第五章 第2話

「…………え?」


 莉恩りおんは最初。

 志殷しいんの放った言葉の意味がわからなかった。

 疑問符だけが無意識に口から漏れる。闇の中で、志殷の「ふふ」という軽やかな笑い声が上がったのはその時だった。

「どおりで、快諾かいだくしてくれるわけだ」

 ひどく優しい。けれど何か含みのある、笑い方で。薄暗がりの中で莉恩が判別つく志殷は、影の濃淡だけ。濃い影は志殷の官服かんぷくで。薄い影は。志殷の顔の辺り、だろうか。

 その、薄い影が……。ゆっくりと莉恩の顔へ近付いてくる。

 莉恩りおんは、反射的に顔を逸らしていた。

 志殷の唇が、莉恩の左耳の後ろ辺り。低い位置で一つに縛られた髪の生え際近くへと、軽く押し付けられる。

 二度、三度……。

 莉恩は固く目を閉じ、息を殺してじっとそれに耐えた。

 意味が、わからない。


 ……怖い。


 徐々に、恐怖が莉恩の胸中を締め付ける。


「……はな、し……て」

 口付けが八回を超えた所で、莉恩はようやくその言葉を口にすることができた。声が掠れてうまく喋れない。両手は志殷に押さえ付けられたまま、自由を奪われてしまっている。

莉恩りおんさん。あなたの気持ちはよくわかります」

 志殷しいんはそっと、莉恩の肩へその額をうずめた。愛おしそうにそこへ、頬ずりする。

「だって、わたしもずっと同じ気持ちでしたから……。だからこうしてずっと、二人きりになれる機会を待っていてくれたのでしょう?」

 志殷の声は、普段通りのひどく優しいものだった。しかし莉恩の右腕を痛いほど強く握っているのは、恐らく志殷の左手だ。

 だから莉恩は、なお一層混乱する。

「志殷、さん。……なに、を」

 言っているのか、わからない。

 そう伝えたいのに、うまく伝えられない。志殷はたぶん、何かを誤解している。莉恩の態度の何かが誤解を招いたのなら、謝罪しよう。謝らせてほしい。誤解を解いて、そしてまた普段通りの関係に戻って……。


「ねえ、莉恩さん。あなたも今日は、最初からだったんでしょう?」


 志殷しいんの左手が掴んでいた莉恩の手首を放すと、そのまま滑り落ちて右の脇腹にある上裳じょうしょうぼたんに掛かった。

 ひとつ。ふたつ。……上から順に釦が外されていく。

 彼の意図するところを理解した瞬間。莉恩の全身は嫌悪で震えた。

 志殷の手が釦の三つ目に掛かったところで、慌ててその身をよじる。掴まれた腕の中から逃れようともがいたのに。自分とそんなに身長の変わらないはずの志殷の力は、莉恩が思っていた以上に強かった。

 押し返したつもりが反対に強く押し戻され、書棚に背が当たる。志殷は自分の体を密着させるようにして、莉恩の体を強く書棚へと押し付けた。左手をひねり上げられ、苦しさにあえぎ声が漏れる。

 力の差は、歴然だった。

「……やっ、……」

 言いかけた莉恩の言葉を。志殷は「静かに」と優しく遮る。

「声を上げては駄目です。誰か来て恥をかくのは、あなたの方だ」

 莉恩の耳元囁かれた、その言葉に。

 瞬間。莉恩の頭の中は真っ白になった。

 志殷しいんは、人の顔色を伺うことにけている。だからきっと、莉恩が何を一番大切に思っているのかも、わかっている。

 もし。

 もし、このことが露見してしまったら……。

 莉恩は元々、同僚の間では不興を買っている。唯一親しくしてくれていたのは志殷だけで、その彼も莉恩に話しかける時には周囲の目をはばかっていた。

 だからきっと、莉恩が志殷と親しくしていることを知っている者はいない。

 もし、今ここで彼を拒否してしまったら。

 そしてもし、今ここに志殷と二人きりでいることを見咎みとがめられたら。

 一体、誰が。

 莉恩りおんかばってくれるのだろうか。

 莉恩りおんはきっとこの先の官吏としての一生を、同僚を誘惑した女として後ろ指を指されながら過ごすことになる。いや、それよりも。官吏としての生活をこれ以上、続けることができるのだろうか。

 そうなったら、莉恩は……。

 今度こそ、どこにも。自分の居場所がなくなってしまう。

 それは……。

 ――それだけは、絶対に。駄目だ。

 そこまで考えて、莉恩は抵抗することを止めた。

 大人しくなったことを、志殷は同意と受け止めたらしい。

 慣れた手付きで莉恩の官服の腰紐を緩めると、床の上へと莉恩を押し倒した。

 莉恩は床に散らばる書誌しょしの隙間に身をうずめ、固く瞼を閉じた。閉じた瞼の隙間から、我慢の限界を超えて涙が幾筋も流れ落ちる。解放された左手を自分の口へと強く押し当て、声を殺して莉恩は泣いた。

 怖かった。

 怖くて怖くて、仕方がない。

 なのに。それ以上に。

 このことを誰かに知られてしまうことの方が。

 何よりも一番、怖かった。


 ――どん!

