第五章 第5話
月明かりの綺麗な、穏やかな秋の夜だった。
澄んだ空気に、細く輝く三日月の光。
どこからともなく聞こえてくる、鈴虫の鳴き声。
奇妙なほどしんと澄んだ秋の夜。
あのあと。
堅影には事後処理が残っていたし、あんなことがあったあとで見ず知らずの武官に莉恩を送らせるのはあまりに酷だと。
その結果。
今、莉恩のとなりを歩いているのは。
……劉彗だ。
劉彗の行動が過剰暴行と指摘されなかったことに、莉恩はほっと胸を撫で下ろす。
ただしこれは文官が取る行動ではないと、ちくりと釘を刺されはしたが。
真っ直ぐに正された背に、ただ一心に前を見つめて歩く劉彗の。漆黒の瞳に反射した月の色だけが、鈍く光っている。
莉恩よりもずっと背が高く足幅も広い劉彗は、どうやら莉恩の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれているらしい。
しかしその視線は決して、莉恩へは向けられない。
それなのに。
何気なく向けた莉恩の視線に、勘のいい彼は気配だけで気付いたのだろう。
不意に。その瞳がこちらへと向けられて。
莉恩は慌てて、自分の視線を地面へと落とす。まるで、初めて面接会場で顔を会わせた時のように。
劉彗がその場に立ち止まる気配。こちらをじっと、見据えて。
「……俺のこと、怖いか」
問われて。
思わず、言葉が詰まった。
胸元を両手で掴み。そうして莉恩は、答えあぐねて唇を噛み締める。
怖い、と。ずっとそう、思っていた。
劉彗から向けられる鋭い視線も、強い口調も。
彼に嫌われていると、そう思っていたから。
でも、本当に怖かったのは。
さっき、ほんの一瞬だけ見た。劉彗の本当の激情のほうだ。
あのとき劉彗の瞳にあったのは、どこまでも深い闇だった。その底なしの闇に比べれば。これまでの劉彗の態度など。なんということはなかったのだと、嫌でも気付かされる。
なにも答えようとしない莉恩に。
それから何とかひとつ、無理矢理に息を吸い込んで。
なにか思い詰めたような表情で。
「そうか……」
そう、呟き。それきりまた口を閉ざしてしまった。
落ちた沈黙の間を埋めるようにして、鈴虫の鳴き声がうるさいほどに鳴り響く。
劉彗は、何か言葉を選んでいるようだった。鋭い視線の矛先は、上空に輝く月へと向けられている。莉恩は劉彗の次の言葉を黙って待った。
「…………悪かったな」
唐突に降って来た言葉。
それが、謝罪の言葉なのだと。
理解するのに。少し、時間がかかった。
意味を考えるより先に持ち上げた視線の先で。劉彗もまた、莉恩を見下ろしている。
細い三日月を背に、陰になった劉彗の。その瞳だけが、やけに強い光を帯びていた。
「お前に対して、
「……なに、に」
無意識のうちに。言葉が口から突いて出た。
「何に、対して……? 何をそんなに、怒っていたの?」
それまで真っ直ぐに莉恩の顔を見下ろしていた、劉彗の瞳が。
莉恩の問いに。どこか
同時にぎゅっ、と。脇で強く握り締められる左手。
「…………なあ、お前さっき」
随分と、間があって。
「どうして俺が戻って来たのかって、聞いたな」
ようやく呟かれた言葉がそれだった。
あのとき、無意識に漏れた莉恩の言葉。それを劉彗は、ちゃんと聞いていたのだ。
そのことを。何故、今になって話題にしたのかわからず。
莉恩は困惑と共に小さく頷く。
そうしてまた、しばらく沈黙が続いた。
何度かの逡巡。言葉を選ぶような間があって。それから……。
ようやく、劉彗がその口を開く。
「俺の、妹…………な」
唐突に。劉彗の口から出てきたのは、そんな脈絡のない言葉だった。意味がわからず見上げた莉恩の視線の先で。
僅かに
妹は病気で亡くなったのだと。確か劉彗は、面接試験でそう言っていたはずだが。
「文官を、目指してた」
「…………え?」
思いもしなかった言葉に、莉恩は思わずひとつ声を上げる。しかし莉恩の反応を、劉彗は別の意味で受け取ったらしい。
「女で文官は、珍しいからな」
そう、面白くもなさそうに続けて。
しかし言ってから劉彗は、自分の言葉に疑問を持ったように眉根を寄せた。吐き出すようにして。「いや、違うな」と呟いて。
「目指してた、って言い方は、正しくない。あいつには、文官になる道しか与えられなかった。……って言った方が、正しいか」
劉彗の声はひどく冷たい。それは
自分を責める、そんな口調で。
苦々しく、吐き出される言葉。
「俺が武官になれないとわかってから。俺の親は……あいつに全ての期待をかけたんだ。妹は俺と違って真面目で、優しかったから。そんな期待に応えようと必死で。でも結局、その期待に押し潰されちまった。病気になったのは、そのせいだよ」
語る口調はまるで独白で。すぐ隣に莉恩がいることを忘れてしまったかのように、劉彗はひどく遠い目をしている。
まるで心だけが……過去へと引き戻されてしまったような。
「妹は、無理のしすぎで胸を患ったんだ。息をするのも苦しくて、夜になると一層それがひどくなった。夜通し看病する俺に、泣いて
「……そ、んな」
「でも、」
言いかけた莉恩の言葉を、劉彗が短く
「俺は結局。妹を楽にしてやることができなかった」
――沈黙が、落ちた。
