第十章

第十章 第1話

「…………大丈夫?」

 しばたたかせるようにして目を開けた漣壽れんじゅへ、莉恩りおんは遠慮がちに声をかける。身を起こそうとした漣壽は、頭を持ち上げたところで小さく呻いた。首の後ろを押さえ、慌てて頭を下げる。

「……ここは?」

 痛みをこらえつつ、漣壽が尋ねる。莉恩はため息と共に首を横に振った。

 今度は慎重に身を起こした漣壽は、首の後ろを押さえたままゆっくりと立ち上がる。ぐるりと周囲を見回し。

「波の音が聞こえるな。湾からそう遠くない場所か……」

 地下牢と思われる場所に、二人は閉じ込められていた。部屋の壁から壁の距離は莉恩の足でほんの五歩程度。室内を囲む三面は頑丈な石造りで、正面には太い鉄格子が取り付けられている。

 幾分明るいのは、鉄格子の外の随分遠くに取り付けられた松明たいまつの明りで、その先は上り階段になっているようだった。

 牢の中の高い位置にも小さな四角い穴が一つあった。通風孔のようで、そこからしんと冷たい冬の夜気が流れ込んでくる。取り付け位置もかなり高く、穴もかなり小さいが、そこにも頑丈な鉄格子がはまっていた。

 漣壽が通風孔へ向けて顎を持ち上げた。匂いを嗅ぐようにして、その先にある何かの気配を探る。

延郭区えんかくくは五十年程前に移転したが、旧建屋は現在の延郭区よりも湾に近い場所にあったと聞いたことがある。もしかしたらここは、その跡地かもしれないな」

 火の気のない室内は海からの湿気を含んだ冷気が立ち込め、二人の気力と体力を容赦なく奪った。

「莉恩は? 怪我はないかい?」

「うん。……私は、大丈夫」

 壁に寄りかかり膝を抱えたまま答えた莉恩に、漣壽は隣に座ると「おいで」とその肩を抱き寄せた。

「寒いだろう。こうしていれば、少しは紛れる」

 漣壽と触れ合った部分から、じんわりと熱が伝わってくる。そうして二人で石壁に背を預け、寄り添って座りながら。莉恩は見るともなしに鉄格子の先に揺らめく松明の明かりを眺めていた。

「……ねえ。私たち、どうなるのかな」

 死、を。はっきりと覚悟したのは。

 これで何度目だろうか。

 死ぬことは、やはり怖い。この先に起こることを想像すると、恐怖で手足の先が冷たくなっていく。

 何か、考えを巡らせるように。吐き出される漣壽の吐息。しかし彼の口からはそれ以上、何の言葉も出てこなかった。

 彼は優しい。だが決して、気休めの言葉を吐いたりはしない。恐らくは……。莉恩と同じ予感を持っているのだろう。

 代わりに漣壽は。莉恩の不安を全て引き受けるように、黙って莉恩の頭を自身の胸の中へと引き寄せ包み込んだ。そのまま優しい手つきで莉恩の頭をそっと撫でる。

「本当のことを、言うと……ね」

「……ん?」

 莉恩は抱き締められた漣壽の胸の中で小さく呟く。

「私。本当はあの日、漣壽と離れたくなかった。ずっとそばに居て欲しいって、そう言いたくて。でも、あの時の私には。その言葉すら言えなくて……。それがずっと、苦しかった……」

 不思議と言葉は、するすると零れ出た。あの日言いたくても言えず、胸の内に閉じ込めた漣壽への想い。それを今。皮肉にもこんな状況になってようやく伝えることができるなんて。

 莉恩の頭を撫でていた漣壽の手が、不意に止まったのはその時だ。そのまま暫く何の反応もないので、莉恩は気まずさにゆっくりと顔を持ち上げる。

 漣壽はどこか物思いに耽るように。ぼんやりと、くうの一点を見つめていた。

 漣壽は莉恩の向ける視線に気付くと、ゆっくりと視線を向ける。どこか、戸惑いの混じる笑みを浮かべて。

「莉恩。いつか、うたを送ったのを覚えている?」

「蝶の、詠のこと?」

 それは莉恩が文官として王都で働くようになって、間もなくの頃のこと。

 漣壽から贈られた文。そこに記されていたのは、ただ一篇の詠だけだった。

 ――あの、詠の真意を。

 莉恩は今でも、わからずにいる。

「あの日。わたしも、莉恩を郷里に残して旅立たなければならないことがひどく心残りだった。その後、莉恩が文官になったと聞いてひどく驚いたよ。けれど、莉恩がどこにいようと。何をしていようと。心は常に莉恩の傍にあると……。そう、伝えたかったのだけれど」

