伊勢神宮外宮 御師宿 檜垣屋
克全
第1話:お嬢さん
「お嬢さん、大変です。
表に行き倒れがでました!」
誰も近づかないように命じて、茶室で式神に指示を出していた優子の元に、御師宿の丁稚が大声を出しながら近づいてきた。
「わかりました。
直ぐに行きますから、行き倒れた方を介抱していなさい」
「はい、お嬢さん」
優子は手早く式神に指示を出し直すと、茶室を出て宿の前に急いだ。
丁稚を信用していない訳ではないが、まだ年端もいかない子供なのだ。
指示の本当の意味が理解できず、間違った行動をする事はよくある。
また、御師宿一番地位の低いのが丁稚だ。
大番頭や手代といった他の上位者に邪魔される可能性もある。
「お嬢様がなんと言われようと、こんな汚い奴を介抱などできるか!
ちっ、事もあろうに御師宿の前で倒れるなんて、信心が足りなさ過ぎる。
こんなお天道様が高い時間だと、他の宿に押し付ける事もできない。
さっさと死んでくれればいいものを、まだ息をしてやがる」
美しい顔をしているが、酷薄な性格だと陰で噂されている、手代の巳之助が唾でも吐きかけんばかりの勢いで行き倒れの参拝者を罵っていた。
バッチィーン
「出てお行き!
ここはお伊勢さまを参拝される方々のお世話をする御師宿だよ。
その参拝者を罵るような性根の腐った奴を働かせるわけにはいかないよ」
手代の巳之助の頬を思いっきり張った優子は、そのまま店を出て行き倒れている参拝者の状態を確認していた。
手に柄杓を握りしめているから、宿の者は参拝者と判断したのだろう。
「な?!
商売の事も御師宿の事も碌に知らないお嬢さんに言われる筋合いではありません」
当の巳之助は、宿のお嬢さんに頬を張られたにもかかわらず、全く反省する事なく悪態をつくのだった。
「お黙り、巳之助!
お前はおっかさんに気に入られて図に乗っているようだけれど、私はお前のような人間に参拝者さんの世話をさせる気にはならないね!」
そこまで言った優子は、誰にも聞こえない、囁くような声で祝詞を唱え、回復術に優れた式神を呼び出して行き倒れが死なないようにした。
「それとも何かい?
お前には奉公先の娘である私の言う事を無視できるだけの何かがあるのかい?
もしかして、お前はおっかんさんと臭い仲なのかい?
姦通罪は死罪と知っているのでしょうね?!
まして相手は奉公先の主人の妻ですよ!」
行き倒れへの対応を終えた優子は、これまで腹の中に溜め込んでいた、巳之助と母に対する行き場のなかった怒りを叩きつけた。
「なっ、濡れ衣でございます!
私の事を妬んだ者達があらぬ噂を広めているだけでございます」
「角兵衛さん、この子を客間に寝かせてあげて。
私はおっかさんと巳之助の事をとことん問い詰めるから」
「その必要はありませんよ、お優。
貴女は私がお腹を痛めた娘なのに、私を疑うのかい?!」
「口で何を言っても関係ありません、おっかさん。
人の信用は実際にやっている事で決まるのです。
今までおっかさんが言っていた事とやってきた事が今の信用ですわ」
「……だったら信用してもらえるのではなくて?」
「どこがですか?
おっかさんにだけ媚び諂って、宿の亭主である父上にも番頭さん達にも逆らう男前の手代を依怙贔屓する、盛りのついた雌猫のような者を信用できる訳ないでしょう」
「優子!
実に母親に対して盛りのついた雌猫とは何て言い草だい!」
「私はおっかさんの言動を正確に例えただけですわ。
気がついていないのは当人達とお人好しの父上だけ。
宿の者達は勿論、他の御師宿で噂されている事も御存じなかったのですか?」
「きぃいいいいい!
どうやら私は娘の育て方を間違えたようだね!」
「それは宮後屋のお爺様とお婆様の事でしょうか?
宮後屋の方にも噂は伝わっているはずです。
近々宮後屋の方から家に帰って来いと言う話が来るのではありませんか?」
「お黙り!
