第二章 第5話

 先程までの自信に溢れた劉彗りゅうすいの表情は崩れ、瞳には僅かに困惑の色が滲む。

 そんな劉彗に畳みかけるようにして。鶴黄かくおうの声が再び、そしてはっきりと室内に響いた。

「もう一度問おう。なぜ、文官を志した」

 劉彗りゅうすいの左手がゆっくりと持ち上がり、自身の右の二の腕を押さえる。

 その仕草で、ようやく莉恩りおんは気付いた。

 さっきから。彼は一度も……右腕を、動かしてはいない。

 劉彗の視線は真っ直ぐに鶴黄へ向けられたままだ。ややしてその口元には、自虐的な笑みが浮かんだ。次の瞬間、劉彗りゅうすいはもう一度居住まいを正すと、挑むような強い視線を鶴黄かくおうへと向ける。

「ご指摘の通り、十五の歳に事故で右腕に怪我を負いました。幸い命に別状はなかったものの、後遺症が残り右手は今でも使えません。元は武官を目指していましたが、利き手が使えない以上それを務めることは叶わず。そこで武官の道は諦め、左腕一本でもなれる文官を目指す事にしました。……俸禄ほうろくは、変わりませんので」

 受験生たちの中から、驚愕きょうがくと感嘆の入り混じった声が上がる。莉恩もその一人だ。生来の利き手とは反対の手で文官になれるだけの文字を書くとなると、どれほどの努力が必要だったことだろう。利き手でありながら落第した者もいる中で、しかも二次試験は一番に退出している。

 莉恩りおんの中で、彼に対する評価が少し変わった瞬間だった。

 しかしそんな劉彗りゅうすいの言葉に対しても、鶴黄かくおうの態度はなに一つ変わらない。相変わらず飄々ひょうひょうと掴みどころのない様子で、「ふむ」と言葉にもならない声をただひとつ発しただけだ。

「お主は随分と俸禄にこだわっておるようだが」

 眉に隠された眼窩がんかを劉彗へと向けたまま、さも不思議だといわんばかりに。首を軽く、かしげ。

「金は所詮、金だ。人の概念が具現化した物に過ぎん。金に意味を持たせるのは、その金を使おうとする人間の心根の中にある。お主にとって……金とは、どんな意味を持つ?」

 ここに来て初めて。あれだけ饒舌じょうぜつに話していた劉彗が、ぐっと喉の奥に何かを詰まらせた。鶴黄かくおうの言葉に一瞬目を見開き、続いて気に入らないとでも言いたげに深く眉根を寄せる。恐らくこの質問は、彼の心の核心を突く質問だったに違いない。

 瞬間、莉恩りおんの背筋に悪寒が走った。

 この老人の言葉は、人の心をどこまでも丸裸にする。粛臣しゅくしんとして長く王に仕えるだけあって、莉恩たちのような若者の心の内など簡単に手玉に取れてしまうのだろう。

 この質問に劉彗りゅうすいはどう答えるのか……。固唾かたずを呑んで成り行きを見守るみなの目の前で。劉彗はしばしの沈黙ののちに、ようやくその口を開いた。渋々と言った様子の、ひどく重苦しい口調で。

「わたしの腕の治療に、親は莫大な金を支払いました。国内のありとあらゆる高名な医者に診せ、どうにかしてこの右手が再び剣を握れるようにしてくれと頼み続けた。しかし結果はご覧の通り。この腕は二度と動くことはありませんでした。そうしてようやく親がわたしの腕を諦めた頃、今度は妹が病に罹った。治療には多額の費用が掛かると言われたが、わたしの完治することのない腕に金を使い果たした我が家には、妹に満足な治療を施すことができるだけの金は残されていなかった。……結局、随分と苦しんだ末に、妹は亡くなりました」