 ――どん!。


 書庫の扉を強く叩く音がしたのは、その時だ。


 志殷しいんの手が、莉恩の体の上に置かれたまま。ぴたりと止まる。

 うかがうようにゆっくりと顔を上げた志殷は、外の気配を探るように音のした方へと視線を向けた。


「おい。誰かいるのか?」


 莉恩りおんの全身から、一気に血の気が引く。

 それは。

 ――劉彗りゅうすいの、声だった。

 なぜ。

 なぜ今、ここに劉彗がいるのだろう。

 劉彗は帰ったはずだ。莉恩はそれを見届けてから、ここへ来たのだから。

 混乱する莉恩の口を、志殷の右手がそっとふさぐ。

「いるなら、返事しろ」

 相変わらずこの世の不幸を全て詰め込んだような、不機嫌極まりない劉彗の声。その声を聞いただけではっきりとわかる。劉彗は間違いなく今、仏頂面をしている。

 女というだけで、莉恩を嫌悪する男。

 いつも莉恩のことをにらむようにして見る目。

 何をしても、劉彗は常に莉恩に対して不機嫌な態度でしかなくて。

 そんな彼に、今の状況を見られでもしたら……。

 そこまで考えて。莉恩は強く、目を閉じた。

 今、一番会いたくない相手。

 その彼がなぜか、ここにいる。

 今の自分の姿を、彼にだけは絶対に見られたくなかった。

 ……早く、どこかへ立ち去ってほしい。

 そう願いながら。ただじっと息を殺し、その時を待つ。

 自分の心臓の鼓動が耳障りなほど大きく、耳元で響き続けていた。

 こんなにはっきりと自分の心臓の音を聞いたのは、初めてだった。耳障りで、聞いているだけで不安になる。この音を。

 なぜだろう。

 そういえば莉恩は今まで一度も……聞いた覚えが、ない。


 ――ふと、意識が引き戻された。


 そうだ。

 今までは、いつだって。

 莉恩の傍らには誰かが寄り添い、守ってくれていたから。

 だから莉恩はこれまでの人生で、どんなに辛く苦しい時でも。

 一人きりでいることはなかった。

 ……この耳障りな音に、気付くことはなかった。



 ――『受け入れる方が、楽か』



 不意に。

 いつの日か、父に言われた言葉が……耳に蘇る。


 あの日。

 莉恩が縁談を受け入れると言った瞬間の、父の表情かお

 なぜ父がそんな顔をしたのか。

 あのときの莉恩には、わからなかった。



 でも今、ようやく。

 その意味が、わかった。


 それはきっと。莉恩がからだ。



 自分一人が我慢すればいいのだと。

 最初から全部、諦めて。助けてほしいと、誰かに手を差し出すこともせずに。

 自分の殻に閉じこもって……。



 でも今。自分はここに、一人きりだ。

 莉恩を救ってくれる人は、誰もいない。


 今、自分を救えるのは。

 ――自分しかいない。



 ――『全てはお前次第だ。お前が決めろ』



 その瞬間。

 莉恩は必死で身をよじり、口を塞ぐ志殷の手を振りほどいていた。そうして扉の外へ向けて出せる限りの声を張り上げる。


「――――劉彗りゅうすい!!」

 

 思った以上に、大きな声が出た。志殷が慌てたように莉恩を抑え込み、口を塞ぎ直す。そうして扉の方を振り返り、外の気配を探った。

 だが。

 扉の向こうからは、なんの返答もない。


 劉彗は既に、立ち去ってしまった。


 遅かった、のだ。

 絶望が、莉恩りおんの胸を塞ぐ。

 何かを選び取ろうとする度に。運命は、いつも莉恩の手からそれを奪い去っていく。

 これまでも。

 そして、これからも。

 それはきっと、変わらない運命なのだろう――。


 口に押し当てられていた志殷の手が、そっと離れる。

 次の瞬間。左頬に強い衝撃が走った。暗いはずの視界に、一瞬閃光が走る。

 頬を張られたのだと気付いたのは、最初の衝撃が去ったあとだ。追い打ちをかけるようにして、左頬がじんと熱を帯びる。

 口の中に、血の味が広がった。

「こんな、時に。他の男の名前を、呼ぶなんて……」

 志殷しいんが何かぶつぶつと呟いている。朦朧もうろうとする意識の片隅で、自分がひどく乱暴な扱いを受けているのを感じた。手を上げられたことにではなく、彼が衣服を引き剥がす手付きでそう感じたのだ。

 莉恩の頭の芯は麻痺まひしたように霞み、手足の感覚は次第に遠いていく。自分の体が自分のものではないような、妙な気持ちだった。

 ……頬が、痛い。

 そんなことを、ぼんやりと考える。

 やはり、駄目なのだ。

 自分は何かを望んでは駄目なのだ。

 莉恩が望んだものはいつだって、手に入らないのだから。

 諦めと、絶望と。そして一瞬でも希望を持った自分が可笑おかしくて。

 莉恩は泣きながら、自分を嗤った。


 再び、強い衝撃が莉恩を襲ったのはその時だ。


 ――いや、それは衝撃というよりも。

 轟音に近くて……。


 不意に。

 体の上に掛かっていた志殷の体重が、消えた。

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