第39話 推し、出現
「キャー」
隣の部屋から、か細い悲鳴が聞こえた。
全員が(いやディーだけは一瞬苦々しげな表情を浮かべたが)怪訝な顔をした。
あれ、絶対、姉だ。
「き、きっと女中か侍女の誰かですわ。お気になさらず」
姉はヘンリー・バーティ様の大ファンなのだ。
ダメだ。戦列から外れてしまうかもしれない。推しの出現で。肝心な時だってのに。
しかし、その時、ヘレンの顔が目に入った。
目がヘンリー・バーティ様の顔を凝視している。口元がちょっとゆるんでいる。
ヘンリー様が右を見ても左を見ても、ヘレンはネットリとした視線で、彼の顔を鑑賞し続けている。
確かにヘンリー様は破壊力抜群のイケメンだと思うけど!
しかも公爵家の次男という格付けでもあるけれど!
これは、一体、どういう現象?
「敵方も一名脱落しましたよね?」
隣のディーが小声で言った。
私はかすかにうなずいた。
「さあ、バラ園だ! バラ園を見に行こう!」
その場のなんとも微妙な空気を、前の状態に戻そうと、モリス氏が声を張り上げた。
彼もイケメンで長らく売ってきた男である。
そのほかに口八丁手八丁で有名だ。(手は余計だけど)
でも、ここは、その自信を打ち砕くいいチャンスではないだろうか?
私とディーは、二人して、まずモリス氏をモノでも見るかのように眺め、次に、ヘンリー様をうっとりと眺めるという戦法を採用した。
イケメン度で言えば、正直五分五分である。
しかし、ヘンリー様には若さと、騎士団所属という点から想像がつくみごとな筋肉がある(だろう。知らんけど)
さらに彼はチャキチャキの貴族の出身、唯一の欠点は身長不足だが、それとて騎士団にいれば低い方かもしれないが、一般人としてなら、それこそ普通である。
普通が一大弱点だなんて……。
ちょっと気の毒になってしまった。
いやいや、そんな物思いに
ディーと私はものものしくうなずき合い、アイコンタクトを取った。
『ここはヘンリー様の圧勝というスタンスで!』
『もちろんですわ! モリス氏には徹底的な敗北を!』
私たちは囁きあった。そして、モリス氏を完全無視して、この世の中には……ではない、この部屋の中には、ヘンリー・バーティ様しか存在しません!みたいな表情で、口を開いた。
「ヘンリー様、バラ園をご一緒なさいませんこと?」
私はヘンリー様だけを見つめて、こう言った。
「大した庭ではございません。バラもお見せするほどのものではありませんけれど」
「オホホホ。私もぜひご一緒させていただきたいですわ」
今度はディーが勢い込んで乗ってきた。
ディーはさすがの演技力、モリス氏の無視っぷりは堂に入っていて、ヘンリー様だけを見つめていた。
猫の額もびっくりの狭い庭である。
三人が歩き出したから、誰かが道路にはみ出そう。
バラだって、五、六本が勝手に生えているだけのようなものだ。
公爵家のバラ園に比べれば、問題外だろうが、今はそういう問題ではない。
「あの、私もこんな小さな庭のバラ園くらいなら、バラアレルギーも発症しないと思いますの」
ヘレンが熱心に言い出した。
しれっと、ついでに人の家の庭をディスらないでくれるかしら?
「あらあ! 先程はバラアレルギーで、バラは一切受け付けられないとかおっしゃってましたわよね」
ディーが声を張った。
「でも、せっかくのチャンスですもの」
一体、何のチャンスだって言うのかしら。
「でも、そうなると、モリス様がお一人になってしまうので、シャーロット様とモリス様のお二人はこの部屋に残っていてくださらない?」
指名なの? ヘレンの厚かましさときたら、超弩級だわ。
「モリス様が一人になるのが心配なら、ヘレン嬢がお残りになればいいのではありませんか? バラアレルギーですし」
と、ディーが言い、私も強く自分を主張した。
「バラ園にお誘いしたのは、私ですのよ? それこそヘレン嬢がバラアレルギーだとおっしゃるので」
男を誘ってみました。人生で初めて。その覚悟を簡単にノーカウントにして欲しくないわ!
