第34話 あなたの噂を知っている。

翌朝、なんだか疲れて起きるのが遅くなった私は、またもやアンに、来客だと叩き起こされた。


「どなたですって?」


観劇に行った翌朝には、必ず誰か訪問して来る法則でもあるのかしら。


「ヘレン・オースティン嬢って、名乗ってます」


ヘレン・オースティン?


たちまち前の晩の思い出がよみがえった。


うわ、めんどくさい。


話を聞かないあの女か。自称旦那様の元恋人だ。


「用事はなんだって言っているの?」


思わず苛立って聞いてしまった。珍しく私がちょっとヒステリックなことにアンは驚いたらしい。


「ええ? 奥様から招待されたって言ってますけど?」




仕方ない。いったん家に通してしまったものを、追い出すのは面倒臭そう。


昨夜、差し障りのない話に終始しないで、旦那様からヘレン・オースティンについてもっと情報収集しておけば良かった。


聞かなかったのは、旦那様は気まずそうな顔をしていたから。聞かれたくないのかなと思ったの。


私は元々勘違い婚だと思っていた。


いつかは離婚するつもりだった。


でも、今はちょっと違う。



「思っていたより、強敵だわよね、オースティン嬢」


話を聞かない、勝手を通すという意味で。


理屈が通用しない。


「それにしても、なんの用事かしら」



客間のドアを開けると、上品そうな朝のドレスに身を包んだヘレン嬢が座っていた。


「お待たせしました」


そうあいさつすると、ヘレンはにっこり笑った。


「いいえ。たいして待っていませんわ」


勝手に来たくせに。


私はソファーに座ってヘレン嬢を見つめた。


ヘレン嬢は、じっと私を見つめたかと思うと、真剣な様子で話を始めた。


「実は本日お邪魔したのは、あなたについて聞き捨てならない話を聞いたからなの」


これには本気でびっくりした。


私について、聞き捨てならない噂?


「どんな噂ですか?」


まさか、私が旦那様と論戦を張ったとかいう話じゃないわよね。それとも、雨樋あまといを登った話かしら。あれは、知られると確かにまずいわ。令夫人がやることじゃありませんて、姉に叱られたもの。マーガレット様なら大爆笑しそうだけれど。


ヘレン嬢はニヤリと笑った。


「お知りになりたい?」


「そうですね……」


私はためらった。


そこまで、大問題の噂ではないと思う。それなら、今頃、姉が駆けつけているはずだ。

ヘレン嬢の情報収集力がどれほどのものか知らないが、姉を馬鹿にしてもらっては困る。

姉には、そのほかにハリソン夫人だってついているのだ。



「噂って、本人のところには決して伝わらないものなのよ?」


あながち、そうでもないと思うわ。


私は姉を思い浮かべた。私にとって、どんなに都合が悪いうわさでも容赦なく伝えてきそう。身内なだけに。


「誰だって、不快な話を相手に聞かせたいなんて考えないでしょ? でもね、知らない間にとんでもないことが広がっていたりするわ。気をつけないとね」


「どんなお話でしょう」


ヘレンはふふっと笑った。


「あなたのご主人に聞こえたら、あなたの立場が危なくなるようなお話」


「え?」


そんな話、つい二週間ほど前に持ち込まれたら、私、あなたの言葉に動揺したかもしれない。


でも、今は、旦那様と一緒の時間をたった二週間だけど過ごした。


言葉もあるけど、態度や振る舞いの端々から、なんとなく感じるものがある。


ヘレン・オースティン嬢の話は、昔の話だ。その頃、旦那様はもしかするとヘレン嬢が言う通り、ヘレン嬢に求婚していたかもしれない。


だけど、大事なのは今。


あなたが知らない旦那様を私は知っている。



でも、せっかくだから、不安そうな顔をしてみることにした。


「どんなお話ですか?」


意地悪そうにヘレンは赤い唇を歪めた。


「あなた、実は、モリス氏を家に引き入れているでしょう?」


私はびっくりした。


モリス氏は、前回、オペラハウスに行った翌朝、当家を訪問してきた。


これはどういうこと?


どうして知っているのかしら?


「見られたのは、一度だけだけど、この家に来たのは、そんな回数ではないわよね」


誰がヘレン嬢にモリス氏の行動を教えたのだろう?