 重苦しい空気が、その場に流れた。莉恩は劉彗の顔を見ていられず、思わず視線を床へと落とす。

「その時学んだのは。この世で最も大切なのものは、金だということです」

 淡々と話す口調が、却って莉恩りおんの胸を締め付ける。この場にいる誰もが、劉彗りゅうすいの語る話の内容に言葉を失っていた。

 唯一違ったのは、鶴黄だけだろう。まるで旧友の家に茶でも飲みに来たのではないかと勘違いしてしまいそうなほどゆったりとした態度で、顎髭を撫で劉彗の話を聞いていた。

「ふむ、良かろう」

 しばらく劉彗を眺めた後で。鶴黄かくおうは一言、そう呟いた。相変わらず言葉の意図は読めない。だが彼の人の中で、結論は出たようだった。押し黙ったままの劉彗りゅうすいに、鶴黄はそれ以上声を掛けることはせず。代わりに、そのすぐに隣に立つ受験生に指先を向ける。

「ほれ、次。そこの」

 突然指さされ、劉彗の左側に立っていた青年が飛び上がる。まさか面接でここまで問われるとは思っていなかったのだろう。明らかに緊張した面持ちで鶴黄かくおうを見ている。

 そこから続く数人の受験生の回答を、莉恩りおんは上の空で聞いていた。鶴黄の質問はどれも、相手の核心を突くものばかりだった。一人は言葉に詰まり、一人は今にも泣き出しそうになり、そしてもう一人はこれ以上答えたくないと回答を拒否した。莉恩は、みなの前で劉彗りゅうすいのように自分の心がさらされてしまう恐怖に戦慄した。

 そうして鶴黄かくおうが受験生の最後尾に隠れるようにして立つ莉恩を指名したのは、一番最後のことだ。

 莉恩りおんは受験生の列から一歩前へ出る。高鳴る心臓の鼓動を抑えるために、時間を稼ぐようにしてゆっくりと。そして殊更丁寧に、一礼する。そうしてなるべく落ち着いた声に聞こえるように注意しながら、名乗りを上げた。

第四だいよん亮藩りょうはん賀郭区がかくくから参りました、莉恩です」

 両手は腹の前で重ねているが、緊張のために汗でびっしょりと濡れていた。

 前にも後ろにも、逃げ場はない。ここで全てを晒す覚悟を決めるしかなかった。文官を志した理由を……と。そう、鶴黄が言い出す刻をただじっと待つ。

「これはこれは。沙紗さしゃの娘御ではないか」

 しかし鶴黄から莉恩りおんへと発せられた一言目は、あまりにも予想に反したものだった。

 不意を突かれ、咄嗟に莉恩の頭の中は真っ白になる。沙紗とは――母の名だ。

 なぜこの老人が母の名を知ってるのだろうか。混乱する莉恩へと真っ直ぐに向けられる、鶴黄の見えないまなこ。その視線に……ようやく、思い至る。

 ――母は、有名だ。

「良く似ておるな」

 鶴黄かくおうの言葉には、まるで旧知の間柄のような懐かしさが滲む。その口調に、莉恩りおんは気付く。

 今、この老人が見ているのは莉恩ではない。莉恩の中に流れる、母の血だ。

 気が付けば。背後に立つ受験生たちからも、じろじろと無遠慮な視線を向けられていた。母の名は、この国で文官を目指す者なら一度は聞いたことがあるはずだ。

 世間が莉恩りおんへ向ける目はいつも、莉恩のことを見てはいない。彼らが見ているのは、莉恩の中に残る母の面影だけ。

 高名な文官、希代の才女。どんな賛辞も、決して莉恩りおんへ向けられることはない。

 深いおりのようなものがゆっくりと、胃の辺りに溜まるのを感じた瞬間。莉恩は自分の置かれた立場を思い出し、そうしてすぐに気を引き締める。

 今はまだ、試験の最中だ。

「ときに其方そなた……」

 今度こそ、文官を志した理由を。

 そう、訊ねられるのだと。莉恩は身構える。

「昔のことは、思い出したかね?」

 しかし。鶴黄かくおうの口から出たのは、思わず気が抜けてしまうほどこの場にそぐわない言葉だった。

「…………あ、あの」

 問われた言葉の意味に、必死で考えを巡らせる。昔のこと、とはなんのことだろうか。思い出したか、と問われているということは。自分はそのことを一度、忘れているということなのだろう。

