獣王の婚活
東方博
第1話おめでとう、死にぞこない
さわやかな風が紫色の髪を優しく撫でた。草や土の臭いが混じった風だ。故郷の海のそれとは似て非なる風だが、これはこれで悪くはない。
ルビセルは空を仰ぎ、太陽の眩しさに目を細めた。千尋(せんじん)の森は雲一つない晴天だった。梢の葉が揺れる音に混じって小鳥の囀りが聞こえ、とても穏やかな風情だ――地に目を向けさえしなければ。
「君さあ」ルビセルは肩をすくめた「何がしたいの?」
足元に転がっているのは獣人の子どもだった。豊かな黒髪。紅玉のように赤い目。凛々しい顔立ちを苦痛に歪めている。頭頂に生えている耳と脚の間から覗いている尻尾から察するに狼族だろう。
「威勢よく飛び出てきたから、期待しちゃったじゃないか。なのに蹴っ飛ばされておしまいだなんて、興醒めもいいところだ」
切れ長の目、すらりとした鼻梁に細い顎。女性と見紛うほどの美貌のルビセルはしかし、れっきとした男だった――この場合は雄と言うべきか。ルビセルは水妖だった。地上では人間の姿をしてはいるが、ひとたび海に入れば脚は尾ビレとなる。
微かな呻き声がルビセルの鼓膜を揺らした。獣人の子どもの口から発せられている。こちらを睨む眼光は鋭かった。歳は十かそこらだろうに、圧倒的な力の差を見せつけられても、戦意は折れていないようだ。大した気骨だ。
身じろぐ子どもの腹を踏みつけた。踵で傷口を軽く抉ってやると子どもは喘いだ。さらに脚に力を入れようとした折、背後から怒声が飛ぶ。
「ルビセル、余計な真似を!」
振り返ると、怒りを露わにした同胞が鼻息も荒くこちらに迫っていた。ルビセルは愛想良く応じてやった。
「やあ、ご苦労様。精が出るね」
「狼族(ろうぞく)殲滅は私の任だぞ。それを何故貴様が」
「様子を見にきただけだよ」
ルビセルは自身の髪をかき上げた。ヒレのついた特徴的な耳を指でなぞる。人間としか思えない外見で唯一の水妖らしい部分だった。
「別に君の手柄を横取りしようだなんて思っちゃいないさ。それよりもさっきの寵姫はどうしたんだい?」
「あんなもの、私の敵ではない」
同胞は息巻いた。途端、ルビセルの足元の子どもが身じろぐ。
「獣王の寵姫だと言うからどれほどの者かと思えば……手応えがなさ過ぎだ。地上最強の種族が聞いて呆れる」
荒い息に唸り声が混じる。寵姫を侮辱したのがお気に召さなかったらしい。ルビセルは脚に力を入れた。踏み潰すくらいの力で押さえられ、さしもの獣人の子も悲鳴をあげた。
「殺さないのか?」
「遊び終わったらね」怪訝な声での問いかけに、ルビセルは即答した「生かしておく理由はない」
水妖族で最も残忍で冷酷と名高いだけあって、ルビセルの言葉を、同胞は疑いはしなかった。そもそも水妖と獣人はお互いに憎み合っている。幼いとはいえ、獣人に掛ける慈悲などありはしない。
「私は女王陛下にご報告を」
「どうぞご自由に。僕は残り物を始末しておくよ」
同胞の気配が消える。宣言通り海へと帰ったのだ。我らが女王に戦果を報告するために。
実にくだらないことだとルビセルは思う。水妖が獣人よりも優れているのは自明の理。言うなれば猟犬が兎を獲るようなものだ。勝って当然の襲撃に成功したことを意気揚々と報告すれば、自分はその程度だと矮小さを露呈することになる。
他人に取られる心配は杞憂だ。奪い取る価値すらない、ちっぽけな戦果なのだから。
「さて、どうしよう」
ルビセルは口元に指を当てた。
「このまま君を踏み潰すくらいわけないんだ。族長や寵姫ならまだしも、ただの子どもだもんね。さっきも言った通り、生かしておく理由もないし」
蹴った時に肋骨の数本は折れている。先ほどから執拗に踏みつけている腹からも出血。すり傷や切り傷といった細かい傷を入れたらそれこそ数えきれない。しかし、痛みよりも怒りが優っている子どもは、牙を剥き出しにして威嚇した。
「でも、困ったね」
いじめがいのある子だ。ひと息で殺すのはつまらない。かといってただ身体を痛めつけるだけでは、芸がないし面白くもない。そんなことで折れるほど獣人族はヤワではないとルビセルは知っていた。
「今ここで君まで殺したら、一体誰がこの顛末(てんまつ)を君たちの王様に報告してくれるのかな?」
ルビセルは子どもの胸ぐらを掴んだ。小さな身体を自分の顔に寄せて、ささやく。
「獣王の片翼を担う狼族が、たった一人の水妖によって滅ぼされた。この失態を伝える役が必要だ」
紅玉のような目がまん丸になる。ルビセルの言っている意味を、子どもは理解しかねていた。
「僕ね、君が気に入っちゃった。殺すのはやめておくよ。だって君は『混じりもの』だろう? 獣人になりきれず、かといって水妖にも人間にもなれない。今まで散々苦労してきたはずだ。頑張る子には『死』なんかよりも、もっと素敵な物を贈らないと」
ひゅっ、と子どもの息が詰まる音がした。一目見ただけで気づかれるとは、夢にも思わなかったらしい。
あいにくルビセルは目ざとかった。本来ならば交わるはずのない異種族の交配によって生み出された『混じりもの』は、隠そうと思っても身体のどこかに特徴が現れてしまう。
「今回の襲撃で唯一の生存者が混血の子どもだなんて、他の獣人達が知ったらどう思うだろうね」
ルビセルは嗤った。これからこの子どもが味わうであろう責めや猜疑的な眼差しを想像するだけで愉しかった。
「当然、疑問に思うよね。『どうして「混じりもの」だけが生き残ったんだろう?』『もしかしたら、そいつは水妖と手を組んだ、裏切り者なのかもしれない』」
獣人族は同族に対する情が厚い。同じ部族の者を見捨てて生き延びた『混じりもの』が、どういう扱いを受けるかは、火を見るよりも明らかだ。
「存分に苦しんでおくれよ。君は自分がこの世界に生まれ落ちた日を憎み、僕に生かされた今日を恨み、明日が訪れることを絶望する。それが僕からの贈り物さ」
きっと孤独で凄惨な日々が待っている。そう、今この場で獣人族の一員として誇りを抱いて死んだ方が、ずっとマシだと思えるくらいに。
ルビセルは子どもの耳元で囁いた。優しく、ゆっくりと『毒』が侵食するのを待ってから。身体ではなく、足掻こうとする心を死に至らしめる猛毒——名もないそれを、仮に『絶望』とでも呼ぼうか。
「死にぞこなっておめでとう。最高の悪意を、呪いを込めて君に贈ろう」
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