第42話:歩幅を合わせて(2)


 昨日話し合おうなんて言ったくせに、朝起きた時には体が重たくて全てを察した。唾を嚥下するだけで喉が痛い。これをルナは一日で治したのだとすれば、流石の若さといったところだろうか。一つ咳をして、寝返りを打つとそこにはもうルナはいない。


 会社には有給の連絡を入れておくとして、風邪の準備は幸い昨日整えてある。食べ物は、少しルナに買ってきてもらおう。こういう時に誰かがいるというのは有難いかもしれない。昨日置きっぱなしにしてあった体温計を取って熱を測る。寒気もあるからまだ上がるかもしれない。体温計の音と同時に、寝室のドアが開いてルナが入ってきた。


「あ、おはようございます」

「ん……おはよ」

「あれ……もしかして、移りました?」

 

 昨日とはまるで逆で、ルナの手が私のおでこに乗る。キスすると本当に風邪が移る、そんな知見を得ながら体温計の表示を確認すれば、立派な数字に息を吐く。体感で分かってはいても、数字として見ると更に体がしんどくなっていく気がする。


「あの、ごめんなさい」

「謝るようなことじゃないでしょ」

「でも」

「いいの」

「……じゃあ今日は由紀さんの要望何でも聞きますね」

 

 そう言って撫でてくれるルナの手が気持ちいい。看病なんてしてもらったことがあるだろうか。小さい頃、もしかしたらあるかもしれないけれど生憎記憶の中には見つからない。考えるのをやめてルナを見上げる。今日くらいは甘えてしまおうか。いや、普段からなんだかんだとお世話されているから変わらない気がする。これも考えるのはやめておこう。


「とりあえず会社に電話させて」

「じゃあその間に飲み物取ってきますね」


 会社に電話をかけて、素早く要件を伝える。昨日に引き続いてだから少し心配されてしまっているけれど、仕事は大丈夫だからと言ってもらえるのはいい会社だと思う。通話を切ると、待っていたかのようにドアのノック音に続いてルナが入ってきた。


「大丈夫そうです?」

「ホワイト企業だから」

「由紀さんってどんな仕事してるのかって……聞いていいです?」


 グラスを置きながら、ルナがベッドに座る。伺うような声色は、今まで踏み込まない様にしていたのだろうか。別に答えてもいいけれど、そんなに面白みもないと思う。重たい上体を起こせば、ルナが支えるように背中に手を回してくれる。近くで見上げる顔は、やっぱりとても整っていて、不意に昨日の告白を思い出して心臓がきゅっと変に締まる。こんなにも心臓に負荷がかかっていてこれからの生活どうするのだ。視線を逸らして、一つわざと咳をしてごまかす。なんの話だったっけ。


「えっと、化学系の研究みたいなものね」

「研究者ってことです?」

「まあ」


 表情が分かりやすく驚きに変わるのを見つめる。私とは違って豊かな表情は見ているだけで楽しい。ずっと一緒に暮らしているのに飽きないのは、魔法か何かだろうか。高校の頃如何に化学が難しかったかを話すルナを見つめていると、心が落ち着く。視線に気づいてこちらを見つめ返されると、少しだけ鼓動が早くなる。


「顔洗ってくるから」

「え? あ、はい」


 誤魔化す様に離れて、付いてこようとするルナを睨んで寝室を出る。昨日の告白のせいか、こんなことばかりが続いている。これは何なのだろう。これが、そういう感情なのだろうか。


 それにしても、私が風邪を引いているからなのかいつも以上にルナが世話焼きになっている気がする。付いてきて一体どうするつもりだったのだろう。歯でも磨いてくれるのだろうか。想像するとその異様な光景に、人としての最低限は保っていかねばなるまいと決意する。

 それでも、こうやって甲斐甲斐しくお世話されるのは悪くないと思う自分がいるのだから重症かもしれない。



 気持ちさっぱりとして寝室に戻ると、ルナがベッドで大人しく待てをしていた。座った瞬間にグラスと解熱剤を渡されて、一先ず大人しく飲む。飲み終わると布団の中に転がされて、安静にしているよう言われてしまう。