 ……何を、忘れているのだろう。何かを忘れたり思い出したという記憶は。莉恩には、一切ない。

 それともこれも、鶴黄が得意とする相手の心をさらす技なのだろうか……。

「……おっしゃられている意味が。私には、よく。……わかりません」

 莉恩は返答にきゅうして、そう返す。鶴黄かくおうは相変わらず、なにを考えているのか読めない態度で。しかし顔だけはしっかりと、じぃと莉恩りおんへ向けている。

「…………そうか」

 しばしの、沈黙の後。ひどく残念そうに、老人が呟く。莉恩の背には、その瞬間にひんやりとしたものが走り抜けた。

 答えを、間違えてしまったのだろうか。苦しいほどの焦りが胸に広がる。思わず胸元を掴み、無理矢理に息を吸い込んだ。

鶴黄かくおう公様……」

 後方に控えていた文官の一人が。その時初めて、たしなめるようにして口を挟む。

「おお、これはいかん」

 鶴黄はその言葉に、大仰に肩をすくめて見せた。

「そうそう、面接じゃった。あまりに沙紗に似ているものだからつい、懐かしくなってしまった」

 鶴黄かくおうはゆっくりと顎髭をなでながら、「しかしなあ」と独り言のように呟く。

「……この娘にこれ以上、尋ねることは。ないのだよ」

 鶴黄の意図するところが読めず、莉恩はひどく困惑する。

「のお、莉恩とやら」

 呼ばれて、莉恩は俯きかけた顔を慌てて上げた。鶴黄の口調は相変わらず、炉端の茶呑み話のそれだ。

 しかしその口から発せられた言葉は、莉恩の予想をずいぶんと超えていた。

「以前に、佰依はくえという家庭教師がいたのを覚えているかえ」

「は、……はい」

 莉恩はやっとの思いで、それだけを答える。

 佰依はたしか、莉恩の三人いた家庭教師のうちの一人だ。言葉少なで、穏やかに微笑む老人だった。……彼について覚えていることは、その程度だ。

 その彼も、数回通った程度で辞めてしまっている。

「佰依は儂の旧い知り合いでの……。あ奴が言うておったわ、さすがは沙紗の娘。八歳にして既に教えることなし、と」

 意外な言葉に、二の句が続けず莉恩は押し黙る。

「其方を見て確信したよ」

 鶴黄の伸びた白い眉に隠された瞳が、じっと莉恩を見つめる。静かな、しかし有無を言わせぬ力強さが、その言葉にはあった。

 ――特別扱いだ。

 誰かが莉恩のすぐ後方で囁いた声が耳に入る。気付けば受験生の群れは、鶴黄の態度に静かにざわついていた。みな、険や含みのある視線を無遠慮に莉恩へと向けている。

 莉恩はいたたまれない思いでその場に立ち尽くしていた。これではまるで……親の威光に優遇されているように、見えるだろう。

 たとえ表向きに、ではあっても。この国では、官吏への道は平等に開かれているはずなのに。

 しかし鶴黄の態度には、特段の変化はなかった。それどころかゆっくりと、ざわめく受験生たち一人一人の顔への上へと視線を向けていく。

「この国の万象を整えるのが、儂の役目じゃ。其方そなた達は何一つ案じる必要はない」

 瞬間、ざわついていた受験生達が水を打ったように一斉に静まり返った。今この部屋の中を支配しているのは、不思議な存在感を持つこの老人ただ一人。

 そうして鶴黄は。その場にいる全員に、自分の発した言葉が浸透したことを確認すると。再び視線を莉恩の顔の上へと戻した。

「其方にはぜひとも、この国の一助となってもらいたいものだな」

 もう誰も、莉恩を特別扱いだとそしる者はいなかった。

 静まり返った会場で、莉恩りおんができたのは。ただ、深々と首肯しゅこうすることだけ。そして一言、「はい」とだけ答えた。


 それが、この年の面接試験の全てとなった。

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