第315話 竜人無用

月影にため息を。

宵闇に吐息を。


夜風を吸って、潮風を吐く。

わたしは夜の仔。彷徨うだけの。


キッガは、泡の中で体をくねらせた。両手を組んで大きく伸びをする。

大きなバスタブは、二人が入っても余裕だ。湯を注いでくれる魔道具は、わずかばかりの魔力を湯船をいっぱいに満たしてくれる。


入口のドアの鍵が回る音がした。


「いらっしゃい、陛下。」

キッガは、立ち上がった。濡れたままの体に浴衣を纏う。

薄い生地の浴衣は、キッガの体にピッタリとまとわりついた。


胸の膨らみも、腰から尻にかけてラインも隠すことはない。

全裸より、かえって閃情的であった。


「ここは、二人だけよ。護衛も遠ざけてあるわ。ここで起きたことは、二人だけの秘密。」


床の上に、キッガの濡れた足跡がつく。

絨毯の上でも平気だった。


ドアがわずかに開く。


「来て、クローディア陛下。」


そのわずかに開いた隙間から、相手は体を滑らせるように中に入った。

後ろ手にドアを閉める。


キッガは、顔を顰めた。

それは、クローディアではなかった。


ガッチリとした体型は似ていなくもなかったが、体付きはひとまわり小さい。

灰色の作務衣のような衣装に身を包んでいた。

顔立ちは、照明の影になって見えない。

「誰か?」


答えはない。

キッガは、薄く笑った。


「クローディアも存外、臆病だな。あたしと一対一で対峙する度胸もないとは!」


ガリっ。

男の手のひらで固いものが擦り合わされる音がした。

見たところ、武器は帯びていない。


なにがしかの武芸の嗜みはあるのだろうが、それだけの男、だった。


キッガの笑いが濃くなった。


「殺し屋、のたぐいか。そう言えば、“仕掛け屋”が街に入り込んだと、その筋からタレコミがあったな。」


べしゃり。

たったいままで、湯船に使っていたキッガも、むろん寸鉄も帯びていない。身にまとった薄布は、なんの防御にもならぬどころか、体にまとわりついてその動きを邪魔するだけだろう。

だが。


キッガは、胸元を開いた。

柔らかな曲線を描いて揺れるものが、男の・・・リクの目をくぎ付けにした。


「名高い殺しの名手、仕掛け屋さん。あたしの側につくきはないかい?

いまなら、あたしをいくらでも好きなように出来るんだ。どうだい?」


リクの沈黙を肯定ととったのか、キッガは濡れた体を擦り寄せた。

その胸元に。

鉤爪の形をしたリクの手刀が、走った。


枯れ木の折れる音がした。

リクは、手を抑えて後退した。

一撃で、心の臓をえぐり、つかみ潰す。リクの一撃はやわらかな乳房を歪めることさえでかなったのだ。

鍛え上げた指は無惨に折れていた。


その胸で明滅する。鱗状の輝き。


竜鱗。


キッガが耳障りな笑い声をたてた。


「あたしの母親は竜人の血を引いていてね!」

上げたキッガの指は、鋭い爪と化していた。

「あの色ボケの伯爵もなんの理由もなく、娘に盗賊団をやらせた訳じゃあないんだよっ!」


振りかぶった爪の一撃は、リクの肩から胸を切り裂いた。とっさに身をひるがえしたものの、傷は浅くはなかった。


「大人しく死体になりなっ!」


爪を掻い潜り、リクは背後からキッガの首を締め上げた。

「効かないよ。」

キッガは笑う。竜鱗の防御は絞め技にも有効なのだ。

「あたしの体ってうつくしいだろ?

てめえらみたいな下賎の輩には、傷ひとつ付けられないのさ。」


「体が自慢のようだ、な。」


背後から裸絞という圧倒的に有利な体勢にありながら、その腕をキッガの腕がじりじりと押し返している。

おそらくは、竜族のもつ怪力のいったんもその身に宿しているのだろう。


「ならば、自慢の体はそのままにしておいてやる。」


リクの手刀は、キッガ背中に走った。

その背にも竜鱗が生じた。

いくら鍛錬をつんでも、ひとには貫くことはかなわない鉄壁の防御。


さすがのリクの手刀も、竜鱗に僅かに傷つけることも出来ず。やわらかな肌にもかすり傷も付けられず。


すべてを透過して、その心臓のみをつかんだ。


「は・・・?」


キッガが目を見開いた。

その目から。耳から。

血が吹き出した。


「地獄でおまえの男どもと、よろしくやるがいいさ。」


外傷もないまま、倒れたキッガの死を見届けて、リクは体を翻した。


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