 そこまでを一息のうちに語った漣壽は。そこで、ひとつ。息を吸って。

「文官へ詠を贈るなんて。今考えれば、ずいぶんと恥ずかしいことをしたものだ。あんな詠ひとつでうまく、この気持ちが伝わる筈もないのに」

 ――それは、どういう……。

 尋ねようと口を開きかけ。しかし結局、莉恩は問うことをやめた。

 代わりに莉恩は、視線は足元へと向けたままに。黙って右手を漣壽へと差し出す。

 漣壽も無言で左手を伸ばし、そうして莉恩の掌にその手を重ねた。そのままそっと優しく、莉恩の手を握りしめてくれる。莉恩もその手を、同じように握り返した。

「……最期に傍にいてくれたのが、漣壽で。本当に良かった」

 莉恩がずっと欲しかったものは。

 たぶん、言葉などではない。

 莉恩はそっと、漣壽の肩へ額を預けた。目を閉じると、聞こえるのはどこか遠くで響く波の音と。漣壽の穏やかな息遣い。

 自分はこれから、死に向かう。なのに不思議と、心はどこまでも凪いでいた。

「……莉恩」

 漣壽の澄んだ声が、そっと莉恩の名を呼ぶ。莉恩がゆっくりと漣壽へ視線を向けると。冬の夜の冷気にひとつ、漣壽の白い息が上がった。

「……こんなところで、終わらせたりしないよ」

 どこか。自分に言い聞かせるような強さでそう告げて。

 そうして漣壽は。自身の内にある何かを振り払うように一度、その切れ長の瞳を軽く伏せた。

 その、黒紫の瞳が。ゆっくり持ち上げられる。何かを決意した強さを内包して。

 そうして莉恩の瞳を真正面から捉え。互いの目と目が合ったことを、はっきりと認めた彼は。

「実はまだ、莉恩に伝えていないことが。ひとつだけ、あるんだ」

 そう言うと漣壽は、自分の右の耳朶の後ろを指さした。武官らしくすっきりと、首の後ろで一つに纏められた黒髪。今、あの一房白い髪は見えない。

「わたしのこの、髪の色のこと」

 漣壽の右の耳朶の後ろから一筋流れる白い髪。それは生まれつきのものなのだと、幼い頃にそう聞かされて。

 以来。莉恩の日常に溶け込んだ、白。

「この髪は。『有色ゆうしょくの民』の名残り、なんだ」

「……え? 何を、言って」

 笑おうとしたが、笑えなかった。莉恩の顔が、中途半端な形のままに固まる。

 有色の民、と言えば。遥か昔、創陸そうりくの時代。

 この大陸を創造した神の血を浴びた、一部の人間の。髪と瞳が、黒以外の色に染まったという。謂わばそれは異端者に対する、蔑称べっしょう

 だが、有色の民の血筋は絶えて久しい。それに漣壽の髪はほんの一房白いだけだ。有色の民なばもっと、こう。

 不自然なまでに、明確な色を持っているのではないのだろうか。

 困惑の表情を浮かべる莉恩を見た漣壽は。ただ黙って微笑んだ。そうしてゆっくりと。莉恩の目の前へ、自分の右の掌を差し出して見せる。広げられた掌の上には。当然、何もありはしない。

 莉恩は困惑のままに、漣壽の掌と彼の瞳を交互に見つめる。戸惑う莉恩を安心させるように。漣壽はふわりとひとつ微笑みを浮かべると。差し出した自分の掌の上にふぅ、と軽く息を吹きかけた。

 驚いたことに。

 その直後、漣壽の右の掌の上には淡く白く輝く陽炎かげろうが……ゆるゆると立ち昇る。

 莉恩は思わず驚きに目を見張った。その、目前で。陽炎は一度、大きくその炎を燃え上がらせる。放たれる輝きに反し、光は熱くはなかった。

 幻想的な白い焔が揺らめき、莉恩の頬を照らす。見守るうち、白銀の陽炎は次第に漣壽の掌の上で収縮を始めた。徐々に掌の中央の、ただ一点に集中した光は……。

 不意にすぅと、消え去った。その後に残されていたものは。

 驚いたことに。一匹の白い、天道虫てんとうむし

 驚愕に目を見開く莉恩の反応を、どこか面白がるように。漣壽はその涼やかな目元を柔らかく緩める。


「彼らは色以外にも、持っているものがあった。――常人には持ちえない、こんな不可思議な能力だよ」

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