第二話
獣、彼の名前は、ユーネという。
その名前はウィステリアが与えたものだが、彼はとても気に入っていた。
ユーネとはYUNE。つまり奈落のネザアスの本名、ユウレッド=ネザアスの公式省略名、つまり通称である。
ネザアス本人は、箔がつかないと嫌がっていたが、ユーネはその名前を与えられて喜んでいた。
思い出の中のユーネはいつでも無邪気だ。
灯台の島に赴任していた時に出会った、
本来は、ウィステリア達が倒さなければならない敵だった。
しかし、そんな彼はいわゆるところの”悪意”に染まっていないらしく、ほかの泥の獣と違って彼女を襲うことはなく、彼女の声に聞き惚れて毎日歌を聞きに来ていた。
そして、やがて彼女と言葉を交わし、交流するようになっていた。
ユーネとウィステリアは、一年あまりの月日を一緒に過ごした。
孤独な灯台守の魔女のウィステリアにとって、ユーネと過ごした日々は幸せなものだった。
「ウィス、ふわふわ降ってきタ!」
ユーネの大きな一つの目が、キラキラに輝いて白い雪をとらえる。
「ふわふわ、キレい!」
その冬は、ユーネがそばにいた。
今日はそれほど汚染の濃度が高くないので、多少なら外出できる。
元より、ユーネは泥の獣。彼は基本的に感染の危険はない。外に出ていきたいらしく、うずうずしている。
ユーネは、地上で見る雪に興奮しているようだった。
「すごイ! おレ、雪、陸でみるノ初めてダな!」
また大きな目をしばたかせて、ユーネは雪を見上げた。きらきらとした目がかわいい。
「そうなんだ。ユーさんは、冬も海でいたの?」
「んー、まあ、ダイタい。安全ダシ」
「海では寒くなかった?」
「海は、結構アタタカだからなー。それニ、おレ、温度感じルの鈍イ」
ユーネはにこりとした。
「ウィス、遊んでキテいイ? おレ、雪だルまつくルー!」
「いいわよ。私も傘を探して後で行くね」
「ん! サキ、行ってルな!」
ユーネはそういうと、するーりと這うようにして庭のほうに出て行った。
(雪かあ)
かえすがえすも
雨と同じく雪が降ると家に引き篭もる為、ウィステリアには、雪の思い出はあまり多くない。
ウィステリアは傘を持ったまま、庭に出た。
今日はまだあまり汚染されていない雪だったから、思わず傘をささないままに外に出てみる。ふんわりとした冷たいものが、肩の上に降り積もる。
(そう考えると、あんまりじっくり雪を見たことがなかったな)
一面の銀世界を見たのは、そういえば、この
その時には側に、彼、黒騎士奈落のネザアスがいた。
テーマパーク奈落での冒険は、いつでも隣に黒騎士奈落のネザアスとその小鳥がいたものだった。彼女は彼に守られていた。
見捨てられた遊園地廃墟、奈落。
ウィステリアが訪れた頃には、そこは汚染もひどく、強化兵士でなければ足を踏み入れられない場所だった。
そこで降る雪は汚染されていたが、スノードームと彼が呼んでいたアトラクションでは、汚染されていない作り物の雪が降り、そして積もった。雪は作り物だが溶けていくものだった。
奈落には、花札がテーマの十二の広大なエリアが存在した。そこが汚染された結果、泥の獣が蔓延り、行き来に支障をきたす事態となっており、彼らは任務達成のため目的地のある師走エリアまで霜月から季節を遡る形で巡る必要があった。
よって、最も汚染が激しく、荒れ果てていた師走のエリアでは、敵との激しい攻防が続き、手練れのネザアスですら苦戦を強いられるほどだったが、それでも、少しぐらいは遊ぶ時間があって、スノードームでは平穏な時間が流れた。そこで、ネザアスと一緒に雪で遊んだのだ。
そりで遊んだり、雪だるまを作ったり。
「でっかいスノードームみたいなもんなんだ、ここは」
奈落のネザアスは、そう言って笑ったものだ。いつも通り、派手な着物と袴を身につけた彼は、機械仕掛けの小鳥のスワロを肩にのせていた。
「そうだ。お前はスノードーム好きか?」
「うん。綺麗だよね」
