第四章 第4話

 妹の遺志いしを継ぐこと、と。

 そうして、母親に対する意趣返しの意味も込めて。

 劉彗りゅうすいは文官になることを決意した。

 執念をかてに努力を続け、六年。ようやく辿り着いた文官試験の、その面接会場で。

 集まった二十人近い文官受験者たちの中にいた劉彗は、集合の定刻間際になって到着した馬車があることに気付く。特に興味もなく開始の時を待っていた劉彗の目の端に、淡い躑躅つつじ色が映り込んだのはその時だった。

 思わず、動きが止まる。

 ここに集まっているのは男だけだと、何故かそう思い込んでいた。

 惹き寄せられるようにして持ち上げた視線の先で……目が、合う。彼女の姿に、不意に妹の姿が重なった。

 呟きは、完全に無意識だった。

「女か」と言っていた。その唇を読まれた。同時に逸らされる、彼女の瞳。困惑にうつむく儚げな姿。小柄な体に、痩せて細い手足。彼女の雰囲気は、あまりにも……。

 妹に、似ていた。

 それが劉彗の、王都での苦悩の始まりだった。


 莉恩りおんは、不思議な雰囲気の少女だった。世間知らずと呼ぶにも少し、違う気がする。母親がかつて斎国史上初の女性文官として名をせた人物であることを差し引いても。

 周囲からは少し、浮いた存在だった。

 仕事は、できた。

 文字を書かせれば誰よりも正確に筆を運ぶ。

 座学の理解も、誰よりも早かった。だが、そのことに対して無自覚すぎるせいだろうか。時折空気の読めない発言をしては、周囲にいる同僚たちを引かせた。

 人は、自分たちとは違うものを無意識のうちに排除しようとする。

 莉恩はすぐに孤立した。

 唯一。常に行動を共にすることになったのが劉彗だ。

 同期で、同じ部署の配属。仕事も、講義も、後片付けも。勤務中の行動は全て一緒。

 繰り返される日常の中で。

 文字に目を落とし真剣な顔をする横顔や。ふと微笑んだ拍子に少しだけ持ちあげられる唇の角度。莉恩りおんの何気ない仕草のひとつひとつが、劉彗の記憶の中にある妹とあまりにも酷似していて……。

 まるでその場に妹がいるかのうような。そんな、錯覚に陥る瞬間。

 劉彗りゅうすいは、現実と幻の境で。ひどく苦悩する。

 目の前に存在し、同じ文官として働く莉恩を。完全に無視することは、できない。

 元々口下手なことに加え、妹によく似た彼女にどう接していいのかわからず。自然と莉恩に対する態度は硬いものになった。

 そんな劉彗りゅうすいの態度に。時折切なげに伏せられる長い睫毛まつげや、項垂うなだれた細い肩を流れる黒髪が……。

 劉彗の良心を、一層さいなんだ。


「なんだ、これ」

 その日、執務室に戻ると。

 莉恩りおんの様子は、明らかにおかしかった。青ざめた顔で立ち尽くし、手元の紙に目を落としている。

 莉恩の手の中にある紙を取り上げた劉彗りゅうすいは、紙面を眺めてすぐに状況を察した。不快感に、自然と態度には剣呑けんのんさがにじむ。

「……なんでも、ないの」

 誰を責めるでもなく。助けを求めるでもなく。逸らされる視線は、周囲の全てを拒絶して。

 その苦しみを、自分一人で背負い込もうとするように。

「なんでもないってのは、なんだ?」

 ようやく発した一言が。

 自分でも呆れるほど冷たく、その場に響く。莉恩はびくりとひとつ、肩を震わせた。当然だろう。劉彗はこれまであえて、莉恩に冷たく当たってきたのだから。

 それでも問わずには、いられなかった。

「答えろ。『なんでもない』ってのは、一体。何に対しての言葉だ?」

 莉恩は一瞬、戸惑うように何かを言いかけ。そこでふと。言葉を、呑み込んだ。

 いや。感情を……呑み込んだ、のだろう。

「私が……悪い、の」

 うつむいた血の気の引いた頬に一筋、絹のように細い髪がこぼれて掛かる。

 彼女の逸らされた横顔の、色彩を失った瞳を見たときに。

 劉彗りゅうすいの中で。

 ふつりと何かが、音も無く弾けて飛んだ。

「お前、は…………! っ、」

 どこまであいつにそっくりなんだ、と。

 そう、続けそうになって。

 慌てて感情を抑え込む。

 莉恩りおんは。怯えをにじませた目を、ゆっくりと劉彗へ向けた。


 ――助けて、と。

 ただ一言、そう言ってくれたなら。

 そうしたら劉彗は。妹へ、手を差し伸べてやることができた。

 なのに彼女は、全部自分の中に抱え込んで。そうして、なにもかも諦めて。

 それが周囲に対してどれだけ残酷な態度なのか、気付きもしないで……。

 劉彗はあのとき、なんと言って妹へ声をかけてやればよかったのだろうか。どうしたら彼女を、救うことができただろうか。

 妹が願う通りに、全部終わらせてやればよかったのか。


「お前のそういう態度が。相手を一番苛つかせてるんだってことに。……お前いい加減、気付けよ」


 そう、告げると。

 泣くのかと思った莉恩は。しかしそのまま、唇を噛み締めて涙をこらえた。劉彗の前では絶対に泣かないと心に決めていたのか。それとも。

 感情を押し殺すことに、すっかり慣れてしまっているのか。


 これ以上何を言っても、には伝わらないのだと悟った瞬間。


 劉彗は……。

 逃げるようにしてその場から立ち去っていた。

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