山峡の十字路

@hiraoyanagi

#1

 安穏な休日前夜になるはずだった。

 口内を滑る温かい肉に応えながら、ぼんやりと思った。


***


 居所に上げた、かつての部下に組敷かれている。そのままかれこれ5分はキスをしている。

「ぅ、……っあ、ン…」

 ほんのり甘い舌に上顎をなぞられ、背筋が痺れるような心地がする。絡んだ唾液を音が出るようにして啜る。

 相手の後頭部辺りに、押さえつけられていない方の手を回した。火照っている。汗ばんだ髪はしっとりして柔らかい。掻き上げるようにして撫でてやると、一瞬びくりと肩を震わせ、上擦った声を漏らした。


 しかし、どうしてこうなったのだろう。

 ひっくり返ってしまった今晩の予想に思いを馳せたついでに、事の根本がふと気になりだす。

 同じ部課に居たときからよく自宅に泊めていた。最初は仕事が長引いた日だけだったが、都合がつけば用もなく迎え入れるようになった。食事は各自、風呂はタイミングが被らなければ構わない。同棲していた彼女の部屋が空いたままだったので、寝床の準備にも困らなかった。歯ブラシや着替えなどは買えばいい。

 何にせよ楽だった。今晩も帰りにちょうど出くわしたものだから、そのまま連れて来たのだ。


 変にスキンシップを求められるようになったのは、彼が異動してからになる。

 最初は確か、手を繋ぐことだった。それがハグだとか添い寝になっていたのが半年近く前で。


 そこまで考えて、当の宿泊人と目が合った。

「──あ」

 熱い吐息がかかる。離された唇をたるんだ銀糸が繋いでいた。思い出にかまけて、おざなりにしてしまっていたらしい。

 こちらの意識が逸れたのがお気に召さなかったのだろう。整った顔を僅かにしかめ、すぅ、と空気を吸い込むのが見えた。

 耳を塞ぐように両手を添え直され、先程よりもずっと奥まで舌を捩じ込まれる。思わずえずいて上体を丸めようとするが、のしかかられていて叶わない。苦しくって、瞼を閉じる。

 じゅる、くちゅ、ぢゅ、とねばついた水音が一層頭に響く。重たい。酸素も充たされないまま、覆い被さられた下でよじった身が、さらに快感を拾っていく。なぶられている。ちかちかする。目頭が熱くなり、涙が伝うのを感じた。


 下腹にも疼きを覚えてきたところで、急に彼は蹂躙をやめた。解放された身体は必死に息を吸う。舌先は名残惜しげに持ち上がったまま、外気に触れて少し冷たい。熱が募りかけた股座もじきに治まり、先走りが下着を湿らせていたのに気がつく。

 体温が離れる感覚がして、「やっぱり」と独りごちる声がする。目元や口を拭い、起き上がってみると、彼は向かい合うようにして、2人では狭いベッドにへたりこんでいる。そして、どこか不満げな顔で問うてきた。

「煙草、減らしましたよね」

「……はあ」

 喫煙の頻度について意識したつもりはなかった。

「君が言うならそうなんでしょう」

「はぐらかさないで下さい」

 他人事のようなこちらに反して、いつもより強いトーンが返ってくる。

 長い睫毛に縁取られた目を覗き込めば、恐れの色がありありと滲んでいた。眉を寄せてみせ、かろうじて強硬な表情を作っているといった様子だ。聞きたいことは煙草そのものではないのが見て取れる。

「減らすつもりはなかったんです。言われて初めて、俺も自覚できたというか」

 顔を逸らしてそう答えてやると、口をきゅっと結んで俯くのが横目で見えた。億劫そうに揺れる視線は昔から変わらない。

「──質問を変えます。何か……あったんですか」

 ここまで来ても、ありましたよね、と詰らないのが彼らしかった。


 顔色をうかがうのも上手い、仕事の飲み込みも早い、物分かりのいい子だった。何度も追想したことに再び浸る。顔が綻ぶのを抑えられない。

「ええ」

 そして、それゆえに。

「君には内緒です」

  惜しくて堪らなかった。


「高棟さん」

 泣き出しそうな声が振り絞られる。

「僕が、僕じゃ、力になれませんか」

 彼は身を乗り出すようにして側に座り直してきた。

 精悍ながらどこかあどけない、端正な顔が自分のために歪められている。仄暗い歓喜を享受しながら、その肩にもたれかかった。温かい。我ながら女々しい仕草だと思った。

「なっていますよ。十二分に」

「じゃあ、どうして」

「終わった話ですから」

「でも」

 一回りほど大きな彼の手が右手に重ねられた。滑らかな肌だ。その親指が手の甲まで伸びた熱傷の痕をなぞる。異動以来、ここでいつもすることの一つだった。

「貴方はまた変わってしまった」

「人はいつだって変化します」

 息を呑む音がした。突き放しすぎただろうか。

「……住野くん」

 顔を上げ、少し背伸びをする。呼ばれてこちらを向いた彼の口角に唇を押し当ててみせた。

 見開かれた瞳には、淡白な男の顔が半分ほど写っている。


「お願い、聞いてくれますか」

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