25 淫欲の悪魔

 ここは東京某所の公園にある公衆便所。

 そこで一人の女が首を吊ろうとしている。

 女は縄の輪に首を入れ、バケツを蹴った。

 荒縄がほっそりした白い首に食い込み、無残な傷がつく。

 最期の息が吐きだされる直前、彼女は幻のような声を聞いた。


 「アオイよ、哀れな娘よ」


 それは慈悲深い女神のような声だった。


 「悲しい子。

 稲荷神を失い、人間の男にも捨てられたか」


 「は・・・い・・・」


 かすれた奇妙な声が出た。

 と同時に、黒木静磨とその家族への煮えたぎるような憎悪が再燃する。

 それは文字通り、彼女の身体を真っ黒な炎で包んだ。

 女神の声が再びこだました。


 「わらわがすくって・・・・やろう。

 黒木一家が憎いか?」


 アオイは考えた。

 昔、彼女には好きな男がいた。

 彼は同郷の者で、幼馴染だった。

 背の高い彫りの深い美男だったが、残念ながら就職に失敗してその日ぐらしをしていた。

 東京で再会した彼らは、何も言わずにその日のうちに体を重ねた。

 しかしその頃、アオイは会社の上司とも不倫関係にあった。

 昼間は上司と逢瀬を重ね、夜は幼馴染と関係を持つ。

 彼女は水泳部だったせいか、とても締まりがいいのだ。

 上司に気に入られ、かわいがられた挙句妊娠した。

 

 「堕ろしてはいけないよ」


 喫茶店で知り合った老婆に注意された。

 彼女も同郷の者で、上京して数十年、裏の情報にも通じた女だった。


 「この子は・・・どっちの子か分からないんです」


 アオイがうつむくと、老婆はにやりと笑った。

 

 「あんた若いから知らんだろうが」


 パンフレットを渡された。

 それには銀河稲荷社、と書かれている。


 「わっちらの故郷で古くから崇拝されている女神様や。

 書いてある通り、お稲荷様なんよ。

 彼女に祈れば、何でも望みを叶えることができる。

 でも・・・」


 老婆は声をひそめた。


 「女神さまは願いと同等の犠牲をお望みだ。

 願いが叶った暁には、あんたの大切な者が・・・召されるだろうて」


 「大切な者なんていないから」


 涙でむくんだ顔のアオイが言った。

 黒木に捨てられたら、明日から暮らしていける自信がない。

 彼女の望みとは、お腹の子供と共に至極幸せな生活を送ることだった。

 金銭的にも心情的にも苦労したくない。


 「道場においでや」


 老婆はアオイの背中をぽん、と軽く叩いた。

 会社帰り、しつこく絡む黒木静磨の手を払いつつ、アオイは銀河稲荷教の集会に顔を出してみた。

 そこは民家の地下室だった。

 信徒は生気のない青白い顔をした連中だ。

 大体40人ほどか。

 若年層から中年が多め。

 祝詞を上げたり体をゆすったりしている。

 祭壇には白い花がたくさん飾っており、中央には真鍮製の銀色のキツネ像が鎮座していた。

 教祖らしき者が入ってきた。

 30前後の若い女で、背の高い凄みのある美人だった。

 女だというのに、白い狩衣を着けている。

 キツネのようにつり上がったきれいな瞳がこちらを見ていた。

 

 「み、視える!」


 アオイは思わず言葉を発した。

 教祖の背後には、黒い大きな狐と銀色の小さな狐が控えているのだ。

 二つの獣は互いに仲が悪いらしく、牙をむいて威嚇し合っているが、教祖が一喝するとおとなしくなった。

 