ルートとしては二つ考えられる。


一つは、直接、ヘレン嬢がモリス氏から情報を入手した場合。


もう一つは、ヘンリー・バーティだ。モリス氏のすぐ後にやってきた。旦那様は、自分の命令で監視していたのだと言って、気にも留めていなかったが、もし、ヘレン・オースティン嬢と繋がりがあるとしたら?


「だいぶ、混乱しているようだけど……」


ヘンリー・バーティの線は薄い。薄いけれども否定しきれない。


ヘレン・オースティン嬢は、私がびっくりしていると思ったらしい。口元に微笑みを浮かべながら教えてくれる。


「ゴードンが知ったらどう思うかしら? 早くも、浮気だなんて。知られたくないなら、私をお茶にお呼びなさいな。知られない方法を一緒に考えてあげるわ」


「でも、私、モリス氏なんか知りませんわ。一度、ここへお見えになっただけですもの」


ヘレン・オースティン嬢は鼻でせせら笑った。


「あなたねえ……世の中をなめているわ。男性を家に引き入れるなんて、どう誤解されても仕方がない事なのよ?」


「一回訪問されたくらいで、そこまで噂になるとは思いませんわ」


私は言ってみた。


ヘンリー・バーティと繋がっているのだとしたら、そちらの方が困る。


どうせモリス氏の証言なんか誰も信じないに決まっている。


だが、ヘンリー・バーティの証言は違うだろう。公爵家の御曹司で、地位も名誉もある人物だ。信じる人がいると思う。旦那様も信じていた。


だけどその線は薄そう。ヘンリーはこんな女性と関わりを持たないだろう。


「でも、本人がそう言っているのよ」


「本人って、どなたのことですか?」


「モリス氏よ。覚えがあるでしょう? 違うとは言わせないわ」


脅しなのか。この身ぎれいな若い女性は、結構なタマだった。私はさすがに寒くなってきた。


この人の方が私より歳は上だろう。旦那様の若い頃を知っているくらいだもの。


「ゴードンだって、証拠を目の前に突き出されたら、信じないないわけにはいかないでしょうし、社交界の奥方様たちはこういった噂を好むものなのよ」



「ちょっと! 黙って聞いてりゃ!」


なぜか突然ドアが開いた。


私もだが、ヘレンも仰天したらしい。


アンが真っ赤になって立っていた。


「こんな奥手で、男性恐怖症な奥様が男性に手を出すわけないじゃありませんか! 人を見る目のない」


いや、止めて! 余計な事実をバラさないで!


「しかも、この奥様、猛烈に舌が回るんですよ? その気になりゃ。あなたと頭の回転度数が違うんですから!」


それもなんかおかしい。ほめてるつもりなの? ていうか、せっかく間抜けのフリしてるのに、ぶち壊しにしないで。警戒されたくないのよ。


ヘレン嬢は真っ赤になった。


「こんな無礼な侍女を見たことがないわ。ドアの外で聞き耳を立ててただなんて、最低よ!」


侍女じゃなくて女中です。第一、使用人に、そこ、求めます? 聞き耳は、使用人の心得その一じゃないですか? ご主人の動向は、いつも使用人の好奇心の的ですよね? そこをどうかわすかは、永遠のテーマですよ。


うん。この人、使用人を使ったことがないんだわ。


「あなたもなんとか言ったらどうなの? ボーッとしてないで」


怒ったヘレン嬢の矛先に私に向いた。


「侍女のしつけがまるでなっていないわ!」


えーと、何をどう言えば?


女中であって侍女ではないとか?


「この侍女、何をトチ狂ったか、無関係なところであなたを褒めてるわ。おかしいじゃないの」


「ま、まあ、とりあえず、ええと……?」


うん。この調子ならお茶会は呼ばなくて済みそう。アンがお茶を配って歩くんだったら、ヘレン嬢はお茶どころか、水一杯もらえなさそう。


「お客さまを罵るってどういうことよ?」


「罵られるだけのことを言ってるじゃないですか! それ、立派な恐喝ですよ?」


あら。会話が成立しているわ。


「恐喝されるようなことを仕出かすからいけないのよ! 男を引き込むだなんて、ゴードンがかわいそうよ。もっと良い嫁でなくちゃ」


そういうと彼女は自慢らしい金髪を撫でた。


良い嫁って、自分のことかい。













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