どう答えていいかわからずに。
囁くように細く、細く。吐き出される一言。
「……お前は妹に、よく似てるから」
思わず、弾かれたように顔を上げた。
なにか言いかけて。しかしそこには、なにも言う言葉が見つからなくて。ただ真っ直ぐに見上げた莉恩の瞳を。
劉彗も真っ直ぐに、見下ろしていた。
そのあまりに強い眼差しに、莉恩は目を逸らすこともできず立ち尽くす。
劉彗がふと、ひどく苦しそうにその眉根を寄せた。
「お前も。自分の意思で文官になったんじゃ、ないんだろ」
その時ようやく。莉恩は腑に落ちた。
劉彗は、きっと。
今も自分自身を
自分の選択が、間違いだったのではなかいかと。
自分を責めて、責めて。腹を立て続けて。
それなのに。そんな、劉彗の目の前に。
妹とよく似た境遇の莉恩が現れて。
そしてまた、同じように……。
全部を、諦めてしまったら。
「俺は、薄々気付いてた、
劉彗が早口で一気に
言い切って、吐き出して。そこで……。
それきり、沈黙した。
莉恩は黙って続く言葉を待った。だが劉彗は、それきり何も言わなかった。
ふいっと背を向けると、そのまま歩き出してしまう。莉恩はその態度に戸惑い、そうしてゆっくりと遠ざかって行くその大きな背をただ見つめた。
虫の音が、二人の間を隔てるようにその鳴き声で夜を埋め尽くす。
――何かを選ぶことが、怖かった。
それは……。
自分だけでは、なかったのだ。
立ち止まったままの莉恩に。劉彗が少し進んだ先で、気付いて。足を止めて。緩慢な動作で振り返る。
促すように。莉恩が歩き出すのを待つように、無言で見つめる漆黒の瞳。
三日月の細い銀の光が、
……何か、言いたいのに。
胸がきつく締め付けられて、言葉が出てこない。喉の奥に引っかかったままの言葉を、無理矢理に押し込めて。そうして莉恩はひどく苦しい胸の辺りを、強く握り締める。
「うまく、言えないけど……」
なんと言えば、伝わるのだろう。この気持ちをうまく表現する言葉が見つからなくて、もどかしさに莉恩は掌を強く握り締めた。
そうして、その場に立ち尽くす。
でも。これだけは、絶対に伝えなければ駄目なんだと。
そんな根拠もない確信だけは、あって……。
意を決して、莉恩は顔を上げる。随分と上の方にある劉彗の顔を、伸び上がるようにして見上げた。劉彗も莉恩の瞳を、じっと見ている。
威圧的な印象の、眼光鋭い劉彗の瞳は。
月の光のせいか。今は、少しだけ和らいで見えて。
「私。……確かに。なりたくて文官になったわけじゃ、なかった」
わずかに寄せられる、劉彗の眉根。不快か、嫌悪か。
莉恩はしかし、勇気を振り絞り。その瞳を見返す。
「でも……今は、その。少し、違う……とおもう」
ずっと、怖かった。
自分が選び取ったものが、指の隙間から
だから、最初から求めなければいいのだと。
全部を諦めて、生きてきた。
そうやって、傷ついてしまうことから逃げて。
自分を見守ってくれている人たちがいることすら、気付かないほどに。全てを拒絶して。
「私……ずっと、怖かった。何かに期待して。でも結局は、失望することがわかっていて。だからもう、なにも望まないでいようって。そう、思ってきた……」
ただ。どこか、困惑するような。戸惑うような。そんな雰囲気を漂わせて、
「劉彗、が……」
初めてきちんと、その名を呼ぶと。
劉彗は少し、意外そうな表情を浮かべた。
そんな劉彗へ。莉恩は自分がいまできる精一杯の想いをその瞳に込めて、告げる。
「あの時、劉彗が来てくれたから」
大きくひとつ、息を吸い込んで。
「私は、誰かに助けを求められた。声を上げられた。……その、勇気が。はじめて、出せた。自分で、選べたの」
怖かった。
莉恩も。そしておそらく、劉彗も。
お互い自分の過去に捕らわれてばかりで。
一歩を、踏み出す。その勇気が、持てずにいて。
でもあのとき莉恩は、はっきりと自覚することができた。
――諦めない、という選択肢があることを。
指の隙間を滑り落ちていってしまう、大切なもの。
だったら。
もっと必死に、握り締めれば良かったのだ。それでも零れ落ちてしまうのなら、また拾えばいい。何度だって、諦めずに。
――きっとそれが、生きるということ。……なの、だろう。
「だから、きっと。私はもう……大丈夫」
ふと、劉彗を見れば。
彼はなぜか。胸に小さな痛みを感じた時のように、僅かに顔を歪めていた。そしてすぐに莉恩から視線を外すと、街路の先の闇を見据える。
「なら、いい」
素っ気ない、一言。
それきり黙り込み、再び夜道を歩き出す。
静かな秋の夜闇が、二人をそっと包み込む。虫の音が沁みるように心地よく、夜空へ響き渡った。
もう。沈黙は、怖くはなかった。
――ふっ、と……。
莉恩は、何かの気配に引き寄せられるように。視線を持ち上げる。
夜空には、しんと輝く三日月。天から
その、左肩に……。
まるで
月明かりが見せた幻……だったのだろうか。
何かに引き寄せられるように。
彼は不思議そうに、自身の左肩の辺りに目を向けると。
口の中だけで、そっと。
「
……と、呟いた。
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