王は銀翅の夢を見る

佐木 真紘

第一章

第一章 第1話

 斎国さいこく

 第四亮藩だいよんりょうはん賀郭区がかくくは、国のちょうど中心。内陸部に位置する。

 志峰山しほうざんの麓に拓かれた自然豊かな土地で、莉恩りおんは幼い頃から野山に分け入っては珍しい動植物を見つけるのが大好きだった。

 家に帰れば博識な母が蒐集しゅうしゅうした古今東西の図鑑や歴史書があり、知識と実体験を紐づけることができる。

 だから莉恩りおんは。今日捕まえたばかりの見たこともない蝶を調べようと、夕日の沈む丘を精一杯駆けて家路へと急いだ。

 腰まで伸びた絹の様に細く癖のない黒髪が、風に乗ってふわりと流れる。上気した白い頬は夕日のだいだいに照らされさらに紅く染まる。脇に下げた虫篭に一度、手を触れて。思い浮かぶのは、蝶を見せた瞬間の母の驚きに満ちた笑顔。

 母は、きっと自分のことを褒めてくれるに違いない。

 その瞬間の、ふわりと弾けるような母の顔を想像すると。自然と莉恩の頬は緩んだ。

 今日は仕事でここ数日家を空けていた母がようやく家に戻ってくる日だ。早く母に会いたい衝動が。抑えきれないその思いが、莉恩の足をより一層早めた。

 丘を越えると立ち並ぶ家々の屋根が一望できる。

 その中でもまず真っ先に目に止まるのが、賀郭区がかくくの中心に建つ郭城かくじょうの白い尖塔だ。それを取り囲むようにして、賀郭区の街並みが碁盤目状に広がる。

 賀郭区がかくく第四亮藩だいよんりょうはんの主藩地の呼称だ。ここには第四亮藩が機能していくために必要な役所や公共施設、そこで働く人々の住居などが集められている。

 莉恩りおんの父は、この藩の藩主だ。郭城かくじょうは父の職場であり、一日の大半をそこで過ごしている。郭城からほど近い場所には、上級官吏の家族が住まうための住居が国から支給されていた。――つまりそこが、莉恩の今の住まいだった。

 この時刻、家々の屋根からは夕餉ゆうげの支度をするかまどの煙が上がっている。莉恩の自宅からも一筋、白い煙が上がっているのが見えた。母が帰宅している証だ。

 家の玄関を開ければ、母は待っていたとばかりに顔を出してくれるだろう。そうして満面の笑みと抱擁で莉恩を迎えてくれるのだ。夕飯の席ではきっと、母は食事することも忘れて。離れて過ごしたこの数日、莉恩が一体どう過ごしていたのか夢中で尋ねるだろう。

 莉恩りおんの走る足は、しかし自宅に近付くにつれて次第に鈍くなった。自宅の前になぜか、大勢の人垣ができていたからだ。

 莉恩は上がる息を必死に整えながら。そうして今度は慎重に、自宅へと歩みを進める。見慣れない人だかりに恐る恐る近付くと、輪の中心に父の背中が見えた。

「おとうさま……?」

 莉恩りおんはその見知った姿に安堵あんどの思いで声をかける。人混みの中であっても、父は娘の声を聞き分け即座に反応した。振り返った父の表情は、莉恩がこれまで見たこともないほど張り詰めていた。

「莉恩! 来るんじゃない!」

 そのあまりの勢いに、莉恩は思わず体を強張こわばらせて立ち尽くす。そんな莉恩のもとへ、父は人の波をかき分けるようにしてやってきた。周囲にいた人々が皆一様に驚いた顔をして、道を開ける。

 ひどく緩慢かんまんな動作で莉恩に伸ばされる、父の腕。ふと途切れた人混みの隙間から見えたに、莉恩はぼんやりと呟く。

「おかあさま……?」

 ようやく莉恩に届いた父の手が、莉恩の両眼を覆い隠す。その広い胸の中に閉じ込めるようにして、父は莉恩を強く抱きしめた。

「……おかあさまは? ねえ、おかあさまはどうしたの?」

 人混みの先、一瞬見えたのは母が好んでよく着る花唐草の柄の着物。しかし莉恩の記憶にある限りそれは東雲色しののめいろだったはずだ。なのになぜか今、それは朱殷しゅあんの色をしていた。