 教祖は腕を横に広げ、お神酒を一杯飲みほした。

 薬っぽいにおいが充満し、彼女は白目を剥く。

 ふらふらしながら祝詞を上げ、側近の者たちが太鼓や鈴でリズムを刻んだ。

 電気が点滅し、停電になる。

 しかし、アオイにはみえた。

 教祖の女が黒銀の大ギツネに変化し、コーンと鳴いているのを。


 「我を信仰せよ。

 我に魂を捧げよ!」


 信者たちはあーともおーともつかない声を出し、ひれ伏した。

 彼らの頭から白い気が現れ、それらはキツネに吸い込まれていった。

 教祖/大ギツネは、エクスタシーを感じているかの如く白目を剥いたまま鳴いている。

 その夜、アオイは彼らの仲間となった。


 「ギンコンス・・・。

 裏切られた・・・」


 ぶら下がりつつ、アオイは泣いた。

 あれほど頑張ったのに。

 あれほど禁忌を犯し、人ならざる力を手に入れたというのに。

 憎い者は未だにぴんぴんしており、自分はと言えば托卵をなじられた挙句無一文で放り出された。

 異能も失った。


 死の間際、アオイは再び思い出した。


 美しい教祖は杉田という女だった。

 教団の掟に従い、動物を飼育しろと言ってきた。

 動物は哺乳類で、ケモノでなくてはいけない。

 それを通じて、銀河稲荷大明神のお力を受けるのだ、と。

 ケモノが弱ってきたら首を刎ね、稲荷に捧げる。

 そしてその血を飲まなくてはいけない。

 動物はあまり好きでありませんと言うと、教祖はじっとアオイを見つめた。


 「今度の日曜日、予定はある?」


 杉田に誘われたアオイは、ホテルの一室に連れ込まれ強姦された。

 無理やり愛人にされてしまったのだ。

 その時妊娠していたのだが、無理やり・・・。

 そう、杉田はペニスのない両性具有だったのだ。


 「この子を飼いなさい」


 教祖はアオイの目立ちつつある腹を優しくなで、言った。


 「私の精を浴びた。

 この子はおまえの愛人の子でもあり、私の子でもある。

 ギンコンスのいとし子、聖獣になるんだよ」


 そう言い、杉田はアオイの口を奪い、目玉を舐めた。

 目を清めてやる、と。

 言葉通り、その日からアオイは人ならざるモノがはっきりと見えるようになった。

 全てが思い通りになり、彼女は黒木静磨の二号としての地位を確立した。

 幼馴染の彼はその直後に不審死をしたが、もはや関係のないことだ。

 顔ばかりよくても財布カラッポの男に用はない。

 アオイはマンションに居を構え、生まれてきた子は認知してもらった。

 静磨の妻子を追い出し、同居までこぎつけたのに・・・。


 「黒木ユウマ・・・」


 アオイは断末魔の苦痛の中、思い出した。

 彼こそが嫡子だ。

 それだけでもはらわたが煮えくり返る。

 それに、この前ユウマを見た時の恐怖は計り知れぬものだった。


 彼は痛い!


 体中から発するオーラが、光線のように輝きアオイを突き刺した。

 日光に焼かれるバンパイアの気持ちがよく分かる。

 しかし肉体とはよく出来たもので、ポーカーフェイスを決めればバレずに済んだ。

 そして。


 「ユウジ。

 ああ、かわいそうな私の子供」


 幼馴染そっくりの優れた容姿の息子。

 杉田の精を浴びて、霊能力に優れた子。

 彼がユウマにやられてしまうなんて!

 ひそかにDNA鑑定していた静磨にも、もちろん殺意を抱いている。


 「憎いか?

 黒木ユウマが憎いか?」


 女神が蜜のように甘いねっとりした声でたたみかける。


 「がぁーっ!」


 アオイは縄をかきむしった。

 早まった。

 死ぬべきではなかった。

 生きて彼らを殺し、血をすすってやればよかった。

 残念ながら教祖で愛人の杉田美也子は何者かに殺され、ギンコンスは壊滅してしまったのだけれど。

 頼るべき人も神も、もはやいない。

 アオイは最期の時を迎え、むくんだ舌をだらりと出した。

 ボロ雑巾のようにぶら下がり、動かなくなる。


 「その言葉、忘れるべからず」


 声だけの女神は黒い霧でアオイを包んだ。

 心臓の部分に入っていくのが分かる。

 一度止まった鼓動が、再び動き出した。

 縄が外れ、勢いよく地面に落下する。


 「ううっ!」


 アオイは首のぐるりに付いた縄を解こうとした。

 しかしそれは食い込んだまま、どうあがいても外せない。


 「哀れな娘。

 おまえは一度死んだ身。

 今はわらわと共におるがよい。

 使命を果たした暁には、人間として復活させてやろう。

 失敗したならば・・・」


 縄がギリッと音を立てて食い込む。


 「娘よ、おまえは首縊りの霊として永遠を過ごすこととなる。

 地獄の奥底でな・・・!」


 禍々しい笑い声が頭の中に響き渡った。

 アオイは自らを見た。

 鏡がなくとも自分の姿が見えるのだ。


 それは黒紫色の鱗が体中に付いた悪魔だった。

 手足の指先には鋭い鉤爪。

 うねる真っ赤な髪の毛は・・・数百本のヘビ。

 背中には漆黒の翼。

 目は呪われた死人のように光る白目だった。

 そして、豊かな乳房。

 美しい曲線を描くすばらしいプロポーション。

 股に蠢くのは、太く黒い毒蛇だった。

 シューシューいきり立ち、紫色の瘴気を吐いている。

 死ぬときに漏らした糞尿が香ばしい。

 アオイが体についたそれを払うと、幻のように消え去った。


 「娘よ、わらわたちは美しい。

 男も女も、欲情するだろう。

 その美しさで、人間の精を集めよう。

 魂を糧とし、地上の女神となるのだ。

 とりあえずは、黒木ユウマの首を刈り取るとしようか」


 「うーっ!」


 アオイは賛同の鳴き声を上げた。

 もはや人の言葉は話せない。

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