第二章

第二章 第1話

 ――五月。


 斎国さいこくの国花である忍冬すいかずらが蔦を伸ばし、薄黄色の花弁を付けた可憐な白い花が庭先いっぱいに甘く芳しい香りを放つ季節。

 文官登用試験は、あっという間にやってきた。


 一次試験は斎国に六つある藩の藩郭区にある公共施設で執り行われる。

 莉恩りおん第四亮藩だいよんりょうはんの一次試験会場へ到着したときには、既に百人近い数の受験生が集まっていた。

 一次試験を通過できるのは毎年、受験者のうちの一割にも満たないと言われている。受験生のほとんどが、この一次試験でふるい落とされる。

 広い試験会場の中で、莉恩はあらかじめ指定されていた席に着座した。周囲を見渡せば案の定、男性ばかり。中には父とそう年齢が変わらない人もいる。視線を会場全体に転じれば、遠巻きにようやく数人。赤やだいだいの着物を身に付けた、女物とおぼしき者の姿が見て取れた。女性の受験生はその程度だ。

 みな緊張した面持ちで、これから始まる試験に向けて気持ちを集中させている。莉恩が女であることを気にしている者は、幸いなことに今は一人もいないようだ。

 文官試験は、とにかく出題範囲が広い。文官となるためには国がその責務に必要と認める法律・歴史・地理・算術に始まるあらゆる書物の内容を深く理解している必要があった。そのうえ過去に出題された問題は全て非公開となっており、課題の内容は毎年変わる。

 おかけで受験者の中には、受験資格の得られる十六歳から毎年受験しているにも関わらず何年も合格することができない者もいると聞く。

 高位の官吏になれば膨大な俸禄ほうろくが与えられるため、立身出世を望む者にとって文官試験合格は悲願だ。

 莉恩も机の上に持参した文宝を取り出し、気持ちを集中させる。しかし正直に言って……自信はなかった。この半年、勉強は全て独学で、あとは出題範囲と思しき書物を読み込むことしかできていない。文官のための学習塾である書処院しょしょいんへ通ったことのない莉恩には。ここへ来てもまだ、文官の何たるかを理解できずにいた。

 墨を擦りながら待っていると、やがて部屋の前方に置かれた演壇に男が一人登壇した。文官の制服である黒っぽい衣裳いしょうを身にまとっている。試験官だろうか。

 彼は静かな、良く通る声で。会場にいる受験生達へと告げた。

「これより明楽めいらく三十八年度斎国文官試験の、一次試験を開始する」

 同時に、受験生達の手元に半切紙はんせつしが配られた。紙質は最も安価な稲藁いなわら製で、薄い土色の紙はざらりとした手触りをしている。

 半切紙の横幅は、莉恩が両手を広げた長さほどあった。莉恩は隣の席の者の邪魔にならないよう左端を綺麗に丸め、ある程度の紙面を机上に広げると右端に文鎮を載せる。と同時に、試験官の次の声が響た。

「まず、紙の右端より三紙さんし下った箇所より、各自の出身地と名を記すように」

 莉恩はその言葉に気を引き締め、墨を筆に取った。

 ――全く、冒頭から気が抜けない。

 三紙さんし下る、とは、文字の書き出し位置を指示する書処しょしょの専門用語の一つだ。身分の低い者が目上の者へ文を書く際に、謙遜する意味を込めて使用されることが多い。

 また、この国の公式文書において。文字の書き出し位置を正確に揃えることは、その文書が公的に記載されたものであることを示す重要な基準となる。公文書において指定された場合には、その位置はかなり厳密だ。

 今回の指示通りに文字を記すのでれば、紙の短手方向に正確に八等分した位置から、三紙さんし、即ち八分の三下げた位置から文字を書き出さなければならない。

 普段から文字を書くことに慣れていなければ、この位置を見極めるのはなかなかに難しいだろう。

「そして三行改行してのち、第一問より各解答を五行以内に収まるよう簡潔に書き記すように」

 周囲で、「ああ」とか、「うわあ」とか、小さく呟く声が聞こえた。三紙下った箇所からの書き出し位置を決めかねていた受験生の声であろう。彼らには、試験官の次の言葉が早すぎたのだ。

 莉恩りおんはこの時、既に名を書き記し、試験官の次の言葉を待っている状態であった。

「なお、問題は二度繰り返す。それ以上は言わず、質問も受け付けないため、聞き漏らすことのないように」

 会場の何人かはその言葉に姿勢を正し、何人かは泣きそうな顔でまだ紙に向かって名を書いている。これが、話に聞いていた文官試験……。莉恩は気持ちを目の前の紙へ集中させた。

 試験官の声が、無情にも次の言葉を告げる。

「それでは、第一問」

 ――これが、かつて母が通った道……。

 莉恩は一瞬軽く目を閉じた。そうしてひとつ、深く息を吸う。

 吐き出す息と共にゆっくりと、目を開けたそのとき。

 周囲の喧騒けんそうは、一切。耳に入らなくなっていた。


 莉恩は無意識のうちに。その口元に、微笑みを形作っていた。

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