「そうか。本当はな、ここのエリア、スノードームが土産の目玉だったんだ。色々あったんだぜ。今は見たのとおり、店ごと破壊されちまったけど、でもまだ探せばあるかも知れねえから」
ネザアスは照れたように笑っていった。
「今度、お前にぴったりの、とっておきのスノードーム探しておいてやるよ。この間見ていた綺麗でかわいいやつ」
「あ! もしかして、あの?」
師走の売店のスノードームは、売店ごと潰されていたから、在庫も全部割れてしまっていた。
荒れ果てた店の中で、割れたそれらを見たことを彼女は思い出していた。
その中に一つ、ウィステリアを思わせる少女が傘をさした男と楽しげに歩いているものがあった。ウィステリアが初めてネザアスと出会った時は、雨が降っていて、ネザアスは彼女に傘を差し掛けてくれた。
それなもので、ドームは割れて失われていたけれど、まるで自分とネザアスのようだと思ってじっと見ていたのを、ネザアスは覚えていたのだろう。
「あれが無事なら良かったんだがな。でも、在庫まだあるかもしれねえし、暇な時に探しておくからな」
「本当! 楽しみにしているね、ネザアスさん」
その後、激戦を繰り広げながら、彼女と奈落のネザアスは任務を達成した。
彼とはそこで別れて、その後連絡も取れないまま、ネザアスは死んでしまった。
だから、ネザアスは、スノードームを彼女に手渡してくれることはなかったのだった。
(ネザアスさんは、あの、スノードームのこと、覚えてくれてたのかなあ)
そんなことを思い出しながら、ささない傘を手にしたまま、庭でウィステリアはたたずむ。
雪は気持ちを感傷的にさせてしまうものだ。
ここは奈落のネザアスが最期に暮らした場所だ。彼が溶けていった海を見やり、ウィステリアはぎゅっと傘の柄をにぎる。
(ネザアスさんも、雪をどこかで見ているのかなあ)
と、不意に、その傘を横から手にしたものがいた。にゅっと黒い手が横から出てきて傘を奪う。
「ウィス、濡れチャウ」
ユーネの声が間近で聞こえ、頭上でぽんとジャンプ傘が開いた。
「ウィスは、雪ニあんまリ、触ったラだめ」
声帯が壊れている彼のそれは、ハスキーでかすれて歪んでいたが、ユーネの声はほんのりと渋くて色気がある。
どきっとして見上げると、いつの間にか人の姿になったユーネが立っていた。
彼がにこっと笑う。
「傘ハ開かないトだめダゾー。ウィス、ぼんやり」
「え、ええっ、ああ、そ、そうね」
そこには人間の姿の彼がいて、ウィステリアは思わず動揺してしまうのだった。
本当に、先ほど遊びに行ったときは黒い泥の獣の姿で、ほとんどスライムみたいだったのに。いつの間に人の姿になったのだろう。
ネザアスの残した血文字の書かれた紙を取り込んでから、ユーネはほぼ完璧な人の姿を取れるようになっていた。
ウィステリアの前で裸で現れるわけにはいかないので、ユーネは人の姿になった時のため、近ごろは着替えを持ち歩いていたので、雪で遊んでいる間に姿を変えて着替えたのだろうか。
いつの間にか人間の姿になって、スウェットの上下を着ている。
顔の右半分は、まだうまく人の姿になり切れなくて、黒物質の黒い色が残ってしまっているが、それにしても、人の姿のユーネはネザアスにそっくりで、間近で見るとドキリとしてしまうことがある。
ネザアスもユーネも自分のこわもてに悩んでいたけれど、怖い顔な一方、彼らはなかなかの男前ではあるのだ。
そんな彼に、子供みたいに無邪気に微笑まれると逆にどきりとしてしまう。
「おレが傘さしておイてヤルなー」
ユーネは、ネザアスと同じ夕方の海の色をした瞳で、優しい視線をウィステリアに向けるのだった。その視線に、ウィステリアはどぎまぎしてしまう。
「あ、ありがとう」
ウィステリアが慌ててそう答えると、ユーネはあくまで優しく無邪気ににこにこ笑ってくれる。
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