「おかあさまのお着物が赤かったのは……どうして?」

 もう一度、父に向かって問いかける。強く抱きしめられたままの莉恩は、父の胸に向かって声を上げる形となった。

「莉恩、駄目だ」

 父は、莉恩がそれまで聞いたこともないくらい苦し気な声を漏らした。抱きしめる腕の力が強すぎて、痛い。

 莉恩りおんはその尋常ではない様子に、得体の知れない不安を抱く。

「おかあさま……?」

 莉恩はもう一度、今度は小さな声で母を呼ぶ。どんなに仕事が忙しくても、母は必ず夕飯の前には家に戻ってきてくれていた。莉恩が一人で不安にならないようにと。だから今も、莉恩の帰りを待ってくれているはずだった。

 父の胸から逃れようと、小さい体を必死によじる。しかし父は、決してその腕を放そうとはしなかった。

 だから莉恩は、違和感を覚える。今の、この状況に。

を見てはいけない――。何故かそう、本能が知らせる。それなのに莉恩の体は、その警告を無視した。無茶苦茶に暴れた。怖かった。動いていないと恐怖に押し潰されてしまいそうで、じっとしていられなかった。

 知りたくないのに。それなのになぜか、勝手に動く体を止められない。

 父の一瞬の隙を突き、莉恩はその腕をすり抜けた。全力で走る。母の、元へと。

「………………!?」

 山際から差し込む西日に赤く照らされた庭先には、更に濃い朱が一面に飛び散っていた。

 目にしている光景の意味が分からずに。しばし呆然と、莉恩はその場に立ち尽くす。

「かわいそうに」「なんてことだ」「とんでもない」「獣の仕業か」「こんな殺され方を」

 周囲でざわめく人々の声ばかりが、妙にはっきりと耳に届く。

 ――それは、かつて母だったものの姿。

 頭は潰され、顔の判別はできなかった。切り裂かれた着物は血で朱に染まり、力なく投げ出された土気色の四肢が地面に横たわっている。

 身に付けた着物の柄から、唯一それが母だと判別できる程度。

 莉恩りおんの体は追い付いた父によって再び軽々と抱き上げられた。そうして莉恩の視界は、父の広い胸にすっぽりと遮られる。

 強く体を抱きしめる父の腕が痛くて。しかし父の様子があまりにも尋常ではなくて。莉恩は底知れぬ恐怖に身じろぎもできず身をすくめることしかできなかった。

 そんな莉恩の耳元で、父は囁く。

「……忘れろ」

 それは今まで聞いたこともないほどに低く、冷ややかな声だった。

 莉恩の緩んだ手から、それまでずっと握り締めていた虫篭むしかごが滑り落ちる。ことりと乾いた音を立て、それは地面に転がった。その拍子に籠の口が壊れて開く。中から、今日捕らえたばかりの蝶がひどく戸惑った様子でその顔を覗かせた。

 蝶が、空を見上げる。

 広がるのは、茜色に染まる山の稜線だ。

「…………あっ」

 思わず。莉恩の口から小さく声が漏れた。

 母に見せようと捕まえた蝶だ。莉恩がそれまで見た事のない、珍しい蝶。それはきっと、母も喜んでくれるはずの……。


 ――その母は、いまどこに……?。


 気付いて、混乱して。

 それ以上、言葉が続かなくなった。

 父が、痛いほどに強く。莉恩の体を抱きしめている。

「まって……」

 呟いた声は。誰に向けたものだったのか……。

 莉恩はその小さな手を、必死に蝶へと伸ばした。

 蝶が。

 茜色の空へ、ゆっくりと舞い上がっていく。

 どこまでも優雅に。しかし迷いなく。

 高く、高く。

 どこまでも空高く……。


 伸ばした莉恩りおんの手は……。


 ――その蝶へ、届くことはなかった。

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