第14話 大根価格の市場調査
旦那様は黙っていた。ずっと黙っていた。
「誤解って、つまり誰か他の女性を探していたのに、間違ってあなたと結婚してしまったと?」
私はうなずいた。
壮大な間違いだ。
私は求められた人ではないのだ。
そう思うたびに、ちょっとズキリとするのは、なぜだかよくわからないけど。
でも、誰かに求められたいという気持ちは誰にでもあると思う。必要にされたいと。
私はにっこりと作り笑いを旦那様に見せた。
暗い顔を見せられて嬉しい人はいない。
誤解だとわかった今、旦那様を喜ばせる事は私の義務だ。なぜなら、旦那様は私をちゃんと扱ってくれたから。
だから、私も旦那様にはきちんと返してから去ろうと思う。
「早速、あの時の名簿を作りますわ」
私は旦那様に微笑みかけながら言った。でも、旦那様は黙っている。
「今度は推測ではなく、ちゃんとした調査をいたしましょう。旦那様には申し訳ないことをしました」
旦那様は、乗り気になるだろうと……私はドキドキしていた。
私だと、きっとどこか違和感があったと思う。そういう訳だったのかと、納得して、私の調査に期待して喜んでくださるだろう。
勘違いで妻になったことが、最初よりも結婚した今の方が悲しく感じられるのはなぜかしら。
だけど、事実は事実。
私は感情を押し殺して、笑いを顔に張り付けていた。
「それよりも、私は大根の値段を調べに行きたいのだがね」
旦那様は、しばらく黙っていたけれど、唐突にこんなことを言いだした。
私はびっくりした。
「だ、大根?」
「あと、じゃがいもも」
旦那様は全く平静だった。
なんの話だろう。
私の今の話、聞いてくださっていたのかしら。私はかなりあわてた。
「本来なら、ドレスの発注をしなくてはいけない時期なのだが……」
「なんのドレスですか?」
「マクスジャージー家からお招きいただいた、侯爵位移譲のパーティ参加のためのドレスだ。田舎の館に招待されている。数日間、泊まるんだったら相当数のドレスがいる。同じものばかりは着られないだろう?」
ええと、確かに困ると言えば困る。
当家の家庭の事情に関係なく、パーティは容赦なく開催されるし、面目や旦那様の勤務の関係を考えると、絶対、出席しなくちゃいけない。
たとえ旦那様のパートナーが私ではないにしても。
「本当にそれは困りましたわね」
私はため息をついた。すぐに本物の思い人が見つかるとしても、果たしてドレスの発注に間に合うかどうか。
「だが、それより先に大根の値段について、どちらの主張が正しいのか、確認しに行かなくてはならない」
また大根ですか……私は、旦那様の顔をまじまじと眺めた。
大根の値段の調査とは……?
それは、今しなくてはいけないことなのかしら?
「メアリも連れて行くのですか?」
「いいや。メアリを連れて行っては、不公平だろう。メアリは大根価格は、一本二千円から五千円(日本語訳)と主張していて、あなたの言い分と異なっている。これは、いわば事実確認のための市場調査だから」
「市場調査……」
さっぱり訳がわからなかったが、ここで逆らうのもナンだったので、私はうなずいた。
これでもし、大根には大金を貢ぐだけの値打ちがあるとか言われたら、どうしたらいいのかしら。
「では、明日朝、早くに出たいので、早く寝るように」
旦那様は自分のベッドを指した。
「あなたはここで。私はソファーで十分寝られるから」
「とんでもございません」
私は慌てた。
「私は屋根裏部屋で十分です」
「ダメだ」
旦那様の声が急に厳しくなった。
「この部屋以外で寝てはならない。
不逞の輩が、この邸内にいるのですか?
申し上げにくいのですが、一番、不逞の輩なのは、旦那様では?
「はあ……」
「あなたには、私のベッドを提供しよう。私はソファーで寝るから」
旦那様は譲る気はないらしい。
「そんな失礼なことを。旦那様をソファーで寝かせるだなんて……」
失礼より先に嫌だわ。旦那様のベッドで寝るなんて。
しかし、旦那様はこの点については頑固だった。
「そんな事で、明日の大根の価格調査に支障が出ては困る」
大根の価格調査って、そんなにも大事なことなのかしら?
「早く寝なさい」
旦那様って騎士様よね? 騎士様が、大根の価格に興味があるとはとても思えないんだけど。
翌朝、旦那様は異常に張り切って、異常に早起きしたらしい。
私が起きた時には、バスルームから腰にタオルを巻きつけただけの格好で旦那様は出現した。
恥じらいというものはないのだろうか。
仮にも女性の前にハダカで現れるとは。
まあ、私がこれをやったら大問題になるところだが、男性は大丈夫なのだろう。
もちろん、品のある良家の子女が観察するようなブツではないので、見なかったことにする。
臭いものにはフタだ。
「さあ、早く起きて」
大根調査なのに……? なにゆえに、そのやる気?
「あなたも早く支度しなさい」
この時点でハッと気がついた。
私は、着る服がなかった。
部屋着は、ちょうど洗濯していた服が乾いて手元に返って来ていたので、家の中で過ごす分には問題なかった。夜着もだ。だから、自分の部屋の衣装部屋の衣装を取り出す必要がなかったのだが、今日は、外出着が必要だ。
外出着は、全部、私の寝室に付属した衣裳部屋にしまってある。衣装部屋には、寝室を通らないと入れない。
「旦那様。私、私の部屋に服を全部置いていますの。外へ来ていく服がありませんわ」
この言い訳で、行かなくても済むんじゃないだろうか。
なんだったら、メアリでもアンでも、連れて行ってくれて構わない。
大根戦争の行く末なんか、さほど重要ではないだろう。
というのも、マーガレット様からのお手紙で、誤解の理由も、今後の方針も立派に決まったからだ。
私が間違って推薦された理由は、マーガレット様の自信満々の誤解ですね。
そして、今度は私が旦那様の恋のお手伝いをする。
女学校の線を辿れば、旦那様が気に入ったという女性の正体がわかる。
正直、特定できなくてもいいと思っている。
データだけキチンと整備すれば、あとは旦那様の問題だ。その中から、意中の方を探せばいいのだ。それで私の仕事は終了すると思う。
私の知っているマーガレット様は、おおらかで優しい方だが、大貴族だけあって、こんな事務作業は得意でないのだ。
私を侍女にしてくだされば、こんな調査、ばっちりなのに。抜けも間違いもあり得ない。今回のようなミスも起きなかったはずだと思う。
でも、おかげで既婚婦人の称号を得た私は生涯にわたって、一応は求められたことのある女性という(偽の)称号を得ることができた。これくらいの作業は大したことない。
できるだけ早く済ませたいと思っているし、そのためには大根の市場価格の調査の方は、できれば遠慮したい。
家計費の問題も、この家にいるうちに解決しておきたかったが、大根の値段については私の意見が通ったと思っていたのに、今頃になって、旦那様がメアリの意見の正否を蒸し返してきた。
だが、家計費は、本当の憧れの女性が見つかれば、その方になんとかしてもらうのが筋だろう。
その方を妻に求めるだろうから。
下手に私が手出しした後だと、その方が不快に思われるかもしれない。
「ドレスがありませんので、お供できませんわ、旦那様。まことに申し訳ないのですけれど」
旦那様は文字通り目を剥いた。
旦那様にとっても、予想外だったらしい。
私はこの時、初めてつくづく旦那様の顔を見た。
あれ?
この人、思っていたより若い。
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