伊勢様の神域に刀を抜いて押し入れば、藩が取り潰しになる事くらいは分かる。
最低でも自分が腹を切り家族が路頭に迷う事くらいは分かる。
今外宮に向かっている藩士達がそんな事も分からない馬鹿かといえば、そうではなく、自分達と藩の運命くらい分かっている。
分かっていてやっているのだ。
何故なら、主命に逆らっても上意討ちで斬り殺され、家族が路頭に迷うのだ。
以前は諌死するような忠臣もいたが、家を潰されて無駄死になっただけだ。
諫言しても従っても死ぬだけならば、好き勝手やって死ぬだけだ。
そう思い定めて藩主や悪臣の命令通りしているのが、今藩士の側近として藩内で好き勝手している連中なのだ。
「馬鹿殿の命に従った連中が、外宮に向かっている。
何なら喰ってやろうか?」
優子はこの事態に、最強式神の一角である酒吞童子を古市遊郭に送っていた。
少しでも油断すると、人間を食べてしまおうとする酒吞童子は、優子も滅多な事では使わないのだが、今回はよほど危機感を持っていたのだろう。
藩を潰させないためには、お伊勢様の神域で刀を抜かせるわけにはいかない。
これまでのように、表立って罰を与える訳にもいかない。
1つの方法は、酒呑童子に食べさせてしまう事だ。
遺体も残らなければ証拠も残らない。
だが、人として鬼に人を喰わせる事は、優子としても決断できなかった。
もう1つの方法は、喰わせないが、跡形もなく殺してしまう事だ。
人目のない所で殺してしまい、山中奥深くに埋めてしまうか、沖合遠くに捨てて深い海に沈めてしまうかだった。
そのどちらにするか優子が迷っていると、何処からともなく声が聞こえてきた。
その声を聞いて、最強式神の一角である酒呑童子が緊張していた。
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。
随分と困っているようだな、優子。
何ならわしが手を貸してやろうか?」
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