第八章 第3話
「誰だと思う?」
「おい、勿体ぶるな」
「
劉彗が息を呑む乾いた音が、静かな室内にゆっくりと落ちる。
「彼は当時、第三亮藩で
「なら、崔偉武官長は反乱軍討伐に手を貸したうえに。自分の娘を太子の一人に嫁がせた、って訳か」
劉彗がそこでようやく、ふぅと息を吐いた。莉恩もそれを見て、自分がそれまでまともに呼吸していなかったことに気付く。慌てて大きくひとつ息を吸い込んだ。
外は徐々に暗くなり、夕暮れ刻へと近づいている。
凌安はゆっくりと立ち上がると、部屋の隅にある火鉢へ近付いた。慣れた手つきで火を
劉彗は莉恩の横で身じろぎ一つせず、じっと何かを考え込んでいるようだった。莉恩の頭の中も、今聞いた話の内容を整理するので精一杯だ。
しばらくして炭に火の付いたチリチリという細い音が、火鉢からしはじめた。凌安は炭の位置を整えたあと、莉恩たちの前の席へと戻ってきて座り直す。
「そういえば。
「は、い。そうですが……」
世間話のように投げかけられた言葉に、莉恩は意図が掴めず戸惑いながら、それでもなんとか返事を返す。
凌安は着物の裾を直しながら、話のついでのようにごく軽い口調で続ける。
「彼は岩嶺の乱が起きた当時、第三亮藩の書記長官だった。地元住民との繋がりも浅からずあったから、乱の折には裏で随分と腐心されたと噂で聞いた」
「えっ……?」
書記長官と言えば、亮藩内で藩主や副藩主に並ぶ権限をもつ役職だ。
「そういえば。
「そう、なんですか?」
思わず莉恩の口から声が漏れた。だとしたら創寛は、自身の娘と孫を。二度に渡って晃朔へ嫁がせていることになる。
「晃朔様はどうやら当時、他の妃候補の話を断って
「第三亮藩の、書記長官の娘を……か? そもそも太子が自分の意思で結婚相手を指名できるなんてことあるのか? 第六王位継承者までの婚姻には、国議の合意がいるだろ?」
訝しむような劉彗の言葉に、凌安が意味ありげな視線を劉彗へと投げかける。
神の代理云々の話を抜きにしても。斎国が斎国としての機能を保ち存続していくためには、王の存在は絶対だ。そのため王位を継承することができる斎王家の直系男子は国によって厳重に管理され、行動を厳しく制限されている。
「そう、国議がそれに合意したんだよ。なぜなら、晃朔様には当時それだけのお立場がおありだったからだ」
劉彗が、凌安の言葉に鋭い視線を向ける。
「それは……。どういう意味だ」
「即位当初から、現王である
「なんだよ。その、予代神王ってのは」
劉彗が、怪訝そうな表情で凌安を窺う。
それは莉恩たちが文官としてこの国の律令や役職を学ぶ中で、一度も聞いたことのない職位だった。
「その件を積極的に国議に働きかけたのは王妃の
「梁凰様、って……」
「六年前に亡くなられているね。国交のため、
「そんなこと……許されるのか?」
劉彗が変な顔をしている。莉恩も同様に、妙な気持ちだった。王は神の代理人としてこの世に存在している、ことになっている。その王が、更に代理を立てるなど……。少なくとも今まで、そんなことが可能などとは。想像したこともなかった。
王が人でありながら神の代理人として扱われるという話に対しては。形骸化した仕組みであるという認識が、莉恩の中にも確かにある。
だがそれと。現在でも国の機能の一部として政治的な意味で『王』という職位がこの国に存在していることとは、全く別の問題だ。
「そう……今考えれば変な話もあったものだね。王が即位するためにはこの国の神山である
「てことは。自分で玉璽を押す前に、好き勝手口出しできたってことか?」
「そんな……っ」
莉恩は思わず息を呑む。
「それじゃ、王の勅令って……」
「国議でどのような話し合いが行われたのか分からないが。少なくとも勅令の玉璽は、晃朔様が押したのだろう」
莉恩の腕には、鳥肌が立っていた。劉彗も、苦い物でも口にしたような嫌そうな顔をしている。
「その。予代神王とやらの、次の妃が。
乱の原因となる勅令を発令したのは晃朔だ。そしてその晃朔へ、創寛は自身の娘と孫の二人を嫁がせている。
劉彗がふいと、こちらへ向き直った。苛立たしさを隠しもしない、尖った声。
「……なあ。これは本当に、ただの偶然か?」
劉彗は自分で言って、納得が行かない様子で親指の爪を噛んだ。
ややして、何かに気付いたように手を膝の上に揃え。すっと居住まいを正す。睨みつけるようにして真っ直ぐに凌安の目を見つめた。
「王都で武官として勤務する
「誰か、って。誰に……?」
「今の話に出てきた文官で、今なお現役なのは……一人しかいないだろ?」
――創寛文官長。
元はと言えば文を受け取っていたのは弥祐で、弥祐の直属の上官は
しかし。
最終的に文を受け取っていたのが……創寛文官長だとしたら?
夏朴は、第三亮藩の出身だ。そして創寛も乱の当時は第三亮藩の書記長官で、そのうえ地元住民と浅からぬ交流があった。ならば晃朔の行動に対し、反対意見を持っていたのではないのだろうか。
「なあ、夏朴から届いた最後の
莉恩は慌てて、懐に入れてあった文を取り出して机の上に広げる。
凌安がその文にちらりと目を遣り、そしてすぐさまなにかに気付いたように「ほう」と小さく呟いた。
「この詩の中に、別の意味を持つ言葉が隠されてた。莉恩が見つけた」
劉彗は凌安へ、手短に謎文字の説明をした。夏朴の最後の文と、劉彗が記憶を元に書いたその前の文だ。
そして見つけた、二つの言葉を並べて見せる。
我、
算段相整い 義を正す青の示す道
「これは……。
受け取っていたのが、創寛文官長なのだとしたら。
「これじゃあまるで。相手に、良心を問い正しているみたい……」
今、改めてこの二つの言葉を見ると。
なぜだろう。
状況が違うだけで、全く違う意味に見える。
暫し三人は、その文に視線を落とし沈黙した。机の上に広げられた文を見つめ、それぞれの思案にふける。
最初にその沈黙を破ったのは案の定、凌安だった。
「それで。お嬢さんはこの
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