「あなた方、私のことを忘れていないかい?」
弱々しくモリス氏の声がしたが、誰一人として取り合おうとはしなかった。
その時、ドアが開いて、侍女がお茶を持ってきた。
ディーと私の目が点になった。
入ってきたのは、姉のアマンダだ。
「お茶を持って参りました」
しとやかに彼女はお茶の用意を始めた。
どうしてだか、全員が圧倒されて押し黙った。
侍女の格好をしているというのに、どうして姉には謎の威圧感があるのかしら。
「お、おお。なかなかきれいな侍女を雇ってらっしゃる」
こんな余計な一言を口走ったのはモリス氏である。
もしかして威圧感好き? そんなフェチあったっけ。
「奥様、それではヘンリー・バーティ様にヘレン様を送っていただけば良いのでは?」
「え?」
「ヘレン・オースティン様、それでお差し支えないでしょうか?」
「おお、それはいいね! ちょうどいい」
モリス氏が、相好を崩して一も二もなく賛成した。
(おそらく)予定になかったヘンリー様を追っ払うよい機会である。
ヘレン嬢には、本来この家に残って何かすることがあったのだろうけど、ヘンリー・バーティ様の魅力には抗いがたかったらしい。
現在、腰砕けで、完全に戦線離脱している。
ヘンリー様はすばらしく魅力的な物件だ。騎士団繋がりもある。兄の負傷を盾にとれば騎士団の連中は、ヘレン嬢に冷たい対応をできないだろうという読みもあるのだろう。そんな過去の話を知らない、若いヘンリー・バーティ様に通用するのかどうかわからないけど。
(公爵家の令息に、どう言うつもりなの?)
とことん、厚かましいわ!
この提案に、彼女は見る間に機嫌が良くなった。仕事はどうした。
「まあ。もちろんですわ。よろしくお願いしますね? ヘンリー様」
ヘンリー様は露骨に嫌そうな顔をしていたが、姉は言い放った。
「この家の馬車は一台しかありませんから、今、セバスに辻馬車を呼びにやらせています。ヘンリー様は玄関まで送って差し上げてください」
ヘンリー様は、勝手にどんどん指令を飛ばす、このとんでもない侍女の顔を驚いて見つめたが、途端に気がついたらしい。私の姉のファーガソン伯爵夫人だと。
「ぜひ、そう致しましょう」
彼は丁重に言った。
「あら、玄関先までだなんて、道中が心配ですわ。家まで送ってくださらないのですか?」
ヘレンはあからさまに色目を使って、ヘンリー様の方へにじりよった。
「私ごときがご一緒させていただくなど、オースティン嬢の評判に傷がついてはいけませんから」
超訳すると、ヘレンごときと同乗して、ヘンリー様の評判に傷がついてはいけないからである。真逆だけど。
「そんなこと、お気になさらず。ぜひ、ご一緒させてくださいませ」
「今日はお召し物の件もありますし」
びしょ濡れのみすぼらしい格好で、同情を引くようにわざと騎士団の出入り口に立っていたのは彼女である。そのことをやんわりとヘンリー様は言ったのだが、ヘレン嬢は忘れていたのか、何を思ったのかにっこり笑って答えた。
「まあ、こんなドレス、大したものではありませんのよ。こんな部屋着みたいな格好、気が進まないのですけど、仕方ありませんわ」
そのドレスを貸したのは、私なんですけど? ディスらないでくれます?
「元のドレスに着替えますか?」
姉の声が冷たく響いた。
「借りてらっしゃることをお忘れのようでございますね」
侍女頭とかいたら、こんな感じかもしれない。超怖い。
人が言うことを聞かないではいられない、恐怖の威圧感がある。
でも、姉、偉い。すごく偉い。
ヘレンのような人物には、こうしなくちゃダメなんだ。
「その格好がお気に召さないなら、着替えてくださって結構ですわ。アン、メアリ、ヘレン嬢が来てらしたものをお持ちして」
アンが黙ってパタパタと走っていく音がした。
ヘレンもモリス氏も返事ができなかった。
「なんてひどい」
ヘレン嬢が涙目になって言い出した。
「ひどい侍女だわ。侍女の分際で。私に向かって」
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