「厳重体勢ね」

「さっきすごいくだらない事話しちゃったなって」

「別に気にしてないけど……勝手に落ち込まないでよ」

「白状すると、今日も由紀さんと一緒にいれるのかなとか浮かれてました。 でも、私に合わせて無理なんかしないでくださいね。 由紀さんの体調最優先でお願いします」


 随分と可愛いことを言う。

 体は重たいし、喉も痛いけれど、それ以上にルナと話している方を優先させたいと私が思うだけなのに。ベッドの隣を叩いて、ルナにここに来るように催促する。疑問と戸惑いを混ぜた様な表情で、おずおずと隣に来たルナを抱き枕にすると、気持ちよくて落ち着く。

 来たばかりの頃はこの体勢は寝辛かったのに、今ではすっかりと馴染んでしまった。


「……由紀さんの方が熱いですね」

「そうね、ちょっと気持ちいいかも」

「あはは。 眠れそうですか?」

「んー……」


 眠るには、すこしもったいない気がする。腕の中でルナが動くから手を緩めると、器用に上ってきて同じ枕に頭を乗せる。冷たい手が頬に触れて気持ちいい。頬にかかる髪を耳にかけてもらうと、なんとも気恥ずかしいような嬉しいような心地になる。

 私は先ほど随分と大胆な行動をしてしまったのではないだろうか。自ら近づくようなことをして、結果こんなことになってしまっている。


 すぐ近くで見つめられると、すっかりと心臓を高鳴らせてしまうようになった。これが何なのか、昨日の言葉が恐らくそうなのではないか。昨日のルナの言葉があったからこそこの感情が何なのか分かる気がするけれど、きっと遅かれ早かれ気づくものだったようにも思う。知らないまま生きてきただけで、疎かっただけで、きっとずっとあったのだと、そう思う。


「ねえルナ」

「なんです?」

「キスしたい?」

「え? 何言って……。 いや、なんか私声に出てました? それとも顔?」

「なるほどね」


 私も同じことを考えている。それはきっとルナと同じ気持ちだから。心の収まるべき場所に、収まったような感覚。ぴったりとはまる、ようやく見つけられた言葉。大事にしたくて、離れがたくて、近くにいると心臓がうるさくなる。思わず少し笑みが漏れると、ルナの手が滑る様に頬を撫でる。伺うような、焦らすような手つきが熱を誘う。確かに、ルナはずっとこの表情をしていた。なるほど、知れば本当によく見える。


「したいです」

「……」


 思わず体が動いた。何度も触れたことがあるその場所は、今までよりもずっと心臓をおかしくさせるようで、熱に浮かされるようだった。


「ねえ、ルナ」

「はい」

「やっぱり、今度またご両親と話すときは、私も一緒に行きたいのけど」

「え?」


 気が急いている自覚はある。なにがあってびしょ濡れで帰ってきたのかもまだ聞いていないし、次にどうするかも決まっていない。けれどもう、誰にも取られたくないのだ。せっかく見つけたただ一人の特別な人を、もうこれ以上苦しめられることも、ましてや攫われるのも嫌なのだ。


「お願い」

「……由紀さんがそんな風に強く言うの、初めて聞いたかも」


 自分の中で曲げたくない意思なんか特段無かった。自分にも、他人にも興味が薄かったから。被害さえ被らなければ基本周りの意見に合わせていればそれでよかった。けれど、ルナだけは違う。そうだ、前にもルナにだけは踏み込みたいと思ったことがある。あの時からこの気持ちはもう私の中にあったのかもしれない。


「我儘だって?」

「嬉しいですよ。 由紀さんの我儘」


 私のそんな我儘を、そう捉えてくれる彼女が愛おしい。笑ってくれるのが嬉しい。無自覚だっただけで、随分と深くまで来ていたのかもしれない。

 私は、こんなにもルナのことを好きだったのだ。


 だからこそ必ず隣に居てもらわなければ困る。笑ってくれなければ困る。そんな未来を掴むための、そのおまじないにしよう。全部解決できたときにこそ、この気持ちを言葉にして伝えよう。

 貴女とずっと一緒にいるために、私も一緒に進ませてほしい。

 一緒に頑張らせてほしい。

 


 

 

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