第9話 勘違いを旦那様に告白する
離婚の話になるとばかり思ったのに。
旦那様は間抜けヅラを晒しているに違いない私の顔を、興味ありそうに覗き込んだ。
「それにしても、あなたは相変わらずだな。どうやって二階の自分の部屋を抜け出したのだ」
その質問は危険だ。無視するに限る。
どうでもいいし、とにかく旦那様の部屋に滞在しているだなんて、危険極まりない。
ただ、もう、顔は見られてしまっている。
別人だということは間違いがなかった。
だって、旦那様は「相変わらずだ」とか、おかしなことを言っているが、私の方は旦那様の顔にまるきり見覚えがなかったからだ。
完全に他人。知り合いでもなんでもない。もっとも、私は人の顔の覚えがいい方ではないけれど。
敵対する公爵家の一味の令嬢方の顔は徹底して覚えた。ドレスも装飾品もだ。ほつれていたり、宝飾品が安物だったりしたら、すかさず攻撃しなくてはならない。
もちろん、それが上品でないことは重々わかっていた。
そういうことは、あくまで相手方に何か言われた時の反撃材料として取っておくのである。
なにしろ、ウチの女学院は、亡くなられた先々代の王太后様が亡き夫を
で、話は
社交界には確かに出入りしていたが、参加回数はできるだけ抑え、できるだけ目立たず、目を合わさず、背中をむけ、突然何気なくあらぬ
女学院は、当然、完全男性シャットダウンだ。
妙齢の貴族の子女を預かっているのだ。
万全の体制を敷いている。心の底から安心できる環境だった。
この、目の前の、見たこともない男が、邸内を自由自在に
今の私の安息の地は、鍵がかかる自室だけだ。
「誠に失礼いたしました。旦那様がお忙しいことは重々承知しております。本日のご出勤に差し支えがあってはなりません。是非とも、御出立くださいませ」
麗々しく、足を引いて頭を下げた。
「え? いや、今日は休みで……」
「鍛錬を欠かさないところは
「ええと、一緒に朝食を食べないか? 食堂に準備している……」
「まあ、誠に恐れ多いことを。とんでもないことでございます。昨晩から大変なご迷惑をおかけしております……」
だんだん旦那様の機嫌が悪化してきた。
まあ、普通はそうだろう。
「一体なにを言っている。どうして話を聞かないのか。
そうして、旦那様はグッと私の腕を掴むと力づくで食堂へ降りていった。
こうなるのだろうと思ってはいたが、どうしてこうなるのだろう。
私は情けない思いで、一段一段、階段を引きずられるようにしながら、降りていった。
「あの、旦那様」
「なんだ」
「旦那様は勘違いをされています」
階段を降りながら、もはやこれまでと腹を
きちんと事実を伝えさえすれば、私はこの結婚から逃れられる。
腕を掴まれたり、肩をユサユサ揺すぶられたり、恐怖の生き物から色々されたが、この際不問に付そう。そして忘れよう。
気の毒な旦那様。
どうして、こんなひどい勘違いをしたのだろう。
何か事情があったのだろうと思うけれど、私は別に旦那様の不幸を願っているのではないのだ。
ちょっと巻き込まれ事故みたいなもので、これで(元)既婚夫人という箔が付くし、旦那様の機嫌を損ねさえしなければ、母の
これは、ラッキー、これはラッキー。私は口の中で繰り返した。
そのためには旦那様の誤解を解かねばならない。
せ、説明をしなくてはならない。
お話を……顔を見てお話を……
顔……旦那様、顔が怖いです。
だんだん私はしどろもどろになってきた。
「旦那様は勘違いをされています」
旦那様がものすごく怪訝な顔になってきた。
無理もないわ。
旦那様だって、会ったこともない女性と結婚したことになっているだなんて思っていなかったでしょうし。
「旦那様の奥様は、私では無いのです」
「えっ?」
「シャーロット・マクダニエルは、旦那様の最愛の方でもなければ、偽装結婚の相手でもありません」
「偽装結婚?」
「もしかして、大事に思う方がいらっしゃるのでしょう? 私はお邪魔しませんが、そもそも、お相手が間違っているのです」
「いや。……そんなことはない」
そんなことはあります。
だって、私は会ったこともないのですもの。
「とにかく、本当に申し訳ないことをしました。この結婚が誤解の上に成り立っていることはよくわかっていました。しかし、妻の座欲しさに了承してしまった私は……」
ここまでしゃべって気がついた。この論法では、慰謝料がもらえない。
「しかし、立派な騎士様から求婚されたのがとても嬉しくて……」
これもダメだ。この論法だと離婚できないかも知れない。そんなに好きなら第二夫人に……とかなったら、この家から出られなくなる。
「嬉しくてというか、お断りするような話ではないので、うっかり了承してしまいました」
旦那様はものすごく機嫌が悪くなった。うっかりがいけなかったかしら。
「そんなに不満か。そういえば、散々、前にも罵られたな」
前って、いつの話? なにか話したっけ?
多分、私のことではないのだ。誰だか知らないけど、本当に申し込みいたかった別の方の話だ。
……でも、罵られたって、旦那様、もしかすると女の趣味が特殊なのでは?
「私の方は、あなたで良いと思って結婚したのだ」
「それがですね……実は人違いなのでございます。もっと、早くにお伝えするべきでした。かくなるうえは早期の離婚が望ましいかと存じます」
旦那様は、訳が分からなくなったらしく、目が泳ぎ出した。
「申し訳ございません……」
私は心から謝った。
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