第十二章 第4話

 沙紗さしゃを初めて見たのは、わたしが梁凰りゃんおう祝言しゅうげんを上げた二月ふたつき後のことだった。

 李王朝りおうちょうから輿入こしいれした梁凰りゃんおうが侍女として連れてきた数多くの娘たちの中に、沙紗さしゃはいた。当時まだ八つかそこいらだったのではないだろうか。

 ――一目見ただけで、気付いたよ。沙紗が何者なのか。

 この国では、わたしにしか気づけぬことだ。恐らく李王りおうは、知っていて。敢えて梁凰りゃんおうの侍女として、沙紗を斎国さいこくへ送って寄越したのだろう。

 沙紗さしゃも、幼いながらに自分が何者なのかをよく理解していた。

 わたしは適当な理由をつけて沙紗を梁凰りゃんおうの元から引き離し、そうしてこの国の下級官吏の家へと養女に出した。沙紗さしゃは十八の歳に文官試験を受け。そして斎国初の女性文官として、再びわたしの元へと戻ってきてくれた。官吏となった彼女は、文字通り粉骨砕身してこの国に尽くしてくれたよ。その活躍はこの国の史書に名を残す通りだ。もちろん岩嶺がんれいの乱においても陰ながら尽力し、そしてその後もこの国の発展の大いなる一助となってくれた。

 暗雲が立ち込めたのはその頃からだ。沙紗さしゃの活躍が、梁凰りゃんおうの目に留まった。自分の連れてきた侍女ではないかと疑い始めたのだ。梁凰りゃんおう悋気りんきは底知れぬ。わたしが沙紗へ目を掛けていたことを知ると、梁凰りゃんおう沙紗さしゃを亡き者にしようと手を回し始めた。そこへ助力したのが、長子の晃朔こうさくだ。晃朔は梁凰りゃんおうが唯一偏愛へんあいした子供だ。それが全ての、歪みの始まりだったのだが……。

 わたしに尽力できたのは、沙紗さしゃの身代わりを立てるよう指示するところまで。沙紗は其方そなたの父である史晧しこうの手引きにより、その身を隠した。北へ行く、と最後に言い残したそうだ。その後の行方はようとして知れぬ。そう。史晧しこうはこの国の民で唯一、沙紗が何者か知っていた。知っていて、沙紗をめとったのだよ。

 そうして其方そなたが八歳の頃。其方そなたにはが見え始めた。年齢にそぐわぬ、その類稀たぐいまれな知識と見識のことだ。其方そなたの家庭教師となった佰依はくえは元は王族の一人でな。わたしも鶴黄かくおうも、よく見知った人物であった。佰依はくえを通じて其方そなたの様子は聞き知っておったよ。しかし本来であればその知識と共にもたらされるはずのは戻らず、其方そなたの父はその事実に安堵したとも聞いた。晃朔こうさくの策略で其方そなたへ縁談の話が持ち込まれさえしなければ……其方そなたも、この国の騒動の渦中になど、巻き込まれることはなかっただろうに。

 だが結果として其方そなたは、この国を救ってくれた。そしてそれは、かつて沙紗さしゃが予見した通りとなった。沙紗には……見えていたのだろうな、この未来が。

 晃朔こうさくは……あの子は、恐ろしい。呪われた子だ。わたしが王となるために青礼山せいらいさんへ上山した際に、神官から宣託せんたくを受けたのだ。いずれわたしの子の一人が、この国を滅ぼすことになるであろうと……。だが同時に、その未来を変えることができる人物がいる、とも言われた。そのためにわたしは鶴黄かくおう粛臣しゅくしんえた。

 鶴黄かくおうは人の心を覗き見るすべ……そう、顔相観がんそうみの力を有しておる。その力を用いて鶴黄かくおうはこの国の未来を変える為に必要な人材を、少しずつ集めてくれた。創寛そうかん夏朴かぼく其方そなたの父の史皓しこうもその一人だ。そう、之水府しすいふで起こった件を万事うまく納めるためには、史晧しこうの藩主としての立場が必要だった。そしてようやく……わたしはこの国の王として……為すべきことを、為せた。

 莉恩りおん其方そなたのおかげだ。礼を言おう。

 そう、だな。そろそろ、其方そなたの本当の名を、呼ばねばならぬ。

 わかっていよう……其方そなたのような若者に背負わせるには、この世界のことわりはあまりに辛過ぎる。

 だが、耐えてくれ。そしてこの国の。いや、この世界の……いしずえとなっては、くれまいか。


「――――了王りょうおう、よ」


 呼ばれて、莉恩りおんは小さく「はい」と答える。

「……確かに、承りました。斎明院王さいめいいんおう


 かつて北の大地に、りょうと呼ばれる大国があった。この世界で、神から最初に与えられた国だ。

 王には、神から国と同時に与えられたものがある。

 それは――神の、叡智えいち

 かつて神が彼の地よりこの世界へ到来し、そうしてこの世界を創造した際の御業みわざ

 膨大ぼうだいな、創世の智慧ちえ

 その知識は、王から王へと。脈々と引き継がれてきた。

 ……それまで王であった者の、記憶と共に。

 王に、「個」は存在しない。

 なぜなら、王とは。

 神からたまわったこ世界の原理を引き継ぐための、器だから。

 だから本来であれば。莉恩りおんの母である沙紗さしゃが死んだ時点で、莉恩りおんには了王が持つべき知識と記憶の両方が引き継がれる筈だった。

 けれど莉恩に、記憶は蘇らなかった。そうして今も、全てを思い出したわけではない。在るのはただ、膨大なまでの神の叡智えいち。その用途を理解し、使役するための記憶は、どこかに失われたまま取り戻せてはいない。

「かつて……」

 莉恩りおんは、ごく控えめに。口を開く。明院王めいいんおうが僅かに目元をだけ動かし、話の先を促した。

「かつて……了王は、重篤じゅうとくな罪を犯しました。そのために、神は了国を見放された。北の神山は突如火を噴き、紅蓮ぐれんの激流に呑まれた了国は一夜にして消失。しかしその難を逃れた王族の一人が隣国李王朝りおうちょうへと渡り、王の血脈を残しました。……その末裔まつえいが、母です。母は……かつての了王が犯した罪を償い。失われた了国の民への贖罪しょくざいとして、斎国さいこくの民を一人でも多く救おうとしたのでしょう。母が。一体どれだけの民を救ったのか、正確にはわかりません。ですが……母はその事績じせきを以て、神へ上申しようとしたのだと思います」

 ――いつか了王の記憶と知識を引くことになるであろう、莉恩に。かつての了王が犯した罪責ざいせきまでをも、背負わせないために。

 斎国さいこくの遥か北方。大陸の北にある、元はりょう国であった大地へと向かった母。

 そして彼女は……恐らくそこで、命を落とした。

 ――今、莉恩に。

 王としての記憶が戻らないことは。

 了王の罪をつぐなえたから、なのか。

 それとも。

 神の更なる怒りを買ったため、なのか。

「私には……もう。守るべき民も、国も。ありはしません。ですが……」

 そうして莉恩りおんは、すうと息を吸い込んだ。真っ直ぐに、明院王めいいんおうの瞳を見つめる。王の瞳は死の影に追われながら、それでも尚どこまでも深い慈愛に満ち溢れていた。

「この世界に生きる人達、皆が幸せでいてほしいと。そう、願わずにはいられないのは……これは……」

 明院王めいいんおうは、ふと笑ったようだった。吐息が漏れるような、ごく浅い息がその口から吐き出される。


「それが……王のさがというものだよ。其方そなたはもう、立派な王であるな。……莉恩りおんよ」

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