檜垣屋の女将はあんたでは無く私だよ!
誰が何と言おうが、私は檜垣屋を出て行かないからね!」
「それで、これまで通り巳之助を布団に引っ張り込むのですか、おっかさん?」
「私は今まで一度だってそんなふしだらな事をした覚えはないよ!」
「私に逆らい、筆頭番頭さんを初めとして、長年宿に貢献してきた先達を蔑ろにするような、顔の好い巳之助を依怙贔屓していて、よくそんな事を口にできますね」
「ふん!
そこまで言うのなら私が依怙贔屓していない所を見せてあげるわ!
巳之助、お前は私の娘を指示に従わずに蔑ろにした。
御師宿に奉公しているにも拘らず、行き倒れした参拝者を見殺しにしようとした。
長年宿に貢献してきた番頭達の指示に従わなかった。
以上の理由で暇を出します。
もう二度と宿の敷居を跨がないように」
「そんな?!
殺生でございます。
ずっと女将さんのために奉公させていただいてきましたのに!」
「お黙り!
私はお前に特別な奉公をさせた覚えなど一度もありません!
思い上がりもたいがいにしなさい!
お前はこの檜垣屋に奉公したのです!
それを勘違いして思い上がったから、暇を出される事になったのです!」
女将の鈴は巳之助が余計なことを口走らないように睨みつけていた。
一方の巳之助は、熱の籠った眼で一心に鈴を見つめていた。
優子はその2人を冷徹な目で見ていた。
「角兵衛さん。
貴男も巳之助には思う所が色々とあったでしょう。
巳之助の荷物を片付けて宿の前に放り出しなさい。
それでも愚図愚図するようなら、叩きのめして放り出しなさい。
他の者も色々と思う所あったでしょうから、手伝ってもいいのですよ」
「「「「「はい」」」」」
「ひぃいいいいい」
女将に気に入られて傍若無人に振舞う巳之助は、宿に奉公する全員から蛇蝎のように忌み嫌われていた。
その事を知っている巳之助は、これ以上ここにいたら袋叩きに合うと分かり、女と見紛うほどの美しい顔を恐怖に引き攣らせていた。
「私はこの子を客間に連れて行きます」
まだ華奢な体の優子が行き倒れの参拝者を助け起こそうとする。
行き倒れの体は旅の垢と埃にまみれ、近づくと臭いそうなくらいだった。
宿を正してくれたお嬢さんに、そんな事をさせる訳にはいかない。
「そのような事は私達奉公人がさせて頂きます!
お嬢様は中断された書写をお続けください。
何を愚図愚図しているのですか?!」
筆頭番頭の角兵衛の指示を受けて、上は二番番頭から下は奉公に上がったばかりの10歳の丁稚まで、大慌てで行き倒れを助け起こそうと通りに出てきた。
「そう言ってくれるのでしたら、私は祝詞の書写を続けさせてもらいます。
この子が気づいたら、直ぐに知らせを寄こしてちょうだい。
角兵衛さんのことだから、手抜かりはないと思いますが、気を失っている間も水を飲ませてあげてちょうだいね」
「お任せください、お嬢様。
私も長年御師宿で奉公させて頂いております。
行き倒れになられた方のお世話には慣れております」
「ええ、分かっていますよ。
後はお任せします」
「はい、お嬢様」
優子は筆頭番頭以下の奉公人達を信じて奥に戻って行った。
祝詞の書写を行うと言って籠っていた茶室に戻ったのだ。
「おっかさんと巳之助の目が気になります。
私を逆恨みして襲ってくるのなら返り討ちにしてやりますが、父上やお爺様を狙ってきたら大変です。
護衛の式神を増やしておいてください」
「富徳様には富徳様の式神がついております。
我々が余計な事をしたら逆に邪魔になってしまいます。
式神の守りがない得壱様に多めの式神をつけておきます」
「父上には陰陽師の才がないですからね……
おっかさんと巳之助を見張る式神を多めにつけてください。
動く気配が見えたら、先に叩き潰してやりたいです」
「承りました。
手の空いている式神を多めに送っておきます」
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