第6話 くるう

 道地君の注意が優先席に座っているおばあさんに注がれている。

 目を向けると、蟻地獄のような瞼の底から光るおばあさんの眼光が僕たちを捉えていた。


「コロ」

 

 おばあさんの喉から、あめ玉が奥歯にあたるような音が鳴る。明らかに僕らの方を向いて口を動かしているから、何かを伝えようとしているんだろうか。


「ばあさん、何だって?」


 道地君がかがみ込んで耳を近づけた。おばあさんはそれでも視線を少しもずらさない。つまり、僕を見据えている。


 また、おばあさんの喉からクァラ、コロ、と空気がはぜる音が鳴る。


「知り合いか?」


 道地君が振り向いたとき、おばあさんはようやく言葉を捕まえたように呟いた。


「くるぅ」


 次の瞬間、僕は物凄い力で床に引き倒され、硬いものに頭を打ち付けた。

 一瞬視界が真っ暗になって、鼻の奥でツンと血の匂いがする。


 すぐに道地君の叫び声で目を開いた。どうやら、頭をぶつけたのは運賃箱だったようだ。後頭部が猛烈に痛むが、血は出ていない。辺りの様子を見て、バスが停止していることが分かった。僕は急ブレーキの反動に叩きつけられたのだ。おばあさんの前で身を屈めていた道地君は何とか転倒を堪えたらしいが、おばあさんの肩を掴んで切羽詰まったように声を挙げている。


「おい、ばあさん! おい!」


 おばあさんは今の衝撃で頭をぶつけたのか、がっくりと首を曲げて力が抜けている。


 それから運転席の方に目を移して、ぎょっとした。運転手がブレーキとアクセルを、足をピンと突っ張って踏み込んでいるのだ。それどころか、運転席から腰が浮くほど背中をのけぞらせ、小刻みに震えている。


 僕の脳天から、さっと血の気が退いていく感触が走った。


「道地君、運転手が発作を起こしてるよ!」


「何だと? こっちもだぞ!」


 こっちも? 言われて道地君が支えるおばあさんをよく見ると、うなだれていながら口から泡を吹いて震えている。

 何が起こっているんだ――と思考が走ったところで、二度目の大きな衝撃が来た。今度は横に対する揺れで、運賃箱の下で起き上がりかけていた僕は、今度はバスの出入口にもろに頭を打ち付けた。そして、今度こそ意識が深い眠りの底に陥ってしまった。


 *


 目を覚ますと、辺り一面が白い。白いシーツ、白い壁、白い天井、白いカーテン。僕が横たわっているのは病室のベッドのようだ。ただし、カーテンの隙間から覗く外は真っ暗だ。


「お、目が覚めたみたいだね」


 視界の外から聞こえた声には憶えがある。


「伊代……?」


「久しぶりだね、南戸君。この間の同窓会以来だ」


 冴羽伊代は、ショートカットで中世的な顔立ちの美人だ。中学高校時代は宝塚の女優のように女子生徒からの人気を集めていたが、いかんせん極度のオカルト好きであり、怪しい研究会や部活動を立ち上げていたことから、彼女の噂を知る同年代以上の生徒からは距離を置かれる存在だった。

 まあ、ちょっと親しくなった人間をすぐにオカルト界隈に引き摺り込もうとする悪癖はあるものの、決して悪い人間ではない。彼女は、至極真剣に、社会正義のために、来る地球の滅亡を周囲に警告しているのだ。


「何で伊代がここに? というか、ここどこ?」


「市立病院だよ。で、私は近くで起こった大事故の話を聞いてここまで来たのさ」


「大事故? というか、道地君は?」


「田原君は一旦署に戻るって言って、私に君を任せて行ったよ。憶えてない? 丁度君たちがバスに乗っていた時間帯に、たくさんの人がいきなり倒れたんだ。君たちの乗っていたバスはまず運転手が昏倒して、交差点の真ん中で止まっちゃってね。それから同じようにドライバーが意識不明になった一般車両が二、三とバスの横っ腹に突っ込んだってわけ」


 僕は、一瞬いつもの伊代の悪い癖が出たのだと思った。現実で起こるどんな事象もオカルト的な解釈をしてしまうのだ。しかし、病院全体を包む慌ただしさに気付いてその考えを撤回した。

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