遊びの時間

さら・むいみ

プロロ-グ


 閑静な高級住宅街の路上に、20代前半の青年・間宮健吾は、1人で立ち尽くしていた。休日の昼下がり、晴天に近い空模様の下、多くの家庭がどこかへ出かけているのだろうか、都会の喧騒といったものから解き放たれ、切り離されたような静けさ。そんな心地よさが、ここにはある。健吾は大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。自分の中に潜む毒気を、一緒に吐き出してしまおうかというように。



 そこで健吾の前に、一匹の子犬が、ハァハァと息を切らしながら走り寄って来た。フワフワとした毛並みの、白いポメラニアンと思われる子犬を、健吾はウットリとしたような目で見つめ、腰をかがめてその子犬に話しかけた。


「こんなとこでどうしたんだい、子犬ちゃん。飼い主さんは、どこか行っちゃったのかな?」


 人懐こい子犬は、健吾の足元に近づいて、まるで警戒する素振りも見せず、嬉しそうに尻尾を振っている。きっとこのご近所にある、「いいご家庭」で飼われてる犬なんだろうなと、健吾は想像を膨らませた。そのご家庭では、この子犬に象徴されるように、何かに怯え、警戒しながら、ビクビクと暮らしていく必要などない。それはきっと、とても幸せなことなんだ。それが永遠に、続いていくのであれば。



 健吾は子犬の小さな頭に手のひらを乗せ、その感触を味わうと共に、手の中にスッポリと収まった子犬の頭部を、「ぎゅっ」と握り潰してしまいたい衝動に駆られた。自分の手の中で、圧縮されひしゃげていく子犬の顔を想像して、健吾は更にウットリとした気持ちになった。だが、それはあくまで想像の域に留め、健吾は「よしよし」と、子犬の頭を撫でた。可愛いなあ、お前は。その命の儚さが、たまらなく可愛い……。



「そのワンコの首を、絞め始めるのかと思ったよ」


 健吾の背後から、友人の田口一朗がそう声をかけてきた。「お前なら、やりかねないからな」そう言って笑う一朗に、健吾は「まさか、そんな」と答え、子犬を両手で抱き上げた。


「そんなことしないさ。そんな、勿体ない……」


 そう言いかけたところで、子犬を追って来たのか、通りの向こうから幼い少女が走って来た。小学生低学年くらいだろうか、短いスカートを気にもせず走る姿に、健吾は密かなときめきを覚えていた。


 少女は健吾が子犬を抱きあげているのを見て、健吾の前で足を止め、「はあ、はあ」と息を突いている。子犬同様、少女からも健吾を警戒するような素振りは伺えなかった。さっき、少しも毒気を吐き出しておいたのが良かったのかなと、健吾はぼんやりと考えていた。


「この子犬は、お嬢ちゃんのかい?」


 少女が、抱き上げられた子犬をじっと見つめているのを受けて、健吾がそう問いかけると。少女は少し恥ずかしそうに、「こくり」と頷いた。警戒するよりも前に、スラリと背が髙く「イケメン」とも言える端正な顔立ちの健吾を前にして、少女は照れているようにも思えた。……まだ生理も始まってないだろうに、こういうところはちゃんと「女」なんだな。胸の中で、ありとあらゆる妄想が駆け巡る中、健吾はそれをおくびにも出さず、少女に「はい」と子犬を渡した。


「ありがとう!」


 少女は子犬を抱え、嬉しそうに走り去っていった。犬と一緒に散歩をしようとして、どこかでうっかりリードの紐を離してしまったのだろうか。が子犬を捕まえてくれて、良かったね、お嬢ちゃん。健吾は走り去る少女の後ろ姿に、「バイバイ」と小さく手を振った。



「なんだ、いい奴だなあ、お前。そうやって、とのバランスを取ってるのか?」


 健吾の横に歩み寄って来た一朗が、不思議そうにそう呟いた。……バランス、か。確かにね。でもたぶん、どちらも「本当の俺」なんだろうなあ……。



「何言ってんだ。いくぞ」


 健吾は、ふと頭をよぎったそんな考えに区切りを付け、一朗に語りかけた。ここからは、一朗が言うところの「普段の俺」ってわけか。まあ、他人から見ればそういう風に見えるんだろうな……。



 走り去った少女の後ろ姿を、咀嚼するかのようにいとおしそうに思い出しながら。健吾は、「これからのこと」について、改めて神経を集中し始めていた。 



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