第六章 第5話

 王都から街道を真っ直ぐに南下すると、第一亮藩と第四亮藩を南北に分かつ志峰山しほうざんに当たる。


 街道はその山を迂回するように東西へと伸びた。

 東に進めば第五、第六亮藩へ。西へ進めば第二、第三亮藩とへ出る。

 莉恩りおんの郷里である第四亮藩は、志峰山をぐるりと回り込んだ山の南側だ。

 志峰山で分かれた街道をしばらく西へ進むと徐々に南下し、第四亮藩の最西にある礬宇府ばんうふへと入る。礬宇府は第四、第三、第二亮藩の三つの藩の藩境に当たり、交通の要となる宿場町だ。

 そして礬宇府の西はもう、第三亮藩の敬汎府けいはんふ。敬汎府を過ぎれば、斎国第二の繁華街である之水府しすいふへと入る。


「うわぁ…………!」

 莉恩の口から、思わず感嘆の声が漏れた。

 礬宇府から敬汎府にかけては、緩やかな登りの傾斜面が長く続く。朝からその坂道を登りはじめ、分水嶺ぶんすいれいに出たのは昼を過ぎた時分だった。

 丘の頂に立つと、目の前には信じられない絶景が広がっていた。

 初めて見る佐碧湾さへきわんの美しさに、莉恩は思わず圧倒される。

 佐碧湾は、第三亮藩の土地を深く穿うがつように広がる瓢箪型をした湾だ。その湾を取り囲むようにして、すり鉢状に第三亮藩の土地が広がる。

 李王朝りおうちょうを水源として流れ出した瑞浪大河ずいろうたいがの豊かな水流は文字通り、この之水府で終わる。之水の名は止水から転じたものだ。

 煌めく水面。紺碧の水上を往来する何艘もの大小の船。内陸で生まれ育った莉恩にとって、全てが目新しい光景だった。

 珍しく生き生きとした様子でその光景に見入る莉恩に、劉彗がふうと呆れたような息をひとつ吐く。また何か嫌味を言われるのかと思わず身構えた莉恩に。

 劉彗の左手がゆっくりと持ち上がる。指先が、莉恩の視界の右端を真っ直ぐに指さした。

「右手に見えるのが瑞浪大河の河口で、その手前が之水府。河の対岸から向こう側全体が永豊府えいほうふだ。湾の手前の市街地からやや左にある、一番高くて白い建物が第三亮藩の藩主郭がある延郭区えんかくく郭城かくじょう。延郭区より左側は華清府かせいふだ」

 聞いてもいないのに、劉彗が勝手に説明を始めている。その割に、話す口調はいつも以上に素っ気ない。

 莉恩はちらりと劉彗の横顔を盗み見る。

 華清府は、劉彗の郷里だ。病で苦しんだ末に亡くなったという彼の妹と、そして詳しくは知らないが両親とも共に過ごした場所だ。彼の胸中を想うと、莉恩はどんな顔をして良いのかわからなくなる。

「第三亮藩では、郭区かくくは繁華街に置かれていないのね」

 莉恩は敢えて明るい声でそう問いかけた。

『一番高くて白い建物』と紹介された第三亮藩の役所の建屋である郭城は、最も人口の密集している之水府の河口付近からやや離れた平地に、不意にぽつんとひとつだけ建っている。之水府と華清府の中間くらいの位置だろうか。城の裏手はもう山で、どちらかと言えば閑散とした地域だ。

「ああ。ここでは港が、生活の中心だからな」

 劉彗は莉恩の視線に気付いた様子もなく、真っ直ぐに湾を見つめたまま答える。

 斎国に六つある藩には、各藩の行政を中心となって執り行う『郭区かくく』と呼ばれる区域が置かれている。郭区は通常、最も人口の密集した地域に置かれる。でなければ、役所として機能しないからだ。

