第8話 交渉
男は何も言わない。
ただ少し考える仕草をしているだけだ。
『拒否されて殺されたらどうしよう……』
不安が一気に押し寄せ、嫌な汗が背中を伝う。
沈黙の時間がやけに長く感じ、思わず目を閉じる。
「その自由とは何を指して言っているんだ?」
そう問われ、とりあえず会話が続く事に安堵した私は、目を開け今回の経緯を男に話す。
現在婚約者がいるが、彼は私の従姉妹を愛している事。二人が結ばれるには私という存在が邪魔になる事。このまま愛されない結婚はしたくない事、そして私も愛し愛される存在が欲しい事を簡潔に伝えた。
私が話している最中、男は意外にもきちんと話を聞いてくれた。
貴族令嬢として無責任な考えだと自覚はあるので、もっと笑われたり呆れられるかと思ったがそんな事はなく、時々相槌も打ってくれていたので、呼び出したのは私なのに、なんだか呆気に取られてしまった。
「あの……実はもう一つお願いがあるのです。対価を支払うにあたって、二年だけ待っていただきたいのです」
最後に最も大事な事を男に伝える。
「何で二年なんだ?」
男は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「先程もお伝えしたように、私も愛する人と出会いたいのです。その為に時間が欲しいのです。もし二年経っても出会えなかったら、潔く貴方のものになります」
約束は守るという意思が少しでも伝わればといいと思い、男を見つめる。
すると男は一瞬驚いたように目を見開いたが、
「いいだろう。お前の願い、この俺が必ず叶えてやる」
そう言ってこちらに向かって手を差し出し、心底楽しそうに笑った。そのあまりにも、綺麗すぎる笑みに呼吸すら忘れ、私はしばらく男を見つめる事しか出来なかった。
そしてまだお互い名乗っていない事に気付き、私はアリアと、相手はノアと名乗った。
私は貴族の娘なので、今の婚約をなかった事にしてもすぐに父が新たな婚約者を見つけてくる可能性をノアに話した。
するとノアはいい考えがあると私に耳打ちしてくれた。
「本当にそんな事が出来るの?」
「あぁ、俺に不可能はないからな。取り敢えず、アリアそっくりの死体を用意して、貴族令嬢としてのアリアには死んでもらう。そしたら今背負っている色んな柵しがらみから解放されるし、アリアの言う『愛する人』を探す事も何の問題もないだろ?」
ノアの提案には、正直驚きの連続だった。
私そっくりの遺体を用意して、貴族令嬢から解放される……
それは凄く魅力的な提案だったが、いくつか疑問点もあった。
「あの、ノア。その私そっくりの遺体というのは、まさか他の誰かを傷つけたりするのでしょうか?出来ればそういった事は避けたいのですが……」
「あぁその点は心配ない。そっくりの人形を用意するだけだ。自死したように見えるように、ほんの少し細工すればいい」
「それなら安心しました。あの、あともう一つだけ。私、平民として暮らした事がないので自力での生活の仕方が分からないのです。どなたか平民としての生き方を教えて下さる方を紹介していただけないでしょうか?」
本当は自分が全く無知な事を人へ晒すのは消えたくなる程恥ずかしい。でも恥を忍んでお願いするとノアは、
「なんだ、そんな事か。それも心配しなくていい。俺はアリアの願いを叶える為にここにいるんだ。ここを出てからの生活は、俺が保証する」
と、とても良い笑顔でそう答えてくれた。
「ほ、本当に何から何まで……何てお礼を言ったらいいのか」
「気にするな。で、他に心配事は?あるなら今のうちに言ってくれ」
「いえ、ひとまず心配事はありません。ただ最後に、家族に手紙を書かせて欲しいのです。いいでしょうか?」
「いいんじゃないか?そういう小道具もあった方がより現実的だろ」
「ありがとうございます。では早速、自室に戻って準備を始めましょう」
そして私は全てを捨てる為に、最後の仕上げをする事にした。この人達に“愛される”という願いは最後まで叶わなかったけれど、私にとっては大切な家族だった。父に、母に手紙を書く。出来るだけ短い文でも伝わるように思いを込めた。
そして、婚約者のアイザック様とエミリーへ。これでもう2人を引き裂く邪魔者アリアはいなくなる。だから、どうか幸せになってほしい。
「出来たか」
先程までどこかへ行っていたノアが、ちょうど手紙を書き終えた頃に戻ってきた。そしてノアへ向き直り、静かに頷く。
「こっちも準備が整った。さ、行くぞ」
そう言って差し出されたノアの手に、そっと自分の手を添える。次の瞬間ノアに思いきり手を引かれ、抱き締められる形になり慌てて離れようとすると突然目の前が真っ暗になった。そう、ノアに手で目隠しをされたのだ。
「ノ、ノア!?」
思わず叫ぶと『パチンッ』という音と共に、何かに引っ張られるような、グルグルと視界が回るような感覚がした。
「?アリア、もういいぞ」
そう言われ恐る恐る目を開けると、そこは今までいた侯爵邸の自室ではなく、見た事もない部屋だった。
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