 しかしここ第三亮藩はどうやら違うらしい。丘から一望して気付いたが、ぐるりと見渡す限り、第三亮藩の土地の半分は水……つまり、佐碧湾さへきわんだった。

 家も人も、その湾に寄り添うように密集しており、湾から離れるほど閑散として見える。特に之水府と永豊府に挟まれた瑞浪大河の河口付近が最も賑わっていた。

 遠目からもはっきりとわかる、立派な造りの船が何隻もその付近に接岸している。斎国の北に位置する李王朝へ向けて貿易に出る船だろう。斎国きっての貿易相手である李王朝へ行く手段は、河川航行かせんこうこうしかない。

「……汽水きすいを見るのは、初めてか?」

 莉恩がよほど物珍しそうな顔をしていたのだろう。ふいに莉恩へ視線を向けた劉彗が、やや困惑した表情を浮かべる。

「私、ずっと内陸で生活してたから……」

 言い訳のような言葉が、莉恩の口から漏れた。莉恩の出身である第四亮藩も海に面してはいるが、莉恩が育った賀郭区がかくくは海からずっと内陸部の志峰山しほうざんの麓にある。それに何より、莉恩は母を失って以降、外を出歩くことがなくなった。

 汽水について。文官である莉恩は当然、知識としてそれを知っている。だが、知っていることと実際に体験することは全くの別物だ。その大きな溝を埋める『経験』という行為……。それは幼い頃の山を駆け回って感じた、あの喜びに似ていた。こんな気持ちの高ぶりは、いつぶりだろうか。

 莉恩はもう一度、第三亮藩をぐるりと眺める。

 佐碧湾はその特異的な地形から、汽水と呼ばれる特殊な水質でこの土地に多大な恩恵もたらしてきた。恐らく大陸中探しても、ここにしか存在しないだろう。

 汽水は、瑞咾大河と海とを繋ぐこの湾で、淡水と海水とがちょうど良い塩分濃度に混じり合った結果に生まれた偶然の産物だ。

 河口から流れ出した豊富な淡水が、湾の外から入り込もうとする海水を外海へと強く押し戻す。さらに瓢箪型をした独特の湾の形状が、海水を常に最適な塩分濃度に保った。

 海……とは。

 大陸を取り囲む漆黒の塩水を指す。

 海は塩分濃度が非常に高い。そのため人は、これまで海を越えたことがない。

 この世界にあるのは、広大な大陸がひとつ。

 大陸の東西南北と中央には、この世界を創造した神によって五座の山が置かれており、斎国は大陸の東に位置する神山の御許みもとに神の加護を受け栄えている。

 いつまでも飽きもせず湾を眺めている莉恩へ、劉彗はどこか冷めた視線を投げかけた。彼にとってはとうに見慣れた郷里の地。さして興味もないのだろう。莉恩を置いて、さっさと一人で歩き出してしまう。

 気付いた莉恩は、慌ててその背を追った。

「知ってるか」と。

 劉彗は気配だけで莉恩が追ってきていることを察したようで、振り返りもせず声を上げた。

「佐碧湾で獲れる魚は旨いぞ。ここじゃ、魚を生で食うんだ」

「…………え?」

 思わず。こみ上げた不快感に莉恩は自分の口元を手で覆い隠す。

 莉恩の知る魚料理といえば川で獲れた魚を塩焼きにするか、瑞浪大河から運ばれてくる、日持ちするよう加工された濃い味の煮付けや干物の類だ。内陸で生活する人間には、魚を生で食べる習慣はない。

「……おい。そういう顔は、喰ってみてからにしろよ」

 不意に振り返った劉彗が、途端に不機嫌な態度を露わにする。莉恩はそれ以上なにも言い返せず、再び歩き始めた劉彗の背を黙って追った。

 今の莉恩にとっては。

 命じられた任務をこなすことよりも、魚を生で食べる事の方がよほど大きな問題に感じられた……。

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